フリードリッヒ・アウグスト・フォン・ハイエク (Friedrich August von Hayek), 1889-1992

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 20世紀の経済学者の中で、もっとも壮大かつ洞察にとんだ人物の一人であるフリードリッヒ・A・フォン・ハイエクは、大いなるライバル J.M. ケインズに比肩する唯一の人物だ。ウィーンのオーストリア学派の流れでヴィーゼルベーム=バヴェルクに師事したが、経済学の殿堂の中では独自の地位を築いている——友人にして知的同志たるルードヴィヒ・フォン・ミーゼスよりも、ある面ではオーストリア学派から遠いとさえ言える。

 初期の根本的な貢献(たとえば1928年論文は、完全に期間をまたがる均衡の概念を導入したとされることが多い)、の後で、ハイエクの初期の業績は主に 金融周期理論に関するものだった (1929, 1931, 1939)。クヌート・ヴィクセル「累積過程」と大陸の伝統による多部門過剰投資モデルを使って、ハイエクは金融によって貯蓄より大きな投資が可能になっても、人々が望む投資や消費需要は、実際の産出で満足されることはないと論じた——したがってそこには「強制貯蓄」が発生し、「資本集中度」の度合いが変わり(ここでの資本というのは、きわめて オーストリア学派的な意味だ)、それが産出と雇用を変える、というのだ。だが消費財メーカーに対して消費需要が与えられないと、資本財の需要は続かないので、強制貯蓄は持続不可能だ。したがって産出は低下し、結果として資本集中度は下がる。ハイエクによれば、この「折りたたみ式」プロセスこそがビジネスサイクル/景気循環の原動力なのだという。

 ハイエクは金融サイクル理論に関する主要議論を、『価格と生産』(1931) という薄い本にしてイギリスで発表し、すぐさまロビンス卿に勧誘されてL.S.E.にやってきた——そこで当時似たような問題に取り組んでいたケンブリッジのジョン・メイナード・ケインズに対する、LSEとしての答を編み出すことになる。ケインズは『お金の理論』(1930) に対するハイエクの批判を重視して、スラッファと手を組んで、ハイエクとそのサイクル理論を1932年に Economic Journal でたたきつぶした。

 L.S.E.で、ハイエクは当時目新しかった「大陸的」な理論を普及させるのに貢献し、若手同僚(たとえばヒックス) や学生 (たとえば ラーナーカルドア)には大きな影響を与えた。だがJ.M. ケインズ『一般理論』 (1936) の登場で、ラーナーとカルドアは、他の経済学者たちと同様にハイエクの軌道から奪い去られた。カルドアの離脱はことさら痛手だった——というのも、ハイエクが今やボロボロのサイクル理論の最後のよりどころとしていた「リカード効果」をカルドアは批判し、それによってハイエクは自分のサイクル理論を完全に放棄せざるを得なくなったからだ。

 ハイエクはハイエクは『純粋資本理論』(1941)で新しい体系を構築しようとした。これは当初、もっと大きな研究の一部として構想されていて、投資と資本の一体理論を構築しようとする試みだった。まったく意外なことに、かれの 1941 年の本は完全に黙殺され、新古典派経済学理論の分野でハイエクが本格的に活動するのは、それが最後となった。それでも多くのハイエクによる資本議論は、その生徒たちによる投資理論で後に復活する。そうした弟子たちとしては特にフリードリッヒ&ヴェラ・ルッツ夫妻とアバ・ラーナー、そしてずっと後になるがトリーヴ・ がいる。

 1944 年にハイエクは、『隷従への道』で政治論に目を向けた。これは自由放任を擁護する論争的な本で、学界の外ではこれがハイエクのいちばん有名な本だろう。その後の政治活動としては1940 年代のリバタリアン的「モン・ペルラン協会」設立がある。

 1935 年にハイエクは、ミーゼスが関わった社会主義計算論争に関する本を編纂した。そしてその中で 1908 年のバローネ論文を見直すうちに、ハイエクは社会主義の立場に対するミーゼスの批判は成り立たないことに気がついた。結果として、いくつか有名な論文——特に「経済学と知識」(1937) と「社会における知識の利用」(1945)——で、ハイエクは「社会主義計算論争」を新たな水準に引き上げる反論を構築した。要するにかれは、ランゲパレート派に反論して、価格というのは単に「財の間の交換レート」ではなく、むしろ「情報伝達メカニズム」なのだと論じた (Hayek, 1945). ハイエクは、人々が身の回りから外の世界についてはほとんど情報がなく、だからこそプライステーカーにならざるを得ない——そしてそれこそが価格システムが機能する理由なのだ、と論じた。もしあるエージェントの知識がもっと高ければ、プライステーカーとして振る舞うのをやめ、自分の利益になるように環境を操作する決定を行って、価格システムは破壊されてしまう。複雑で不確実な環境だと、エージェントたちは自分の行動の結果を予測できず、だからこそ価格システムが機能するのだとハイエクは論じた。ハイエクに言わせれば、計算論争におけるオスカール・ランゲ「社会主義者」たちの「致命的なうぬぼれ」は、価格を正しく設定するだけの計画者によってこの秩序が「設計できる」としたことだ。価格システムが知識欠如の結果として自発的に生まれたことに気がついていないのだ、というのだ。エージェントの予測能力を左右するのと同じ、限られた知識は、必然的に計画者の予測力も制約してしまう。

 ハイエクは「自発的秩序」を考慮することでこの議論を拡張した。自発的秩序とは、分散した不均質な自己中心的エージェント集団の限られた知識に基づく相互作用から、調和のとれた進化する秩序がうまれる、という発想だ。この複雑で進化する自発的秩序に関するハイエクの考察はあちこちに登場する (e.g. 1952, 1964)。ハイエクはこの「進化する秩序」の研究を続け、政治論や法学研究と結びつけた (e.g. 1960, 1973)。政治、社会、法、経済制度の進化に取り組んだという点で、ハイエクは正しく「進化経済学」の始祖の一人とされる。

 それでもハイエクの試みは、当時の経済学の主流だったケインズ派には無視された。経済学で相手にされなかったハイエクは、別の分野を探した。見るからに異様な間奏として、ハイエクは心理学に目を向けた——そして反行動主義的(そしてヒューム色まみれ)の考察『感覚的秩序』(1952) を発表した。これは経済の「自発的秩序」にかれが応用した「群淘汰」的な進化論に適合した発想だった。

 L.S.E.で長年有意義に過ごしてから、ハイエクは 1950 年にシカゴ大学の社会思想委員会(経済学部ではない)に加わった。1962 年にハイエクは、ドイツのフライブルグ大学に移り、その後ザルツブルグ大学で生涯を送る。ハイエクは 1974 年にグンナー・ミュルダールノーベル賞を共同受賞した。これはノーベル経済学賞の歴史の中で、最も議論を呼んだ意外な受賞だ(議論を呼んだというのは、それがハイエクとフリードマンに与えられたことで、ミュルダールが経済学賞廃止を訴えたからで、以外だというのは当時、ハイエクは経済学業界では忘れ去られていたからだ)。1974 年の受賞以降、ハイエクとその業績に関する関心は高まり(ノーベル賞受賞演説は「反革命」理論の繰り返しだった)、それは今も続いている——そして東欧における共産主義崩壊で、ハイエクの株は大いに上がったのだった。

フリードリッヒ・A・フォン・ハイエクの主要著作

フリードリッヒ・A・フォン・ハイエクに関するリソース


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