島田紳助さんが芸能界を引退するのだそうだ。  で、どの局も彼を「紳助さん」と呼んでいる。横並びだ。全局一斉のさん付け処理の同時スタート。不思議な光景だ。

 暴力事件の折、島田容疑者に対して用いられた「島田紳助司会者」という呼称を思い出す。あの時もほぼ全局横並びだった。
 「容疑者」と呼びたくない。といって、呼び捨てにもできない。だから「司会者」。苦肉の肩書きを付加して呼びかけるわたくしたち。実に不可思議な処理だった。

 それが、謹慎期間が明けてテレビの第一線に復帰すると、紳助は再び紳助に戻る。元の呼び捨て名称の紳助。芸人の紳助。タレントの紳助。みんなの紳助、だ。

「島田紳助の行列のできる法律相談所」

 冠番組にも敬称は付かない。なぜなら、番組名に冠される冠としての「島田紳助」は、人名であることを超えた一種の商標のようなもので、広く国民に共有された文化的な表象だからだ。でなくても、わが国の社会には「芸能人は、呼び捨てにして差し支えない」という不文律がある。彼らは、その芸能の享受者であるところの一般大衆にとって、敬語の介在を必要としない、ごく近しい距離感の人間だからだ。それゆえ、公的な存在にのぼりつめた人間は、敬称を伴わない。むしろ呼び捨てにされることが一流芸能人の証になる。

 ところが、この度の引退会見を受けて、島田紳助は、「紳助さん」になった。「司会者」名称は使えない。というのも、みんなの紳助はもう司会者じゃないから。

 といって、誰も「島田紳助」と、呼び捨てにすることはしない。できっこない。  今回のさん付けの理由は、おそらく、「一般人になったから」という解釈から来ている。

 一般人について言及する時には、名前の後ろに敬称をつける。これは、うちの国のメディアが、長年遵守しているところの慣習法だ。だから、引退した紳助は紳助さん。そこまではわかる。

 同じ理由で、「紳助さん引退」という見出しも了解できる。この扱いに私は違和感を感じない。
 でも、「紳助さん黒い交際」とか「紳助さん山口組No.4と同席写真」はいかにもおかしい。

 どうしてここの紳助に「さん」が付いているんだ?
 この設定だと、なんだか「紳助さん」が、一連の出来事の被害者であるように見える。まったく悪意がないのに無理解な世間によって不当に糾弾されているかわいそうな人であるみたいに。でなくても、記事を伝える側の人間が、「紳助さん」に気を使っている印象を受ける。

 無論、デスクとしても、刑事被告人として起訴されているわけでもない一般人を、いきなり呼び捨てで表記する判断には、なかなか踏み切れないのだとは思う。

 でも、だとしたら、「芸名」で呼びかけることもやめるべきだ。長谷川公彦さん、と、本名でそういうふうに表記するのなら、それはそれでスジは通る。が、彼らはそうしない。彼らは、既に芸能人でなくなった元司会者を芸名で呼ぶ一方で、敬称の表記基準については一般人のそれを適用している。と、やはり記事を読む側は、どうしたって奇妙な印象を抱かざるを得ない。当然だ。

 テレビはもっとひどい。
 引退の事実を報じた後、どの局もこれまでの島田紳助の経歴を紹介する流れに入るわけだが、この経歴紹介のVTRが本当に目を疑うツクリになっている。

 男紳助の栄光の物語。時代を駆け抜けた天才・紳助に捧げる惜別のコメント集。稀代の天才芸人。最高峰の話術。プロデュースの達人。視聴率王。義理人情の男。若手に慕われる関西のロールモデル。見た目以上に繊細な素顔の紳助さん。実業家としての非凡な手腕を備えた切れ者の横顔。石垣島の救世主。鈴鹿のカリスマ。不良少年の憧れ。更生と成長の物語。涙。絆と友情。ああ。私は何の放送を見ているのだろうか。とてもじゃないが、不祥事を理由に芸能界を追われる人間を扱った報道には見えない。潔い去り際とか、カッコイイ最後とか、男の美学だとか、そういうお話ばかり聞かされていると、まるで、引退を宣言したその男の後ろ姿が、万雷の拍手の中花道を去っていく千両役者の背中であるみたいに思えてくる。

 今回は、島田紳助さんの引退について書きたいと思っている。
 とはいえ、現時点では、引退の真相は、はっきりしていない。だから、事実関係についてあれこれ言おうとは思っていない。どうせ真相が私の耳に届く頃には、事件自体が風化しているのだろうし、現時点で報道されている事実を材料に、私のような者が憶測を展開したところで、どうせ真相には迫れないのだろうから。

 そんなわけなので、ここでは、主に、引退の報を受けた関係各方面の反応について私の思うところを述べることになると思う。

 島田紳助元司会者(←どうしても「紳助さん」という表記になじめなので、この異様に不自然な呼称を使うことをご了承ください)が、何をしたのかは、私にとっては、たいした問題ではない。

 むしろ、島田紳助(以下敬称略:うん、はじめからこうすれば良かった)があけていった穴を観察した方が面白い。穴を見れば、彼が芸能界にとってどういう存在だったのかがよくわかるはずだからだ。

 ジョン・レノンのソロ時代のヒット曲に“You don't know what you got, until you lose it”という歌がある。直訳は「キミは失ってしまうまで持っていたものの価値を知ることができない」ぐらい。要するに、人や物の真価は、それが無くなってみてはじめてはっきりするということだ。紳助の価値は、今後、様々な立場の人々にとって、様々な形ではっきりすることになるだろう。

 島田紳助元司会者の引退に際して、人々が漏らしたコメントを検討するのも面白い。コメントを見れば、紳助の側から見たその人間の立ち位置が良くわかる。紳助亡き後の芸能界に対して、その人間がどんな決意を持って臨んでいるのかもはっきりする。もっと言えば、威圧と暴力ということに対する、その人間の感覚を知ることができるかもしれない。非常に興味深い。

 芸能人の反応は、賞賛と惜別に尽きている。いちいち紹介するのも面倒なほどよく似たコメントが並んでいる。素晴らしい紳助。人情家の紳助。天才の紳助。潔い、男の中の男の、美しい引き際の紳助。
 これらのコメントを前にして、私は、黙るほかにどうしようもない。ただただ、島田紳助という男の異才に敬服するばかりだ。

 実際、私自身、好き嫌いを別にすれば(←つまり「嫌いだ」ということですが)、彼の才能は認めざるを得ない。
 あの弁舌と反射神経と観察眼は、やはり当代一流だったし、この先も代わりは見つからないと思う。
 才能は、ときどき、間違った人間に宿る。紳助はその典型例だったのだと思う。

 異彩を放っていたのは「とくダネ!」(フジテレビ)のキャスターである小倉智昭氏が漏らした言葉だ。
 小倉氏は番組のフリートークの中で、おおよそ次のように語っている。

・紳助のような「名前の出ている人間」は、「名前が出れば出るほど」「いろいろな問題で窮地に立たされる」ケースに遭遇する。 ・で、そのトラブルが「警察だとか弁護士だとか、所属事務所だとか企業だとか」では、どうしても解決できない時に、「何らかの圧力を発揮することで事態を解決する存在がいることも事実」だ。 ・その、「ある種の圧力団体であったり、まあ、闇の社会の人たちであったり」する存在が、仮にトラブルを解決してくれた場合、「解決してもらった本人の責任はどこまであるのか」を、これから考えなければならないのではないか。 ・「皆さんの周辺でも、知らないうちに闇社会の人たちがトラブルを解決してくれたということ」が、「どこかで起こるはずなんですよ」

 ……一人語りを文字に起こした形なので、必ずしもはっきりとした文章になっていないが、要するにここで小倉氏は、 「闇社会の人間でないと解決できないトラブルがある」  ということと 「われわれは誰もが、ある意味で闇社会とつながっている」  ということを言っている。

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