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現代新書についてはこれまで何度か書いてきた。

「脱力する講談社現代新書の装丁」
「〈帯汚し〉について 」
「講談社現代新書2」

これまでの批評が的を得ていたかどうかは別にして、私はまじめに書いてきたつもりだ。しかしここに至って、この現代新書の装丁には本当に脱力してしまった。まともに取り上げて批評する気力を失いそうだ。しかし、ここまで書いてきた手前、気を取り直してなんとか始末をつけておきたい。

論より証拠、というわけで、まず下の画像を見てもらいたいOBIYOGOSHI.jpg

どれもタイトルのすぐ下まで幅広の帯で覆われている。カバーデザインの四角形(これも帯に印刷されている)が帯のテキストによって台無しにされている。カバーデザインをないがしろにするこうした帯を以前「帯汚し」と名付けて記事にした。
その際、帯汚しの定義もしておいた。

【帯汚し】
カバーデザインはそれなりのバランスや本らしい品の良さが求められる。しかし、帯はどうせ買ったあとはずすものだし、広告スペースだから、帯では思い切ったことが許される。デザインセンスなどとは無縁の好き勝手をやっても帯ならかまわない……とする考え、ないし、その考えが生み出した醜悪きわまりない帯のこと。

このときは、編集部が「帯汚し」の犯人だとの予断で書いた。まさか、デザイナーがこんなひどい帯をデザインするわけがないと思いこんでいたからだ。しかし、実際はデザイナーが作った帯だったのだ。よく考えればわかることだった。せっかくの「新装丁」を編集部が独断でここまでやるはずがないと気づくべきであった。私自身が実作者なので思いもしなかったのだ。

帯のデザインが中島氏自身の手によるものだと私が考えた理由は中島氏の次の発言にある。

「各社の新書のデザインを見ていて、新書では、タイトルが目立つ必要はないと思いました。タイトルはもちろん大切ですが、やっぱり読者の注意をひきつける最大の武器は帯です。--中略-- 帯も積極的にデザインしようと。」
私には「帯汚し」と見えたひどい帯は実は中島氏の意図どおりの帯だったのだ。なるほど、「タイトルは重要でない」と考えない限り、帯のテキストのこのような侵略はあり得ない。

現代新書出版部部長の上田氏は、
「学術的な知識や一般教養を啓蒙書として提示するという、新書の本流に戻るべきだと考えてい」ると発言しているが、このデザインは教養書・啓蒙書にふさわしいだろうか。

次の帯のデザインを見ると、中島氏の考えている帯とカバーの関係がいっそう明白になるはずだ。


20070624083229.jpg

丸と四角。印象の異なる二冊だが、これは現代新書の同じ本である(『奪われる日本』)。四角の方はカバーで、丸の方は、タイトル以外はすべて帯である。タイトルの下まで延びた幅広の帯によってカバーデザインの四角が隠されているのだ。ここまで帯が侵略したらなんのためのカバーなのかと思うが、カバーについては中島氏はこう述べている。

「それで、もっともデザインのない、無意味な形としてどういうものがいいかな、と考えた時に正方形というカタチが浮かんできました。--中略-- 丸や三角は色によって意味が出てきますよね。丸だと日の丸がいい例です。やっぱり四角が一番無意味だと思います」。

画像をもう一度見てもらいたい。
確かに、意味のある丸は帯の方で表現されている。カバーデザインを意味のない四角にしたのは、どうせ帯や帯のテキストで隠されるからだったのだ。何のことはない、現代新書のカバーデザインは帯によって隠される(汚される)ことを前提に考えられていたのだ。意味の無いカバーなら帯で隠されても不都合は起きないというわけだ。自由に帯をつけやすいデザインこそ中島氏が目指したカバーだったのである。


GENDAI09.jpg

最後にもうひとつ画像を示しておく。これもタイトルから下はすべて帯で、モナリザの写真も帯に印刷されている。カバーの四角のデザインは完全に消滅している。帯のこうした扱いを中島氏は新書の新しいスタンダードにしたいらしい。
ああ、なんだかひどいブラックジョークを聞かされた気分である。


※「杉浦装丁」はコストがかかるためシンプルな中島デザインに変更されたのではないか、という一部の指摘は当たらない。
帯にイラストや写真が使われるのでコストは同じようにかかるからである。

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