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技術者たちの沈黙

本郷の喫茶店でのんびり珈琲を飲んでいたら、後ろの席の話し声がぼそぼそと聞こえてきた。去年の春、まだ毎日の予震におびえていた時期のことだ。その喫茶店も半地下の穴蔵のようになっていて、もし大きな揺れがきたらどう逃げるべきかと思いながら、低い天井を見上げていたら、声が耳に入ったのだ。話し声は、口調からいって年配の学者らしい。それも、遠くから来てひさしぶりにまみえた旧友同士という感じだ。近くの大学で、複数学会をまたいだシンポジウムがあって、その帰りだったらしい。

その人たちは、原発事故の危機対応について話しているようだった。理工系の学者なのだろう。「リスク・コミュニケーション」という言葉も聞こえた。これは分かったようでわからない用語なので、わたし自身はあまり好きではない。ともあれ、不安におびえる住民大衆に向けて、どう冷静に事象を伝えて余計な心配を取り除くか、といった文脈が議論のようだった。放射線量だ何だといった、ややこしい話を、中学生レベルの知識もおぼつかない人達に分かってもらわなければならない。難しい仕事だ。

「それにしても、さっきの会議で『コトダマ』云々という発言が出てきた時は驚きましたね。」「ああ。あの方は文科系の学会の人です。」「日本人は言霊信仰が強いから、よくない結果の予測を口にすると、それが現実になるのではと怖れる、だとか。典型的文系の人の発想ですな。」「そうそう。」彼らは多少のアルコールのせいか、声が大きくなった。「そんな事を言っとったら、客観的な事実も口にできなくなる。」

この人たちにとっては、客観的で確実なファクトの伝達が重要で、それが伝わるかどうかは相手の理解能力による、と考えているらしい。いかにも科学者の意見らしい。しかし、同じ学者同士でも文系相手だと話が通じないのに、どうして一般大衆相手には話が通じるはずと思えるのだろう? この奇妙な楽観主義はどこから来るのか。

福島原発事故の後、テレビでは科学者のインタビューばかりを見せられた。なぜ科学者なんだ? これは技術の問題ではないか。--でも世間の人は、いや、メディアの人達も、科学と技術の区別がわからないらしい。両者の違いは明白だろう。科学者とは、客観的で論理的に確実な事のみを口にする人々である。確実でない、検証しえないことを主張したら、その瞬間から科学ではなくなってしまう。だから彼らに事態の予測や対策を求めるのは無理がある。それは科学を超えた、憶測と判断の領域である。それでもメディアがしつこく求めるから、彼らも“個人的見解”と断って発言する事になる。メディアはそれを、専門家のお墨付きとして報道する。

で、一般大衆は信じて納得したか? 答えはノーである。たしかに、大衆に基礎知識や理解能力が欠如していたかもしれない。では、喫茶店の隣席の学者達がいうように、時間をかけて大衆を啓蒙するしかないのだろうか。だが巨大な災害のときに待つ時間なんかない。

あのとき人々がとったのは、全く別の方法であった。話している学者の顔をテレビの画面で見て、“人物が信じるに足りるか"を判断したのである。これはある意味、当然の事だった。わたしだって、自分の専門領域でない報告を他人から聞くとき、真っ先にするのは「この人はまともなことをいっているか」を顔つきや口調から判断する事である。科学では、真理は誰が口にしても真理であり、発言者の人格は関係ない。しかしわたし達の仕事ではそうではない。実際、この判断を抜きにして、仕事なんてできないといってもいい。世間の人だって、原子と電子の区別はつかなくても、誠実と嘘つきの区別は、ある程度できるのである。

それにしても、あの原発事故直後の日々、わたしが最も渇望したのは科学者でなく、原子力発電所という複雑なシステムを知っている技術者の発言であった。技術者は、本質的に不確実な状況下で推測したり判断する事が、職業的に求められる。原子核物理学の専門家が、果たして普通のボイラーのバルブだって見たことがあるかどうか疑問だ。しかし経験を持つ技術者は、どこのラインのどんな種類のバルブはどれくらいの温度圧力でどういう使用法に耐えるか推測できる(たとえ原発の設計者でなくても、それくらいは図面と仕様を見れば判断できるのだ)。ちなみに発電所が外部電源を全部喪失した時も、リアクターの温度や圧力は(部分的に)計測され続けた。測定には電源がいるのに、である。これはプラント技術者からみれば驚くにあたらないが、仕組みを知らない科学者には手品のように見えたにちがいない。

繰り返すが、技術屋は推測と判断の世界で生きている。複数の推測があり得るときは議論をする。そして、どれかに賭けて、決断する。技術屋が推測に慣れているといっても、別に、いつも正確な予測ができるという事ではない。自分の推測が、どの程度信頼できるか(いいかげんか)を自覚できる、という意味だ。そうした信頼度を含めて、なにが起きているのか、この先どうなりそうか、そして何をすべきか意見する。わたしは、そうした話を聞きたかったのである。だが、この分野の専門技術者はメディアにほとん発言しなかった。メディアがインタビューしなかったばかりではない。ネットでもまず、発言にお目にかからなかった。

その理由は、明白に思える。それは、技術者が組織人だからだ。彼らは何らかの会社か機構に属している。口を開いて何か言えば、必ず所属する組織と利害関係が生じる。この国では、電力会社や重電、建設業界や官庁と無縁でいられる組織など殆ど無いのだ。だから必ず、どこかに係累が及ぶ。この、わたし自身だってそうだ。勤務先の顧客に電力会社がいる以上、原発事故について実名で論評するのは困難だ。一方、科学者はほとんどが大学人である。建前上、中立でいられる。だから自由に発言しやすい。

ここから先は原発事故に限らぬ一般論になるが、トラブルや失敗から学ぶ事は、技術とマネジメントにおいて本質的に重要な事である。不確実な状況で決断する者にとって、全戦全勝という事はあり得ない。むしろ不都合な事実から、いかに学ぶかが進歩の鍵なのだ。とりわけ、プロジェクトと呼ばれる行為の世界は、そうだ。プロジェクトとはユニークな、それぞれ個別な取り組みだからである。

ところが、技術者にとって、部署や会社の壁を越えて現実の話をできる機会は、きわめて限られている。本来は学会などがその場所となるべきなのだが、そうはいかない。なぜなら、学会で発表されたことは原則公開され、世界中の人に知られる可能性がある。しかし、プロジェクトのほとんどは(成功であれ失敗であれ)外部に出せないものだからだ。

わたしが、「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」という活動以外に、もう一つ、『事例検討会』という場をつくろうと思い立ったのは、そうした理由からだ。学会とは正反対に、こちらは完全に非公開とする。配付された紙の資料は、その場ですべて回収し裁断処分する。そのかわり、現実の話をディスカッションできるようにする。

まだ試行錯誤中の試みだから、うまく行くかどうかは分からぬ。これを成立させるためにはいくつか条件がいるだろう。一番大きなポイントは参加者の信用だ。だから参加できるのは、得られた情報を口外しないと誓約できる部会員(ないしその知己)のみとする。もちろん、話題提供者が「同じ業界の人は遠慮してほしい」といった条件付けもできるようにする。もう一つのポイントは、ビジネスと直接の利害関係をもたぬ大学人が、キー・メンバーとして関与することだろう。こうした仕組みをとっておかないと、匿名掲示板ないし飲み屋での雑談と変わりないものに堕してしまう。

現実から学ぶことが難しいのは、現実の結果が利害関係の源泉となりうるからだ。とくにトラブル事例は、すぐに責任追及や非難など、人身攻撃の元ネタになってしまう。学びの目的は、改善であり再発防止である。ここに人事・政治を絡めたら、学ぶべき事実がすぐに歪曲されてしまう。だから、クローズドで中立な場が必要だと考えたのである。もちろん、情報保持の観点から見て、あまり参加者が多くなるとリスクが高まる。むしろ、こうした活動に興味を持つ人が増えたら、あちこちに同様の場を作ればいいのだ。いや、本当は、まず、同じ社内にこうした場を設営するべきなのだろう。批判ではなく、学びのためにプロジェクトをふり返る場。そういった場を作り、技術者たちを無理な沈黙から解き放つことこそ、PMOと呼ばれる部署の大事な仕事だと思うのだが。
by Tomoichi_Sato | 2012-08-22 22:36 | リスク・マネジメント | Comments(10)
Commented at 2012-08-23 11:16 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2012-08-23 13:41 x
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Commented at 2012-08-24 22:05 x
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Commented by おっきっきーず at 2012-08-24 22:10 x
事故後、避難場所の被災民に対して、
東電の社長が土下座している映像が全国を飛び交いました。
まだ、事故原因も明らかになっていない時期にです。

また、推測になりますが、
マスコミは東電の社長が土下座しなければ、
土下座するまで追及したでしょう。
当時、事故原因が明らかになっていないにもかかわらず、
土下座をさせて、東電に事故の責任を転嫁したのです。

今回の東日本大震災は関東大震災の3倍のエネルギーでした。
すなわち、今回の事故は東電の免責事項です。
#津波の前に、すでに建物が倒壊していた。
#福島の地震エネルギーだけでみれば3倍ではない。
という主張がありますが、
関東大震災の3倍というすさまじいエネルギーがなければ、
津波は生じなかったし、
津波がなければ事故はここまで大きくなっていません。
Commented by おっきっきーずっずー at 2012-08-24 22:13 x
そして、今回の事故が、
東電の免責事項の対象になる可能性があるということが、
大々的に報じられません。
これは、マスコミと政府の東電への責任転嫁です。

マスコミ、政府は、
一方的に何か、敵を探しては叩く。責任を転嫁する。

この光景を通して、
一端の責任負っているはずの国民は溜飲を下げさせられています。
Commented at 2012-08-24 22:15 x
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Commented at 2012-08-24 22:17 x
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Commented at 2012-08-24 22:19 x
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Commented by ごーごー、ばこーん at 2012-08-24 22:21 x
日本人は責任の一端を負っていながら、
全責任を相手に転嫁するという、
最低の国民性です。
技術者だけでなく、当事者は、沈黙するしかありません。
相手は、責任を転嫁することしか考えていませんから。
Commented at 2012-08-24 23:37 x
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