■村上春樹『村上ラヂオ』 (マガジンハウス)
村上ラヂオ (このリンク先、この本に出てくるいろんなものの関連リンクが一覧になっていてなかなか良いです)
村上春樹のエッセイ(大橋歩のイラスト付き)をまとめた本。あまりエッセイは読んだことないのだけれど、のほほんとしていい感じです。雰囲気で読む本なので余りコメントできないので、気に入った部分の引用です。
まず飛行機のエンジンが突然止まった時のことについて。
そのときに、自分がこのまま死んでしまったとしてもおかしくないと感じた。僕にとっての世界は既にほどけてしまって、これから先の世界は僕とは無関係に進行していくんだな、と。自分が透明になって肉体を失い、五感だけがあとに残って、残務処理みたいに世界を見納めているのだという気がした。とても不思議な、ひっそりとした心持だった。(「ロードス島の上空で」P36)
志村喬のエピソード。あの『七人の侍』の本物の侍のようなたたずまいは、こうしたところから来ていたのですね。
志村さんはちらしに載っている魚類をそっくり取り皿に移して、ご飯とはべつにして食べている。
志村さんの家はもともと侍の家系で、小さい頃から親に「ご飯の上に物を載せて食べるような下品なことはしてはならん」ときつく言い聞かせられていたからだった。(「人はなぜちらし寿司を愛するのか」P129)
最後に、恋愛について。
でも10代後半くらいの少年少女の恋愛には、ほどよく風が抜けている感じがある。深い事情がまだわかってないから、実際面ではどたばたすることもあるけれど、そのぶんものごとは新鮮で感動に満ちている。もちろんそういう日々はあっという間に過ぎ去り、気がついたときにはもう永遠に失われてしまっているということになるわけだけれど、でも記憶だけは新鮮に留まって、それが僕らの残りの(痛々しいことの多い)人生をけっこう有効に温めてくれる。
僕はずっと小説を書いているけれど、ものを書く上でも、そういう感情の記憶ってすごく大事だ。たとえ年をとっても、そういうみずみずしい原風景を心の中に残している人は、体内の暖炉に火を保っているのと同じで、それほど寒々しくは老け込まないものだ。(「恋している人のように」P172)
『ノルウェイの森』とかその他数々の作品は、こうした暖炉の火から生み出されているのでしょうね。引用するだけで結構照れちゃうのですが、「恋愛」だけでなくいろいろな情感というようなものについて、全て当てはまりそうに思えます。blog読んでても、この情感の「暖炉の置き火」みたいなものをふっと感じる文章があると嬉しくなってくるので、照れつつ引用。
◆関連リンク
・『村上ラヂオ』新潮文庫(Amazon)
・『村上ラヂオ』マガジンハウス(Amazon)
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