チャトウィン『どうして僕はこんなところに』:たぶんぼく以外の人には理解できまい、とおそらく多くの読者が思う本。

どうして僕はこんなところに (角川文庫)

どうして僕はこんなところに (角川文庫)

What am I doing here. 本書の原題だ。そしてぼくはこの感覚を知っているかどうかで、その人の旅行者レベルがわかると思っている。旅先でふと思う、「オレ、こんなところでいったい何やってるのかな」という感覚。もはや具体的に「ピラミッドが見たい」とか「プラダ本店でお買い物したい」とかいった目標もなく、なんだか面白そう、なんだかいまいるところが鬱陶しい、なにかせき立てられるような気がする、そんな感覚に突き動かされて旅に出て、しばらくは目先の変わり具合に有頂天になりつつも、数日のうちにその興奮がさめて、あるときふと思うのだ。

What am I doing here.

チャトウィンはそれを知っている人だ。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」と詠んだ芭蕉の「旅に病んで」は、旅行中に病気になったことだとされているけれど、でもそうではない、旅に病み、旅に飽き、我に返り、それでも帰ろうと思いつつ帰るところもよくわからない感覚。こんなところでもそんな話をしたっけ。

もちろんこれは、「ぼくがなぜここにいるかというと……」と説明したいものではない。こんなところで何やってるんだろう、というのはこんなところにいる理由がないという意味だ。そして人は、そのいたたまれなさに追い立てられるように、次の場所にでかけざるを得なくなる。そういう人の書く旅は、「なんでも見てやろう」的な目的意識のある明るい旅とは別の、ちょっとした悲しさを伴うのだ。

ぼくは彼を誉めている多くの人が、この感覚を知っているとは思わない。単なるお大尽の物見遊山旅行をしているだけの人にはこの感覚はわからない。浅はかなバックパッカーだけの連中にもわからないだろう。一方で高踏的な文化遊民だけの存在にもわかるまい。そんなこんなで、ぼくは自分こそがチャトウィンの最もよき読者だと思っている。途上国で病気でのたうち、政変にひやひやして、一方でマルロー*1やマンデリシュタームのなんたるかも知って、そしてその両者を結び合わせられる人物でないと、この本を本当の意味で享受できないだろう――そう思う一方で、他の人は他の人なりに自分のツボを発見できるのかも知れない。多くの人が、自分こそは最高の理解者と思うのかも知れない。ぼくは、彼が勝手にモレスキンの広告塔にされたことを苦々しく思うけれど、それを何やらチャトウィンとの結びつきのように感じる人もいるだろう。ちょっとした反文明的なそぶりや、文化的な目くばせ。

ちなみに Chicane の Giants に、What (the hell) am I doing here という曲がある。

Giants

Giants

ちょうど本書のような感覚を描いたいい曲ではある。たぶん、この本へのリスペクトとして書かれた曲だと思う。

さてこの本、かなり前に出て結構評価されつつずいぶん絶版で、このたび文庫化された。よいことです。でも文庫化の際にもう少し見直してくれればいいのにとは思う。レジス・ド=ブレとか、だれも気がつかなかったんだろうか? それとも原著で変な書き方にしてあるのかな? ともあれ、あまり大きな問題ではない。文庫版での追加のおまけはまったくない。朝日新聞は、再刊本は採りあげないので書評にはあがらないけれど、でも文庫化を機会に読み直して、とても懐かしかったので。



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*1:と書いたものの、マルローって一冊も読んでないんだよね。本書ではすごくえらい人として傾聴されているんだけど……ユンガーも、『ヘリオポリス』評でも書いたがそんなすごくツボではない。ひょっとしたら、実際に会ったらまったくウマが会わずに「なんだこいつ」と思ったかも知れないなあ。