(The Economist Vol 381, No. 8509 (2006/12/23-2007/1/5), "Sick with excess of Sweetness" pp. 95-6)
山形浩生訳 ([email protected])
歴史は繰り返す:反グローバリズムやフェアトレードもまた繰り返しなのです。
詩人に甘さはつきもの。少なくともギリシャ人たちはそう思っていた。ホメロスは、ゆりかごにいるときに、唇をミツバチになでられた。プラトンは、詩人たち自身がミューズの庭園で蜜を集めるハチなのだと考えた。だからホメロスとプラトンの両方を愛好し、自分自身も傑出した詩人であったパーシー・ビッシュ・シェリーが極度の甘党だったのも、驚くには値しない。
シェリーは乾燥スモモ、イチジク、リンゴ、オレンジが大好きだった。ジンジャーブレッドやケーキにも目がなかった。かれの黒いデニム上衣(格式好きな細君のメアリーが絶えず着替えさせようとしていた上着だ)のポケットをひっくり返したら、アイスキュロスやソフォクレスや各種鉛筆や小刀や湿ったハンカチに混じって、プリン用の干しぶどうがたくさん出てきただろう。シェリーはこの干しぶどうだけでも夕食になるくらいだけで、特別な花柄の瀬戸物のお皿から一粒ずつつまむのだった。もちろんハチミツは大好物で、バタつきパンに塗りたくったり、あるいは蜂の巣ごとかじりついてベトベトした粘液があごにしたたるに任せた。あまりに甘党だったものだから、ときにはこっそり松の木に忍び寄ってその樹脂のヤニをなめて、それが見た目通り糖蜜っぽい甘さを持っているかどうか確かめたりするくらいだった。
が、19 世紀初めにかくも甘党だというのは、政治的になかなか微妙なところだった。今も昔も、何かを甘くするのに一番簡単な方法は白砂糖を使うことだ。当時これはかたまりで買ってくるもので、引き出しに入れて必要に応じてナイフで切り取るようになっていた。それを乳鉢で摺って、テーブルに出すときにはお椀に入れる――エレガントな場所ならスプーンやはさみ器具で取り、そうでなければ手づかみだ。でも召使いの指先の汚さなど大した問題ではなかった。砂糖の問題はもっと深刻で、シェリーお気に入りの表現を借りれば「忌まわしい」ものだったのだ。高名な唯物論哲学者ドルバッハ男爵のことばでは、ヨーロッパに入ってくる砂糖のうち「血にまみれていないものはない」のだった。
若きシェリーはドルバッハを熱心に読んでいた。でもロバート・サザリーの詩の方が好きで、そのサザリーは砂糖の出所についてもっと歯に衣を着せなかったのである。
焦げ付くような太陽が
誇らしき繁栄のごとく無慈悲に
思い切り男を照りつける;あえぎ横たわる
男は視線で一途な空を非難し
一方で人非人の貿易商が高く鞭を
かかげて滅多打ち。ああ汝ら気ままに
血の甘みを加えた飲料をすする者よ!
こうした発想を汝らは嬉々としてくさすであろう
慈悲深き神よ、あなたに感謝しよう
我が頬には糾弾の涙の輝きが
感じられることを……
砂糖が植えられ、刈られて精製されるのは、イギリス統治下の西インド諸島におけるぞっとするほどひどい労働環境でのことなのだった。ウィリアム・ウィルバーフォース氏の尽力と議会法制によって禁止されるまで、世界最大の奴隷取引都市であったリバプールとブリストルからチャーターされた貿易船に乗せられて西インド諸島に奴隷が運ばれた。1787 年だけでも、足かせをつけられた奴隷 3 万 8 千人がイギリス船で輸送された。貿易が止まった後でも、奴隷使用は続いた。大英帝国でそれが廃止されたのは 1833-34 年になってからで、奴隷使用の烙印はそのずっと後まで砂糖にはつきまとったのだった。
若き急進派にとっては、したがって砂糖とは見過ごしがたい代物だった。砂糖嫌いは、他人の痛みを感じずにはいられないというロマンチックで詩的な人々の何よりの証となった。それはまた――現代的な表現をすれば――消費者がグローバルな意識を高め、自分の快楽がはるか遠くの他の人間の収奪によるものだということを認識した時でもあったわけだ。自由、正義、博愛に身を捧げていた若者であるシェリーは、まもなく砂糖にも手を出しづらくなるのは必定であった。
シェリー生誕の 1792 年には西インド諸島の砂糖に対する組織的なボイコットが始まっていた。たぶん世界初のボイコットだったろう。その後のあらゆるボイコットと同じく、これもパンフレットにやプロパガンダ、あやしげな統計と、比較的少数の人々のすさまじい努力によって広まった。反糖協会の最初の宣言は、鎖につながれた人々がぎっしり詰め込まれた奴隷船の横断面を描くことで公衆に衝撃を与えた。協会の主張によれば、38,000 世帯が砂糖を拒否すれば、砂糖農園の収益は大幅に落ちて奴隷貿易も止まるとのことだった。
ボイコットの頂点では、その指導者の一人であるトマス・クラークソンによれば少なくとも 30 万人が砂糖をあきらめたとか。雑貨商は、売り上げが半減したと報告している。当時の辛辣な風刺家筆頭格だったジェイムズ・ギルレイによれば、砂糖拒否はバッキンガム宮殿にすら達し、ジョージ三世とシャーロット女王はいやがる王女たちに砂糖抜きで紅茶を飲むよううながしたとのことだ。「ああ我がかわいい子たちよ、とにかくためしてごらん! 砂糖抜きだとどんなにおいしいか想像もつかないだろう! ――そして使用を控えることで、かわいそうな黒んぼさんたちの仕事がどれだけ楽になるかも考えてごらん――そして何より、このかわいそうなお父さんにとってどれほどの節約になるか考えておくれ!」
1807 年に奴隷取引が廃止されるとボイコットは下火になった。だれも廃止がボイコットのおかげかどうか自信が持てなかった。植民地での奴隷の反乱のほうが効いたかもしれない。そして一般大衆はこのボイコットにまったく賛同しなかったのだった。「この私とて奴隷の購入には衝撃をおぼえるものではありますが」と述べたウィリアム・カウパーの以下の発言は、万人を代弁しているものだ。
大いにかわいそうとは思いますが何ももうしません
というのも砂糖やラム酒なしではやってけませんし
特に砂糖はみんな欠かせませんや
なんですと? デザート、コーヒー、紅茶をやめろですと!
でも急進的な人々の間では、西インド諸島の砂糖は不面目なままだった。というのも彼らのねらいは未だ道半ばだったからだ。いや、半ば以下というべきか。少なくともシェリーは、奴隷貿易に対するイギリスの関心が終わったとは思っていなかった。そしてシェリーの死後 2 年たった 1824 年にも、またもや砂糖ボイコットは提案されている。
シェリー自身、この血のにじんだ白い粉を避けるべき理由が二つあった。一つはそれが象徴する抑圧であり、またそれがイギリス政府のいかがわしいプロジェクトにおいて重要な存在だったことだ。砂糖はきわめて便利な商品であり、あまねく使われている贅沢品でありながら入り口で課税できた。ピット、グレンヴィルとリヴァプールの政府はこれを徹底的に使って資金を集め、革命アメリカやフランスに対する、シェリーの言うところの「自由駆除」戦争をまかなっていたのだった。1815 年には砂糖税の歳入は年間約 300 万ポンドにのぼり、ワインやタバコからの税収を上回った。圧政的行動のための甘めの課税というわけだ。
だがシェリーにとって、砂糖をあきらめるのは決して小さな犠牲ではなかったし、それは当時の他のブリテン人たちも同じだった。当時の世帯は平均で砂糖2キロを消費しており、砂糖はイギリス最大の輸入品だった。1650 年から 1800 年にかけてイギリスでの消費量は 2,500 パーセント増大した。砂糖消費に拍車をかけたのは紅茶飲みであり、砂糖を入れた紅茶はイギリスの国民飲料となっていた。そして最高級のパーラーで出される一方で、道ばたの労働者ががぶ飲みする飲料にもなっていたのだった。
シェリーにとって、紅茶飲みは情熱の対象だった。次から次へとカップを飲み干したという。人々がかれを無神論者 (atheist) と非難すると(その通りだった)、シェリーは「私はお茶論者 (theist) だ」と反論した。だが通常は紅茶には砂糖がつきもの。シェリーはこの問題を避けようとして、最高の緑茶を試したこともあったようだ。緑茶は紅茶とはちがって苦みがなく、それ自体が少し甘い。だが通常は、この真の自由愛好家が紅茶に認める甘さは、1814 年に友人のボンヴィル家で味わったような甘さだけだったらしい。それは紅茶のカップを手渡してくれ、さらにはかれの体を海綿で拭いてくれた(感極まったシェリーは受け取った紅茶をこぼしてしまったのだ)、うら若き女性の繊細な優雅さという甘さだった。
紅茶のみのエチケットがややこしいように、西インド諸島の砂糖拒否もややこしいものではあった。荒っぽい分子たちは、砂糖にまみれたティーカップを公開破壊したりしたが、ほとんどの禁砂糖論者たちはもっと礼儀正しく主張を行った。一部の人々は東インドの砂糖を買った。これはずっと高価だった。雑貨屋たちは東インドの砂糖が自由人によって育てられていると宣伝したが、あとになってその地域のサトウキビ畑でも奴隷はたくさん働いていたことがわかった。それでもそうした砂糖は黄金の縁がついたボウルで出され、そのボウルには「奴隷が作ったものではありません」と書かれていたのだった。紅茶を出すときには、女主人は「あなたは農場主のお友達ですの?」と尋ねる。その場合、正しい答えは「ノー」で、すると砂糖はすすめられない。
1817 年に、トマス・ラブ・ピーコック――当時はシェリーの友達でご近所だった――は、コミック小説「メリンコート」の中で紅茶を飲む場面を登場させている。このお茶会の主人はシルヴィアン・フォレスターなる名前だが、モデルはシェリーだった。このフォレスターは近所の反糖協会の先導者で、「西インド諸島の産物は一粒たりとも我が敷居をまたがせぬ」という人物であり、クラントゼリーに隠された砂糖ですら見逃さないのであった。お客が紅茶を飲むときに、砂糖がないなとなにげなくつぶやこうものなら、フォレスターは大演説をぶち、それはこう終わる。「砂糖の消費者たる者、自分も荷担しているこの共同犯罪の咎を、なにゆえ一人砂糖の生産者に対してのみ負わせることができましょうか!(中略)砂糖の使用は経済的に無駄であり、肉体的に有害無益であり、道徳的に許し難く、政治的に認めがたいのであります」。お客はうちのめされて、「砂糖抜きの紅茶にクリームを注ぎ、それを飲むと、何も言わなかった」
もちろんかれに反対する議論もあった。砂糖拒否者たちは、その美徳のおかげで商売がだめになり、相手国の収入を減らしてしまうんだよ、と言われた。農場主たちの利益を減らすことで、まさに助けているつもりの奴隷たちの生活水準を下げてしまうことになりかねないよ、と。だがそれにも増して、かれらは偽善者だと非難された。奴隷の産物を本気でボイコットしたいなら、暖炉の石炭や身につけたシャツも拒否すべきだろう、どっちも当のイギリスでろくでもない環境で生産されているんだから、と。
シェリーは、確かに北部の綿紡績工場の報道を読んではいたし、それをひどいことだと顔をしかめてはいたものの、石炭もシャツも拒絶しようとはしなかった。他のみんなと同じく、かれの消費者としての怒りも選択的なものだったのだ。それに、かれは甘党だった。
ある日、友人のトマス・ジェファソン・ホッグは、シェリーがパナダという奇妙な料理を作っているのを見かけた。「とんでもない分量」のパンを引きちぎり、それをボウルに盛って熱湯をかける。そしてそこにナツメグを混ぜ込み、おもしろいほど気色の悪い代物を作り上げた。そこにスプーンをつっこみながら、詩人は「私は虐殺されたる王たちの血をすするのだ!」と叫んだとか。そしてそこでこらえきれずに仕上げの味付け:かれがそこにふりかけたのは砂糖のかたまり、奴隷たちの生き血なのだった。
お年玉。いやあおもしろい! 何も進歩しとらんのですなあ。
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