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 映画が終わり、館内が明るくなった時、私(松浦)は右隣で観ていた老婦人が暗くなったスクリーンを見つめたまま、拭いもせずにぽろぽろと涙を流し続けているのに気が付いた。左隣は、高校か大学かの姉妹らしき2人組みだったのだが、2人とも手にハンカチを持っていて、時折目元を押さえていた。

 私はといえば、(とんでもない傑作をみた)とくらくらする頭を振っていた。あらかたの涙は鼻に流れ、ぐすぐず鼻をすすっていた。

 現在ロードショー公開中のアニメーション映画「この世界の片隅に」(監督:片渕須直)である。

 泣ける映画だが、泣けるだけの映画ではない。笑える映画だが笑えるだけの映画でもない。ホームドラマだがホームドラマというだけでもない。迫力の戦争映画だが、戦争一辺倒というわけでもない。

 その全てだ。

 地味と言えば地味な映画ではある。すずという18歳の絵を描くのが好きな女性が広島から呉に嫁ぎ、戦時下を生きる。その昭和18年から昭和21年までの生活を描いていく――が、その雰囲気、空気感、臨場感が尋常ではない。

 くらくらの頭のまま、日経ビジネスで私の記事(こちら)を担当している山中副編集長にメールしたところ、彼は早速観に行ってその価値を理解、映画のビジネス面を取材・記事化した(「映画『この世界の片隅に』に勝算はあった?」:2016年12月2日、参照)。さらに私に悪魔のような電話をしてきた。

 「プロデューサーにOKもらいました。片渕監督にインタビューできます。〆切短いですけど行きますよね!」――行きますとも!

 恐ろしいほどの臨場感はどのようにして達成されたのか。そして何のためにそれほどまでして臨場感を求めたのか。片渕須直監督が語ります。

片渕須直(かたぶち・すなお)氏 アニメーション映画監督。1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中から宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。『魔女の宅急便』(89/宮崎駿監督)では演出補を務めた。T Vシリーズ『名犬ラッシー』(96)で監督デビュー。その後、長編『アリーテ姫』(01)を監督。TVシリーズ『BLACK LAGOON』(06)の監督・シリーズ構成・脚本。2009年には昭和30年代の山口県防府市に暮らす少女・新子の物語を描いた『マイマイ新子と千年の魔法』を監督。口コミで評判が広がり、異例のロングラン上映とアンコール上映を達成した。またNHKの復興支援ソング『花は咲く』のアニメ版(13/キャラクターデザイン:こうの史代)の監督も務めている。※以上、映画の公式ページより引用 
片渕須直(かたぶち・すなお)氏 アニメーション映画監督。1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中から宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。『魔女の宅急便』(89/宮崎駿監督)では演出補を務めた。T Vシリーズ『名犬ラッシー』(96)で監督デビュー。その後、長編『アリーテ姫』(01)を監督。TVシリーズ『BLACK LAGOON』(06)の監督・シリーズ構成・脚本。2009年には昭和30年代の山口県防府市に暮らす少女・新子の物語を描いた『マイマイ新子と千年の魔法』を監督。口コミで評判が広がり、異例のロングラン上映とアンコール上映を達成した。またNHKの復興支援ソング『花は咲く』のアニメ版(13/キャラクターデザイン:こうの史代)の監督も務めている。※以上、映画の公式ページより引用 

ある意味、他人に説明しにくい傑作

どうも今日はお忙しい中ありがとうございます。私、本当にこれだけの映画を作れる方なのに「この世界の片隅に」まで監督を意識していなくて、今回慌てて片渕さんの手がけた劇場用作品の「アリーテ姫」(2001年)と「マイマイ新子と千年の魔法」(2009年)を観て、WEBアニメスタイルで書いておられた連載(「β運動の岸辺で」と「1300日の記録」)を全部読んで、それでやってきました。

片渕:それはどうもありがとうございます。

それほど「この世界の片隅に」に驚き、感動したのですけれど、同時に「これは人に薦めにくい映画だな」とも思いました。一言で「こういう映画だよ」と説明できない。

片渕:それは「マイマイ新子」の時にも言われました。「言語化できない」と。今までのエンタテインメントとしての映画の予定調和と違う文脈、違う語り方になっているんじゃないかな、という気がします。「こういう登場人物がこういう流れでこうなって、結果こうなるんだ」とは言えない。「この時期、こういう人がこんな体験をしたから、それを追体験してもらえないだろうか」という行き方をしているんじゃないかな、と自分でも思っています。

昭和18年から21年の呉・広島を2時間強の上映時間に圧縮して、登場する人達と一緒に生活してしまった、という印象です。

片渕:逆にね。あの戦争中、もっとあんなこともあった、こんなこともあった、という指摘も頂くのですけれども、それはすずさんの体験には入っていないんですよ。この作品は、すずさんという個人が、見た事、体験した事なんです。

一次資料で戦時生活を再構築する

日本のアニメーションの系譜には、「アルプスの少女ハイジ」(1974年、ズイヨー映像制作)から連なる、日常的な描写、日常的な人々の所作を大切にする流れがありますが、片渕監督の作品はその流れに連なるものということでよろしいのでしょうか。

片渕:はいそうです。

その一方で、アニメーションは、絵であって文字通り絵空事であっていいわけですが、でも「この世界の片隅に」では、調べに調べて当時の実在の街並みから、当日の天候に至るまで描き込んで、細やかな日常的な所作と重ね合わせていますよね。

 それで、私、Twitterでたまたま戦史研究家の古峰文三さんをフォローしていまして、映画公開時に古峰さんが「片渕は、航空史研究家としてもとってもえらい奴なんだ」とtweetしていたんです。それで自宅の本棚を漁ったら持っていました。片渕さんの航空史研究を、そうと意識せずに読んでいたんです(と、本を取り出す)。

航空史研究家・片渕須直の文章が掲載された『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4056029903/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&tag=n094f-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4591128601" target="_blank">烈風と烈風改</a>』(学研)、片渕監督は、零戦、烈風に続いて日本海軍が昭和20年に企画した最後の戦闘機「二十試甲戦闘機」についての緻密な研究結果を執筆している。
航空史研究家・片渕須直の文章が掲載された『烈風と烈風改』(学研)、片渕監督は、零戦、烈風に続いて日本海軍が昭和20年に企画した最後の戦闘機「二十試甲戦闘機」についての緻密な研究結果を執筆している。

片渕:それはまあ、古い仲間内のほめ言葉なんでしょうが(笑)……ただ、航空史研究のことを知っているなら、話は早いです。古峰さんや私などが航空史研究でやっているのは、伝聞とか回想とかを排除して、当時の一次資料のみに基づいて「実際にその飛行機はどんなものだったのか」を明らかにしていくということです。「この世界の片隅に」では、このやり方を生活全般に適用してみました。一次資料を集めて、「昭和18年から21年の生活って、一体どんなものだったんだろう」と調べていったわけですね。

「分かるところから攻めていくんですよ」

日常的なことは資料を集めるのが難しくはありませんか。我々、ハレの日の写真はけっこうたくさん撮りますが、日々の日常の写真をせっせと撮るようになったのはスマートフォンの普及以降ですから。

&copy;こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
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片渕:いや、それがけっこうたくさん残っているんです。こういう時は、分かるところから攻めていくんですよ。例えば胸に付ける身許票(みもとひょう、しんきょひょう)というものがあります。名前や血液型を書いておくんですが、これは内務省が「こういうのを付けろ」と通達を出しているんです。だからいつから付けるようになったか分かるんです。

 あるいは呉の街が、どんな順番でどの街区から順番に建物疎開(たてものそかい:空襲に備えて住人が引き払い、建物を壊して防火帯を作ること)していったか、また民家に一斉に迷彩塗装しろと指示が出たことなんかも記録が残っています。

 そういう記録として残っていることを調べていくだけでも、相当なことが分かります。呉市の月ごとに食糧配給についても記録が残っていますから、この月はなにが配給されて、なにが配給されなかったなんてことも分かるんですよ。

&copy;こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
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「イワシ四匹」のエピソード!

片渕:あるいは「この月は砂糖が配給されなかった」とかね。砂糖の配給の話は、こうの史代さんの原作の段階で、あの砂糖とアリのエピソードになっています。こうのさんも、もとの資料を調べて描いているんです。

 そうやって調べうる限りの資料を調べて、できるだけふんだんに投入していくことで、あの時代のリアリティを感じられるようにしていったんです。

 当時の新聞や雑誌の記事や写真も調べていくと面白いです。昭和19年の春先か初夏の新聞には「最近モンペを脱ぎたがる女性が増えて困る」と書いてあるんですよ。「暖かくなって衛生上よろしくないから脱ぎたがるんだ」というんですね。新聞は「決戦服だから着ろ」と書いているのだけれど、こういう記事が出るということは、実際のところ一般の人は「暖かくなったら、モンペは脱いでもいい」という認識でいたということですよね。

片渕:そこで、我々は、戦争中ずっと女性はモンペをはいていたような認識でいるけれども、そうじゃなかったのか、と気が付くんです。当時の女性も、暑くて蒸れて不衛生になるから、それだったらスカートのほうがいいよね、と思ってたんだ、と。

 「決戦服を着ろ」と言われて、全員が「はい、分かりましたッ」と決戦服着ている世界って理解できないですよね。でもそうじゃなかった。当時の人達は、異常な世界の特別な人達じゃなくて、自分達と共通の感覚を持っていたんです。

&copy;こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
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 広島には原爆投下時に広島の方々が実際に着ていた服が遺品として残っていまして、この本はそれを撮影した写真集なんですが(と、背後の本棚から写真集を取り出す)、ほら(指し示したページには半分焼けたワンピースの写真が掲載されている)。

ああっ、ワンピースですね。それも明るい柄の(ページをめくる)。こっちは、かなり派手な柄物のシャツだ。

片渕:でしょ。これがリアル、リアリティなんですよ。そうだとしたら、我々が持っている戦時生活の印象って一体何なのかということです。

 調べていくとモンペを履くというけれど、和服のモンペの場合もあるけれども、普通のズボンを履くことも多かったようです。モンペというけれど、実はズボンを履いていたんですね。スボンの裾は締めていたみたいです。当時の人はゲートルを巻くことで分かるように、裾からなんか入ってくるのが嫌だったみたいです。

 「あれはズボンだったんだ」と分かると、見方が変わりますよね。時々、女学生が上はセーラー服で下はモンペという不思議な格好をしていたという話が出て来ますが、実は下はズボンだったとなると理解できます。当時の人達は僕らと変わらない、同じ感覚を持って生きていたんです。

「戦争末期になると、普通の服になっていく」

そうか。映画の中でも昭和20年7月に、すずさんの妹のすみちゃんが、呉にやってきて「お姉ちゃん、広島に帰っておいでよ」というシーンがありますね。軍都だった呉がひどく爆撃されたからですが、観客はこのあと広島に原爆が落とされるのを知っているので、背筋が寒くなる。このシーンですみちゃんは、今でも違和感のない服装をしていました。

片渕:サロペットですね。モンペじゃない。あの服装もちゃんと当時の写真があるんですよ。

確かに、戦争末期には衣服の配給も滞りがちになりますよね。服を着ないわけにはいかないから、手持ちの服を着ていくしないない。となれば、統制が強まる前のスカートだったり明るい柄だったりの服を着るしかない。

片渕:そうです。戦争も、本当の末期の末期になるまで、ごく普通の服装をしているんです。服装に関しては、当時の新聞や雑誌、ネットに転がっているものも含めて、女性の服装が分かる写真を可能な限り集めていって、パソコンに取り込み、時系列に整理していきました(と、傍らにあったパソコンを操作し始める。きれいに階層化された各フォルダーに、大量の画像データが整理されている)。

片渕:例えばこの写真。昭和18年に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死して、銀座のデパートに遺影が展示してあるのを、女の子達がのぞき込んでいるところです。ほら、スカートをはいているでしょ。

しかも、けっこう短いですね。膝丈というか膝上というか。

片渕:こちらも昭和18年ですがスカートですね(と、郵便配達を女性がするようになったという雑誌のグラビア記事を見せる。女性がスカートで自転車に乗っている)。

これ、キュロットスカートですか。

片渕:いや、スカートです。こうなると、むしろ「自転車に乗るんだからズボンはけよ」と言いたくなる。僕らは、今まで図式化された「戦時中」を見せられていたんだろうなあ、という気がしてくるわけです。バケツリレーで訓練というような時はモンペ姿をしていたけれども、日常生活はそうじゃないんです。

記憶は上書きされる。だから一次資料が重要

これまで、戦争体験者が社会の中核を構成していた頃は、「そこはみんなも分かるだろう」的な共通理解として、きちんと映像作品の中で表現されていなかったということなんでしょうか。

片渕:そうではなくて記憶って、後から上書きされちゃうものなんでしょうね。一番そのことがはっきり分かるのは、機銃掃射を体験した方の体験談に、必ずといっていいほど「自分を撃った飛行機の搭乗員の顔が見えた」あるいは「目が合った」ということが出てくるんです。でも、必ず目が合ったり顔が見えたりするわけじゃない。そうそう目が合うはずもないのに、なぜ「目が合った」ということになるのだろうか、と思うわけです。僕が直接お聞きした例では、「B-29に乗っている人の顔が見えた」という証言もありました。

B-29は低高度爆撃をしていませんから、いくらなんでも見えるはずがない。

片渕:それはつまり、当時実際に観たこととは違う印象で、記憶が上書きされているということです。だから伝聞とか回想とかを取り除いて、一次資料だけで、庶民の生活を捉え直していこうと考え、実行していったんです。

【後編に続きます→こちら

&copy;こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
©こうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会
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■変更履歴
記事掲載当初、前文中で「すずという18歳の絵を描くのが好きな女性が、昭和18年に広島から呉に嫁ぎ、昭和21年までの生活を描いていく」としていましたが、「正確には、周作がすずに結婚を申し込むのが18年12月、結婚式が19年2月なので、18年に嫁ぎ、はおかしい」との指摘がありました。原作まで確認しましたが、原作段階でその通りにきっちり設定されていました。正しくは「すずという18歳の絵を描くのが好きな女性が広島から呉に嫁ぎ、戦時下を生きる。その昭和18年から昭和21年までの生活を描いていく」です。お詫びして訂正します。本文は修正済みです(松浦晋也・編集部) [2016/12/09 10:00]
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