「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。
数量がいかに豊かでも、
整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、
数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめるが、
知識の場合もまったく同様である。
自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、
量では断然見劣りしても、
いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。
何か一つのことを知り、
一つの真理をものにするといっても、
それを他のさまざまな知識や真理と結合し比較する必要があり、
この手続きを経て初めて、
自分自身の知識が完全な意味で獲得され、
その知識を自由に駆使することができるからである。
我々が徹底的に考えることができるのは
自分で知っていることだけである。
知るためには学ぶべきである。
だが知るといっても真の意味で知られるのは、
ただすでに考えぬかれたことだけである。
誰でも次のような悔いに
悩まされたことがあるかもしれない。
それはすなわちせっかく自ら思索を続け、
その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、
一つの洞察も、
他人の著わした本をのぞきさえすれば、
みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれない
という悔いである。
けれども自分で思索した真理であれば、
その価値は書中の真理に百倍もまさる。
(p.9)
汝の父祖の遺せしものを、おのれのものとすべく、自ら獲得せよ。
さらにいかなる物事についても、
それが何であるかを把えようとすれば、
まず比喩から出発しなければならない。
つまり多種多様な物事の中から、
類似している点をとりあげ、
類似していない点を捨てることによって、
概念がしだいに形成されて来るかぎり、
比喩がその基礎になっている。
(p.119)
「巧妙な比喩を案出しるのは、特にもっとも偉大な業である。
他人から学んで比喩の達人になれるわけではなく、
比喩の業は天才たることの証なのである。
なぜならば絶妙な比喩を案出することは、
物事に共通の類似した特性を把握することだからである。」
(p.120)
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。最後の一文が重要ですね。
貧困と困窮は貧者を束縛し、
仕事が知にかわって彼の考えを占める。
これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、
家畜に近い生活をおくる。
その例は、日々目撃することができる。
だが富者に対する非難は、これに尽きない。
富と暇の活用を怠り、
富と暇に最大の価値を与える生活に
意を用いなかった点をさらにとがめるべきである。
(p.127)
[...]読書に際しての心がけとしては、
読まずにすます技術が重要である。
その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、
我遅れじとばかり、手を出さないことである。
[...]
我々は愚者のために書く執筆者が、
つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、
つねに読書のための一定の短い時間をとって、その間は、
比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、
あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。
[...]
良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。
人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
(p.133)
「反復は研究の母なり。」続けて二度読みすることってまったくないなあ。
重要な書物はいかなるものでも、
続けて二度読むべきである。
二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、
すでに結論を知っているので、
重要な発端の部分も正しく理解されるからである。
さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、
違った印象をうけるからである。
つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。
(p.138)