暇と退屈の倫理学

 日々が退屈です。なぜこんなに退屈なのだろうとふしぎに思うくらい。

 あまり退屈だと、何もやる気が起きない。何もやらないと、さらに退屈になる。退屈になると、いっそうやる気がなくなる。悪循環ですねー。

 何かおもしろいことないかなーとずっと思っていたんだけれど、ふと気づきました。いや、日常をおもしろくするために「おもしろいこと」を探すという行為そのものが間違えているのではないか、と。

 そもそも、ぼくの日常にはおもしろいことがたくさんあるわけです。読書もおもしろいし、映画もおもしろい。ゲームもおもしろければ、サッカー観戦も楽しい。

 この世にあふれる娯楽コンテンツは、いわゆる「傑作」だけに限っても、ぼくが一生で消費できる量の何十倍にも達していて、しかも絶えず増えつづけている。もう一生退屈する心配はないのです。本来は。

 それにもかかわらずぼくの日常がつまらないのはどうしてか? それはひとえに、生活にメリハリがないからではないか。

 つまり、「おもしろいこと」はたくさんあるのだけれど、「おもしろくないこと」をきちんとこなしていないために、「おもしろいこと」と「おもしろくないこと」の落差が生じず、結果として「おもしろいこと」をおもしろく感じなくなっている状態なのではないかと。

 まあようするに365日ゲームをやりつづけてもそのうちおもしろくなくなってしまうということです。

 「遊び」は「家事」や「仕事」のあいまにやるからこそおもしろいのであって、いつも遊びだけして暮らしていたら楽しいかというと、そんなことはないんですよね。

 ということは、「おもしろいこと」しかやりたくないと考えることが、日常がおもしろくなくなる原因だということになる。

 たしかに最近のぼくは、食事は外食で済ませるわ、部屋は散らかし放題だわ、ニートだわ、ひきこもりだわで、かぎりなく「おもしろくないこと」から逃避する生活を送っている状態です。

 しかし、「おもしろいこと」を際だたせるためには、どうしても「おもしろくないこと」が必要で、まずは「おもしろくないこと」をきちんとこなすことが、「おもしろいこと」を発見するための正しいルートなのだと思います。

 この状態を改善するにはどうすればいいのか?