本村洋を最初に見たのも「ニュースステーション」だった。記憶が不確かだが、99年の一審の求刑が出たときだっただろうか。事件の残忍性も衝撃だったけれど、彼が生放送のスタジオで発した言葉が鮮烈で、私の心の奥深いところに届き、彼に対して尊敬の念を抱いた。私が若い人間に尊敬の感情を覚えることは滅多にないが、この男は何と偉大だろうと胸を打たれた。当時23歳。簡単に言うと、彼がスタジオで言ったのは、「
もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」という殺人予告だった。結論だけ聞けば過激で異様な報復宣言だが、それを論理的に説明する彼の弁舌が実に見事で、秀逸で、久米宏と一緒にずっと息を詰めて聞き入った。録画できなかったことを後悔しているが、忘れてはいない。それはまさに刑罰論であり、刑法総論の序章をなす法哲学の開陳だった。例えば国立大学の法学部の二年生が履修する刑法Ⅰの講義の冒頭で聴かせてやりたいような彫琢された美しい議論だった。
死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。私はテレビの前で感動し、またそれを23歳の若さで、あれほどの悲しみと不幸と混乱の中で、毅然と整然と説得的な論理に纏めて言葉にできた本村洋に強い尊敬の念を抱いた。そして彼の復讐論に感銘を受け、彼の意志と信念を強く支持する気分になった。心を揺り動かされた。それから七年が過ぎ、事件は最高裁判決の手前まで来たが、さらに様々な問題の膨らみを抱え、予想せぬほどの過酷な試練を本村洋に与え、今日に至っている。
社会は、歴史は、全ての荷重を一人の庶民に集中して負わせ、苦しめ、耐えさせる。まるで橋田寿嘉子がドラマを作るように、橋田寿嘉子よりも十倍も苛烈に、そういうことをする。偶然に選ばれた庶民は、歴史に人間の気高さと誇り高さを証明するために、どこまでも不条理に耐えて戦う姿を見せなければならない。河野義行、須藤光男、本村洋。ノーベル賞もなく、文化勲章もなく、紫綬褒章もなく、金一封もなく、あらゆる困苦に耐えて、人間の気高さと崇高さを証明しなければならない。その犠牲によってこの社会が支えられている。本村洋の復讐論は近代法制度の欺瞞と限界を暴露し告発するものだった。またそのとき思い知ったのは、刑法が、どれほど近代法の様式を纏ったものであっても、そこにはハムラビ法典以来の復讐法の思想がそのまま原型保存されていることだった。ハムラビ法の復讐法理と聞くと、人はそこにアジア的専制国家の野蛮と粗暴を想起し、近代合理主義の対極にある因習のように捉えてしまうが、本村洋の説得によって私の見方は一転し、古代の人間の考え方こそが普遍的で合理的なものだと確信するようになった。
復讐権を独占しながら、その権利を行使せず、加害者のみを庇護し、被害者遺族の権利を踏み躙っている近代国家と法制度に問題がある。そういう根本的な問題を本村洋は提起しているわけだが、論理的にも心情的にも当然の主張であるように思われる。紀藤正樹は、最高裁上告審の口頭弁論を欠席した安田好弘をほぼ全面的に擁護し、あまり安田好弘を責め過ぎると凶悪犯を弁護する人間がいなくなるから控えるようになどと言っているが、この主張には全く賛成できない。どんな刑事被告人にも弁護士がつくのが国選弁護人の制度であるはずで、今回、福田孝行を弁護する安田好弘は国選ではなく民選だ。自ら引き受けている。また、口頭弁論を欠席して時間稼ぎを図るというやり方も姑息で卑劣きわまる。裁判制度そのものを愚弄し否定するものだ。弁護士だから被告人の量刑を軽くするべく尽力するのが当然だという議論もあるが、裁判が正義と真実を明らかにするものであり、弁護士もその司法の大義に仕える一部であるのなら、弁護活動の目的の第一は被告人の量刑軽減ではなく、正義の実現と真実の解明ではないのか。
この場合、罪を反省せず、被害者と被害者遺族を侮辱している被告人の福田孝行の量刑軽減が達成されて、死刑が無期懲役になることが、社会正義の実現になるのか。昨日(4/17)、安田好弘は記者会見の席上で事件を描いた絵を示して、被告人である福田孝行の殺意を否定、検察および一審と二審の事実認定が誤りだったという主張を繰り広げていた。被告人は一審二審では事実については争っていなかったはずだ。今頃になって、しかも先月の上告審口頭弁論を勝手に欠席しておきながら、この言い草はどういうことだろう。弁護士は何をやってもいいのか。安田好弘の行為は裁判と裁判所と国民への愚弄であると同時に、被害者と被害者遺族に対する明らかな名誉毀損だろう。本村洋は安田好弘を名誉毀損で告訴するべきだ。二十年くらい前からだろうか、凶悪事件の増加とともに、安田好弘の類(たぐい)の公共敵とも言うべき「人権派弁護士」の跳梁跋扈が目につくようになり、「人権派弁護士」の言語の意味がプラスシンボルからマイナスシンボルにスイッチした。弁護士の特権的地位を濫用して身勝手な司法妨害を平然と行っている。
判決は死刑以外にない。最高裁判決で死刑を確定させた上で、安田好弘の名誉毀損を追及するべきだ。