■池谷裕二 『進化しすぎた脳』 感想 3 + α
アニメーター磯光雄と金田伊功と脳の構造の関係
池谷裕二『進化しすぎた脳』
感想 1 「脳と無限の猿定理」 感想 2 「無意識の脳活動と芸術家の「半眼」」
感想 3 「脳のトップダウン構造と視覚」
前日の記事 感想3で眼からうろこの視覚論を知ったわけですが、そこからアニメやその他映像について考えてみました。箇条書きですが、まずは覚書ということで、、、。
これだけではわかりにくいと思いますので感想 3から先に読んでください。
◆視覚のトップダウン構造からアニメと実写映像を解読(序論)
・アニメの動きは、複数の静止画から、脳内の視覚情報処理メカニズムが動きを生成する幻の映像である。1/24秒のコマごとに眼から入ってくる、視覚野にとってわずか3%の映像が、脳内の複雑な動きの処理メカニズムを駆動し虚構の(しかし脳内では認識される現実そのものとしての)映像体験をもたらす。
つまり残り97%は眼から入った映像ではなく、脳の別の処理メカニズムが生み出した脳内映像である。
・天才と呼ばれるアニメータは、外部に存在する事物の動きのデータとこの脳内の処理メカニズムの両方を直感的に理解して、映像に動きを生み出す存在なのだろう。それは我々が外部世界で観たものの再現の場合もあるが、脳内の処理メカニズムを利用した、どこにもかつて存在しなかった動きの映像なのかもしれない。
(ex.右図 磯光雄EVA第19話作画。この2コマの中間に我々の脳はどんな映像を生成しているのか?( 前日記事の図 薄いブルーの長方形に相当する映像のこと。これを脳の自動中割りメカニズムと呼んでみる(^^;)))
・従来、アニメ理論として外部の事物の観察の重要性が説かれている。しかし本来は、これに加えて、アニメータには映像の光刺激そのものより、それによって脳の自動中割りメカニズムがどう起動するかを観察/分析することが実はもっと重要なのかもしれない。
錯視のメカニズムをそのわかりやすい例として挙げることはできるが、実は映像を観ることと脳内の動きの感覚を観察することがもっと重要なのだろう。どんな静止画のコマ運びがどんな動きの感覚として感じられるのか。つまりどんな静止画のつながりが、脳の自動中割りメカニズムを起動し、それにより生み出されたクオリアがどんなものなのか。
優れたアニメータは、脳内映像クオリアの冷徹な観察者なのかもしれない。(だんだん妄想が暴走してます、すみません(^^;))
・絵画は現在アートとしての地位を確立している。それは現実の模写から始まり、抽象画に代表されるように脳内映像としか呼びようのないものを表現しているからに他ならない。静止画の脳内映像クオリアの優れた観察者が画家として優れた芸術家である。
ではアニメータは?これは上の論述からそのまま、脳内の感覚として動きを視覚処理した結果のクオリアを表現できる/そして新たに創出できるアニメータは優れた芸術家である、と言うことができる。
(こういう芸術という言葉を使った記述をすると、芸術とサブカルチャーの地位の問題に過敏に刺激を与えることになりますが、「芸術」を作家が脳内に持ったクオリアを他人に伝えることと定義していますので、別に呼び方による階層の議論をしたいわけではありません。ご注意を。)
・静止画はじっくりと観ることができるため、意識できる外部の光刺激としての絵画情報に対して、無意識の脳内生成映像が介入する率が低いと思われる。それに対して、動画はその切り替わるスピードから、脳内活動が映像認識に占める割合が高い(もともと動きというのは脳内で生成されているし)。本来、絵画よりも動画の方が脳内映像の芸術としての創造の可能性が高いと言えるかもしれない。
(ex.左図 金田伊功ZAMBOT第5話作画。この絵の中間に生成される脳の自動中割りメカニズムが生み出したクオリアは、新たなニューロンの回路を形成し、さらに次の斬新な動きのイメージを脳内に生み出しているのかもしれない。僕の脳の自動中割りニューロン回路の起源は金田伊功によるこの敵キャラ メカブースト ガルンゲの映像だと思う。そしてそれを進化させているのが、磯光雄他のアニメ作画のエッジに位置するアーティスト。)
・村上隆氏の金田伊功分析で、狩野山雪『老梅図襖』とか北斎『富獄三十六景』を比較対象として挙げている。西洋美術の3Dに対して日本の2Dという視点で述べている。しかし僕には金田伊功論としてしっくりこない内容に思える。
そもそも、僕は金田伊功の映像に、2Dというよりも、かなり立体感を感じている。何故、2Dのセルアニメーションで3Dのような空気感が出せているのか、という疑問を持ち続けている。
この視点からみると、(欧米のCG,SFX等も含めて)20世紀が生んだ芸術:映像の先端を広げているように観える金田のアニメートを、過去の芸術の領域に回収しようとしている論述に感じられてモヤモヤした読後感がわいてくる。(これは村上氏が金田伊功リスペクトを、絵画やオブジェといった過去の芸術形態で作品にしているところからも来ている。新たに20世紀が発明した映像:動きの芸術を、静止しているもので表現しようとしていることがそもそも限界を持っているのでないか。)
アニメーションを、脳内の動き感覚のクオリアという視点で分析し、立体的な空間と時間の表現:新しい芸術形態として位置づけるような試みを深めることしか、金田らが切り開いている何かの新しさは解析しきれないのではないか。
・コマごとに絵を描くことから、アニメで説明するとわかりやすいため上のような記述をしたが、当然実写映像や特撮映像にもこれらの考え方は当てはまる。映像によって人の心を動かす映画監督(もしくは撮影監督)は、脳内映像の優れた観察家でなくてはならないはず、事物を写し撮るのでなく、そこから生み出される感覚を写し撮るために。
・映画評論家滝本誠氏は、画面に映し出されたものだけでなく、自らの中で暴走した脳内映像を含めて評論を書く(と言われている)。まさに上の脳のメカニズムを考えるとこれが本来の評論家の姿なのかもしれない。実は全ての人間は同じ映画を、同じ映像認識で観ているわけではないのである。暴走する脳内映像処理メカニズムを持った映像評論家は、それ自体、芸術家であるのかもしれない。
・TVとフィルムで映画を観ることの違い、スタンダードTVとハイビジョンの解像度の違いをオーディオビジュアル評論家は論ずる。しかし実は脳内で補正されることで、映像の視覚野における質は、それほど違わないのかもしれない、特に映画を観ることに慣れた(脳内の動画映像を処理する回路が優れて育成されている)観客には。オーディオビジュアルマニアの細部にこだわる感覚と映画ファンのそれほどのこだわりのなさは、こんなところから説明できる。
・さらに、実は3%以外の残り97%は眼とは別の視覚を視覚野にもたらしている。脳内で作り出された宗教的体験(神)や幽霊や宇宙人といった幻の存在を観たり感じたりするのも、この脳のトップダウン機構が影響していそうである。
小説や映画の描く空想を現実に近いものとして感じる感情移入の体験や、ヴァーチャルリアリティの持つリアル感がどこから来るのかということの説明としてもこのトップダウン機構は有効。
さて、うだうだとした妄想に最後まで付き合っていただけて、ありがとうございます。
最後は、またまた飛躍しておかしなことを書いていますが、さらにちょっとだけ続けてしまいます。
・『電脳コイル』は、電脳メガネによりヴァーチャルな映像が町に溢れる世界を描いている。案外と上のように考えてくると、実は人の脳が世界を観ている構造はこのアニメの描く世界に近いのかもしれない。つまり電脳メガネが強化現実として映像を付加している『電脳コイル』の世界は、すでに現在の人間の脳がやっているとを電脳メガネというガジェットでわかりやすく表現しているだけかもしれない。
といった認識論的な視点でも僕はSF『電脳コイル』に期待してたりします。
ではでは、今度こそ、ここで終了!!
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コメント
AGGYさん、はじめまして。
>>とおりすがりですみませんが、磯達雄さんと磯光雄さんは別の方ですか?
あ、書き間違えです。お二人は別の方です。
磯達雄さんは大学時代の知り合いで、建築関係の編集者/ライターです。
本文、修正して、間違えてしまったこと、お詫びいたします。
投稿: BP(AGGYさんへ) | 2009.07.23 23:44
とおりすがりですみませんが、磯達雄さんと磯光雄さんは別の方ですか?
投稿: AGGY | 2009.07.23 09:30
foot-lightsさん、こんばんは。
この記事、気合を入れたので、レスがあるとたいへん嬉しいです。気合入れすぎで妄想の暴走に呆れられて反応なかったらどうしようか不安だったもので、、、(^^;)。
>>とても興味深いです。
>>そしてとても難しい…
僕も『進化しすぎた脳』を読んで映像論に使えると思った時に実は同じことを思いました。もっとわかりやすく、そして深くこの線でもっとしっかりした文章をいずれまとめてみたいものです。またお付き合いいただければ、幸いです。
>>それぞれが見てきた動く映像に対する経験の違いが関係してくるのかもしれませんね。
「動く」というのがキーポイントですね。どれだけ、動きをとらえるニューロンの回路を形成しているかで、随分と受け取り方は変わるのではないでしょうか。アフリカで動物の動きを絶えず眼で追っている狩人と、テレビ受像機でアニメを追っている我々とでどう動きをとらえる感覚が異なってくるのか、たいへん興味があります。
>>映像表現でしっかり伝えていくべきところは3%の部分なのかなと思いました。
3%でどう動きの感覚を誘発させるか、経験的背景や文化的背景で随分変わってくるわけで、相当高度な感性が作り手に要求されるわけです。
先日、宮崎駿が「プロフェッショナル仕事の流儀」で絵画「オフィーリア」にうちのめされたというようなことをしゃべってましたが、一枚絵としては元々セルアニメーションのペラペラな絵が太刀打ちできるわけはありません。
動きを生成することができるアニメの特質が、どのように「オフィーリア」の芸術を乗り越えていけるか?『崖の上のポニョ』がシンプルだけれどもその動きの芸術性で越えていくかどうか、しっかりと確認してみたいと思います。
投稿: BP | 2007.04.01 22:36
とても興味深いです。
そしてとても難しい…
映画評論家の話のくだりは特に興味深いです。
人それぞれ映像を見た時の印象が異なるのは、それぞれが見てきた動く映像に対する経験の違いが関係してくるのかもしれませんね。
人が躍動感を感じるのは動きを「生成」する部分が十分に刺激されたと言う事なんでしょうかね。
映像表現でしっかり伝えていくべきところは3%の部分なのかなと思いました。
投稿: foot-lights | 2007.03.28 23:50