■茂木健一郎 『プロセス・アイ』Process A.I.
脳科学者・茂木健一郎のSF。
茂木氏が、論証を挙げた緻密な理論の論文としてはまだ構築できないけれど、直感的に把握した大胆な説を、どうしても書きたくて、今回、小説という形態を選択したのではないか、と期待して読んでみました。
◆心脳問題
前半、世界的脳科学者・川端武史が、ついに人間の意識の秘密を解き明かした「プロセス・アイ」理論を学会で発表しようとする場面までは、特にワクワクして読んだ。
だけれど、後半、解き明かされるかと期待した「意識」と「私」と「志向性」の「物語」は、結局、直接描かれることはなく、肩透かし。
(それを見たある人物のある変容が描かれるところは、なかなか面白いアイディアでグッとくるところもあったけれど、、、、)結局、学者茂木健一郎がまだ直感でとらえているだけで論文として書き上げるのには推測が多すぎるような理論とかを開陳するようなことはなかった。そこに期待していたので、残念な思いで本を閉じた。
これは小説を読むのには、邪道な読み方である。
では純粋に小説またはSFとしてみた場合の感想はどうか(こちらの方が通常のこのBlogで扱っている分野)。
◆小説
まずは小説として。
もっと、らしくない小説かと思っていたけれど(失礼)、初長編ということで考えると凄く手馴れている。プロットとか、結構面白い。
ただ残念だったのが前半の高田軍司と高木千佳と金城剛の関係を描いたところ。本来ならば微妙な三人の関係がいくつかのキーとなるエピソードとともに読者に強いインパクトを与えて記憶に残るはずの場面なのだけれど、結局3人は東京のグルメをいっしょにまわっていた印象が一番強い。ここは物語のきっかけになり、本書風の表現をすると、読者へのクオリアを構築する最重要な部分だったと思う。しかしここが良くない。もう少し、ここで3人の意識の関係が見事に描かれていたらと、残念でならない。
エピソードのアイディア等の出来不出来が作家としての才能の中核になるように思う。うまい作家は、物語のクオリアの本質をつかまえて、素晴らしいシークエンスをこうしたところに配置する。いい小説を読むと、読者の脳に生成させるクオリアにとってどんな物語の具象化が必要か、これのつかみ方が凄い。作家の才能というのは、そういうものだと思う。この才能を持った作家はそうそういない。本作は、平均的な作家(?)のレベルは充分満足してると思うのだけれど、、、。
◆SF
SFとしては、新人SF作家のなかなか力作な処女長編、というところ。
結構宗教がかったところがあるので、SFの読者は、トンでもな感想を持つのではないか。心脳問題って、やっぱSFとしても難しい。理論よりも感性的情緒的な部分が強く、特にSFとしての仕掛けである超知性体的なものを出さないと、新興宗教的な匂いが出てしまう。
奇想小説としてみると、イメージの飛翔は、A.I.とか月とかテイラーメイドテクノロジーだとか道具立てはあるのだけれど、ぶっ飛んではいない。常識的SFの枠内(ん、なんだ、それ??)。A.I.シーンは、声を変えるところにイメージがいっちゃってるけど、なんで声?って感じ。
何故か、グダグダと愚痴ばっかり書いてしまいました。これも冒頭に書いたような過ぎた期待があったから、と勘弁してください。あとネットの感想は、褒め言葉が並んでいるものが多く、へそまがりの私は批判的な言説で攻めてみました。
んじゃ、あとは<関連リンク>の下に、ネタバレで意識の問題など好き勝手に書いてみます。さらにグジャグジャなので、ご容赦。
◆関連リンク
・茂木 健一郎『プロセス・アイ』(Amazon)
・『神狩り 2 リッパー』で「クオリア」をキーワードにした山田正紀氏推薦文
(茂木氏のクオリア日記より)
12章を読んで新幹線で泣いた。この「物語」には風が吹いている。その風は世界を吹き抜けてぼくのクオリアを優しく震わせる。
山田正紀が泣いたのは以下の12章のフレーズでしょうか。絶対者へ挑戦する女性を描かせたらピカイチの山田正紀的フレーズ。ここは僕も好きです。
「私たちが、言葉を通して、様々なものを志向すること自体が、私たちが因果性の限定を逃れていることを意味することにはならないと思うわ。(略) 少なくとも、私たち人間の置かれた絶望的な状況を超えるためには、単に志向性の自由に頼るだけでは、だめで、もう一つ飛躍が必要だと思うのです」(P275)
・作家本人が作った『プロセス・アイ』専用掲示板
・カバー絵の飯田信雄氏 IIDA Nobuo HP。美しいイメージが観えます。
★以下ネタバレ★
◆意識を解き明かせない人間の脳
意識を生じさせている脳そのものでは意識のメカニズムを理解できない、というスタンスで、川端武史は人工頭葉を生やして、意識の変性状態と論理的思考の両立をはかる。
この通常の脳に意識は理解できないというのが、どうも納得できない。
脳全体を理解するのではなく、あくまでも脳に意識が発生するメカニズムだけを理解するわけだから、意識が脳内活動を抽象化してメタレベルで認識していけば、なんか可能なのじゃないかという気がするのだ。
川端のような状態でしか、意識を理解できないというギブアップ宣言だとしたら、今後の茂木氏の思索はつまんないので、これは小説だけのこととして、是非トライし続けてください。P275のルナの言葉のように。
◆意識の解明は本当に凄い命題か?
という疑問もこの本を読んでいて芽生えてきた。
本書では川端が失踪する「意識のウィーン会議」のシーンを中心に、意識の解明が全世界の注目する一大命題として扱われている。ここでまた自分の中のへそまがりがうずく。
意識が発生するメカニズム(ハード・プロブレム)よりも、そのメカニズムが人間と人間社会に及ぼす影響のメカニズムとか、そこにのっかるコンテンツの生成やその影響の方が重要なのではないか、という疑問。
僕は意識が生成しクオリアを感じるメカニズムよりも、クオリア自体とその生成に興味がある。今までに感じたことのないクオリアを頭の中に見つけたり味わったりすることが凄いことに思う。意識はクオリアを感じるのであって、生成するのは別の要因と思うのだけれど。あ、それで茂木氏も小説に手を染めたのか??
◆関連リンク
・ゲーデルの不完全性定理
・当Blog記事 ■意識を持ったロボット
アマチュアはこんないい加減なことも書けます(^^;)
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コメント
河村隆夫さん、はじめまして。TBとコメントと引用、どうもありがとうございます。
>>私自身は確かに自分が青とよぶ色を見ているとしても、隣の被験者が、私と同じ
>>質感の青い色を見ているかどうかは、検証できない。
>>あるいは、まったく違う次元のものを感覚しているのかもしれないし、実験者に迎
>>合して、見てもいないのに見えますと答えたのかもしれない。
>>まったく検証できないように思われる。
>>すなわち、クオリアは、主観によって感覚されるもので、その主体にとっては明ら
>>かな感覚的実在であっても、その実在を証明することができない。
私も子供の頃から、この自分が見ている「青色」が他人にも同じ「青色」か?という疑問は、ずっと持っています。
物理的に同じ光の波長であっても、目玉や脳といったハードウェアの相違は当然のこととして、経験や感情といったソフトウェア(?)の相違とかが、人ごとに違った青色のクオリアを生成する原因になっていると思ってきました。
ただ子供の頃と違って、今はそれほど実は個体による相違は、たいしたことがないのでは、と思っています。
このBlogとかで本や映画の感想を書いていますが、学生時代から人の書いたこうした感想や評論を読むのが、実は凄く好きでした。まわりの人が、こいつなんでここまで好きなんだと思うくらいに。
で、これって実は人ごとのクオリアの違いを感想を読むことで確かめるという欲求がひとつの原因としてあったんじゃないかと気づいたのが最近。
で、そんなこんなで思っているのが実は「青色」ってそれほど個体ごとに違っていないのじゃないか、という感覚。だいたいこんな基本的要素で個体差がでかかったら、人間のコミュニケーションはもっと酷いことになってます。今でも充分、酷いとは思うけど(^^;)、「青色」というような基本要素が違ってたら、たぶん現在のディスコミュニケーションのレベルでは済みません。
もっと上位階層のクオリアは、基本要素の絡み合いの中で、それこそ複雑に違っているかもしれない。だいたい世の中の揉め事のかなりの部分は、この相違が原因なのでしょう。
一番下の階層の青のクオリアの相違は小さいが、それら基本要素の統合された例えば目の青い人と対面して発生するクオリアは、いろいろな要因で個体でかなり違っている、ということ。
要は「他人のクオリアを知覚できるか」という設問を、基本要素のところでキッチリ1か0か、白か黒かという二元論で知覚出来ないと結論するんでなくって、もっと上位まで含んだ総体で、知覚出来る部分と出来ない部分、キッチリではなくぼんやりとなら知覚できるととらえて、前進することが必要なんじゃないかって思うわけです。
学問的に「確かな事実」の規定をするのは重要だけれども、そこで止まってしまうと近所の魚屋のおっちゃんに「お前、青が違うなんて、何馬鹿なこと言ってんだよ」という一言で、実は認識レベルとしては市井のどのようなレベルよりも下にいることに気づくわけです。確かに市井の哲学レベルは低い、だけれども「青色」で留まると、総体としてぼんやりと人の意識とはどんなものかわかっている魚屋のおっちゃんに笑われて、一件落着になると思うのです。
いや、これはたとえ話ですが、自分の似たような体験の話です。長文でお恥ずかしい。
投稿: BP | 2006.02.11 23:47
以下の文章は、
茂木健一郎先生のHPに、
「クオリアの定義」として
掲載させていただいたものです。
ご笑覧下さい。
また、ご感想などいただければ
幸甚に存じます。
私のクオリア(2000.9.9)
河村隆夫
「青は何処から来るのか?」
この疑問が、私のクオリア問題の、総ての始まりであり終わりでもあった。
私はそれ以上を求めない。
なぜなら、「私は何処からきたのか?」「私は何処にいるのか?」という根元的な問いのすべてはこの最初の疑問に包括されているように思われるからである。
さて、青は何処から来るのか?
ある波長の光、電磁波そのものに青い色があるわけではない。(「電磁波そのもの」とは何かと問われても、専門外の私にはファインマン物理学以上の返答はできない)
電磁波が私の網膜の視神経を刺激して発生したニューロン内イオン電流は、シナプスでの発火を繰りかえしながら、後頭葉視覚野、前頭葉の言語野、運動野などを経てニューラルネットワークを形成し、その結果私は「青い色が見えます。」と、言う。
ここで、私の脳内を流れているのはイオン電流にすぎないのに、青い色が感覚されるのはなぜなのか。私が感覚している青い色は、電磁波の中にも、イオン電流の中にもないように思われる。たとえ青を知覚するニューロンがあったとしても、そのニューロンの中でおこなわれているのは化学反応にすぎない。
青い色は、その化学反応の中にはない。
しかしまた、電磁波や、脳内のイオン電流、化学反応などがなければ、青い色が感覚されないこともまた確かである。
すなわち、脳という物理的存在と、青い色の表象とは、表裏一体に見えながら、別の次元に属しているように感じられる。
この、物理過程からは説明不可能な青い色の質感が、クオリアである。
冒頭で述べたように、
「青は何処から来るのか?」
という問いは、青を感覚する主体である「私」の問題もまた、その問いの内に含んでいる。
「私」も「青い色」も、クオリアの領域に含まれるように思われるが、種々のクオリアの関係やその階層構造(階層がもしもあるのならば)については、将来の研究を待たねばならない。
しかし、このテーマは今回求められているものではないから、別稿に記したいと思う。
クオリアをこのように難解な問題にしている理由は、その検証不能性にある。
筆者自身ともう一人の、二人の被験者に、同じ波長の光を見せたとき二人の脳内にほぼ同じ形態の電流ネットワークが確認され、二人は「青い色が見えます」と答えたとする。
私自身は確かに自分が青とよぶ色を見ているとしても、隣の被験者が、私と同じ質感の青い色を見ているかどうかは、検証できない。
あるいは、まったく違う次元のものを感覚しているのかもしれないし、実験者に迎合して、見てもいないのに見えますと答えたのかもしれない。
まったく検証できないように思われる。
すなわち、クオリアは、主観によって感覚されるもので、その主体にとっては明らかな感覚的実在であっても、その実在を証明することができない。
このように、科学的実験などの検証を積み重ねることによって得られる普遍性(客観性)を、クオリアは持ち得ないように思われる。
それ故私は、長い間、私の能力的限界もあるが、それ以上に、クオリア問題は原理的に解決不可能であるという想いが深かった。
茂木先生が提唱された「シナプスの発火がクオリアを生む。」ことが、唯一クオリアに関して確かな事実であると思われる。
クオリアに関するそれ以上の知見を、私は寡聞にして知らない。
投稿: 河村隆夫 | 2006.02.11 08:48
銀鏡反応さん、はじめまして。コメント、ありがとうございます。
>>このことをもってしても、私には茂木氏が稚拙な作家であるとは思えない。
一種の透明感は僕も感じました。
>>著者がライフワークとしている「クオリア」問題(=心脳問題)の解明がまだ
>>黎明期にあたるため、完全には解き明かせていないという背景がある。
確かに解き明かせたら、本業の「論文」の方で書かれるのが本来ですね。本作に対して、勝手に思った僕の期待がたぶん間違ったものだったのでしょう。
遠い知人が茂木氏本人と飲む機会があったそうです。その時、「クオリア」にも飽きてきたと言う言葉を聞いたとか。まあ酒の席でのたわいのない会話だったのでしょうが、そんなこと言わないで、いつか意識のハード・プロブレムをしっかり書ききってほしいものです。だってシャーマニズムだか、「意識の変性状態」だか、そんな神がかり的な話だけで、意識の解明を終わらせてもらっちゃ、困りますモン(^^;)。
投稿: BP | 2006.02.11 06:12
はじめましてこんばんは。
この小説の作者・茂木健一郎氏のブログから来ました。
発売日当日に購入し、一夜で読み終えた。たしかに小説全体の終わりかたとか、3人の人物の関係の書き方は非常に物足りない面が残り、読後感は何とも言えない透明な感触が残った。しかし、それが新人作家の一種の宿命ともいえるのだろう。このことをもってしても、私には茂木氏が稚拙な作家であるとは思えない。
表題の人工知能理論「プロセス・アイ」が解明されなかったシーンに就いては、著者がライフワークとしている「クオリア」問題(=心脳問題)の解明がまだ黎明期にあたるため、完全には解き明かせていないという背景がある。ので、物語では敢えて、「プロセス・アイ理論がカワバタ博士の口から語られる前にアクシデントが起こった」というカタチを取って、この理論を物語の中で明かさなかったのではないか。
おそらくは茂木氏も、この理論の「完全なる種明かし」を物語の中でするのを好まなかったのかもしれない。
もし、この続編が彼の手で書かれるならば、いかなるかたちになるにせよ、その「種明かし」が続編の中で明かされるのに違いないと思う。
投稿: 銀鏡反応 | 2006.02.10 18:13