体罰の話はあんまりしたくない。
 いくつかの媒体で既に書いていることもあって、どう書いても話が重複するからだ。

 といって、重複を避けるためにあえて角度を変えて書く試みは、ほぼ必ず失敗に終わる。一番おいしい話は既に書いてしまっているわけだし。

 今回は、何度か書き始めて、その度に、アタマの10ラインほどのところで挫折している。

 それでもテーマを変えずに頑固に書き進めてみようと思っているのは、何回か書き直しをしているうちに、「今のこの“書きたくない”という気持ちの中に、問題の解答が眠っている」という直感を得たからだ。

 もっとも、コラムニストの直感は当てにならない。

 とっかかりが見つからない時や、オチを求めてさまよっている時、書き手は、かなりとんでもないところに活路を求める。

 道に迷った雀が煙突の中で死んでいる絵柄を思い浮かべてもらうと良いのかもしれない。
 私は、時々、煙突の中で羽ばたいている。

 というよりも、「活路を求める」タイプのソリューションを採用している時点で、執筆者は、正常な思考法から逸脱している。その意味からすれば、経験を積んだコラムニストが、アイディアに行き詰まった挙げ句に到達する「活路」は、外から見れば、墓穴なのである。
 
 それでもなお、詭弁や奇論珍説に頼ってでも、最後にもう一度だけこの件について書かねばならないと私が思い定めているのは、この度、大阪で起こった体罰による高校生の自殺事件に関連して、巷間で戦わされている体罰論のどれもこれもが、私がツイートした内容も含めて、どうにも空疎に思えるからだ。

 空疎でないにしても、既視感を抱かせる議論ばかりではある。この話題は、もう何年も前から、膠着状態に陥っている。

 おそらく、問いの立て方が間違っている。

「体罰は是か非か」

 という二択問題を掲げた瞬間に、既にして議論は、硬直しているのだ。
 議論に参加しているメンバー自身も、うすうす勘づいている。

「ああ、オレはまた同じ話をしている」
「ほら、お約束の論駁がやってきた」
「また極論だ」
「っていうか、どうしてこの人たちは同じ質問を繰り返すんだ?」
「出た。黄金の建前論」
「そりゃ世界中があんたみたいないい子ちゃんでできあがってるんなら、そもそもこんな話をする必要もないわけでさ」
「キミが強くて男らしいことはよくわかったから、質問に答えてくれないか」

 論敵の反駁が凡庸であることにもうんざりさせられるが、自分が言っていることがまた、誰かがどこかで言っていたことの焼き直しである事実にも、実は、がっかりしている。

 なにより、現職の教諭がほとんどまったくこの議論に参加して来ないことが、体罰論のむなしさを物語っている。

 先生方は、おそらく冷ややかな気持ちでわれわれの議論を眺めている。

 畳の上の水練にも劣る教室外の教育論。手乗りクジラの軍艦巻きみたいなありえないレシピについて、素人がツバを飛ばして論じ合っている。なんたる不毛。これ以上何か言うつもりなら、目の前でクジラをまな板の上に載せてみてからにしてほしい――と、そう思いながら、職員室の面々は、たまった事務処理に従事している。

 本題に入る前に、暫定的な結論を提示しておく。

「体罰は法律で禁じられている」

 と、本当は、この1行を提示すれば、お話は終わりなのだ。

 少なくとも建前上は、体罰はあり得ない。現場にどんな特例が跋扈しているのであれ、よしんば教室に悪魔が住んでいるのであっても、少なくとも「体罰は可能か」という大きな問いに対する大きな答えは、「いけません」以外にはあり得ない。

 ただ、「体罰は法律で禁じられています」というこの言明は、事実を描写しているだけで、何も説明していない。

「郵便ポストは赤い」
「キャベツはレタスではない」
「恋人よ。犬が東を向けば、尾は西を向くことだろう」

 といったあたりの定言命題と何ら変わらない。自明の理というヤツだ。

 自明の理は、反論不能ではあるものの、その一方で、何も説明していない。どうして体罰がいけないのかという問いに対しても、「体罰は法律で禁じられているからです」という反復を繰り返す以外に言葉を持っていない。

 すなわち「体罰は法律で禁じられています」というこの命題は、結論である以上に、議論の出発点であり、ということはつまり、出発点と結論が同一である以上、この議論はそもそも議論の体をなしていないのである。

 現職の教諭が議論に参加しないのは、問いそのものが、あまりにも茫漠としているからだ。

「クレヨンは何色ですか?」

 という質問には、適切な答えが無い。
 赤かも知れないし、青かも知れない。紫やピンクであってもかまわない。黄色か緑でもあり得る。

 が、クレヨンの色を問う質問に対して、単独の色で答える一意的な解答は存在しない。

「色々な色があります」

 としか答えようがない。

「それでもあえて一色だけ選ぶとすれば何色ですか?」

 と、司会の田原総一朗氏がなおも執拗に問いかけてきたら

「いろいろいろかなあ」

 とでも答えておけば良い。そもそも、こんな質問に真面目に答える方がどうかしているのだ。

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