1931年夏の甲子園

今から約80年前1931年の甲子園の決勝戦を戦ったのは
美麗島の嘉義農林と中京商業。中京商業はこの年から3連覇をする超強豪校だった。
一方の嘉義農林は
予選でも予想外の勝ち上がり甲子園にやってきた。予想外に勝ったのは台湾人と原住民選手の力によるものと言われた。

「この大会で嘉義農林は全国に先駆けて甲子園出場一番乗り。
レギュラー9人のうち、高砂族が4人、日本人が3人、台湾人2人で組織された異彩を放つ闘志満々のチーム。監督は松山商で監督をしていた近藤兵太郎氏。松山商直伝の猛練習で新鋭のチームをあっという間に強豪に育て上げた」。
詳細は選手紹介を参照ください。

奇しくも、決勝戦は
1931年8月21日。
2011年にそれを記念し嘉義農林の関係者が甲子園に招待されている。
「日本の全国野球選手権大会が開幕した6日、日本高等学校野球連盟の招きを受け、国立嘉義大学の李明仁・学長、嘉義農林野球部OB会の人々が甲子園球場で開幕式を観覧した。
これは日本統治時代の1931年、夏の甲子園大会で、国立嘉義大学の前身、嘉義農林学校が準優勝してから今年でちょうど80周年となることを記念し、日本高等学校野球連盟が特別に招待したもの。
嘉義大学の李明仁学長と共に、2日に訪日した嘉義農林のOB メンバーは、嘉義農林の校旗と準優勝時の盾を持参、台北駐大阪経済文化弁事処、朝日新聞社、日本高等学校野球連盟を訪問したほか、5日には大阪で日本在住のOBと校友会を行った」

日本語ではないのですが貴重な映像です。


嘉農與紅葉的光輝年代 - 臺灣的棒球故事



1931年
嘉義農林甲子園戦績。
asahi.com:嘉義農林―神奈川商工(2回戦) - 試合結果 - 全国中等野球大会
asahi.com:嘉義農林―札幌商(準々決勝) - 試合結果 - 全国中等野球大会
 
決勝戦のメンバー表
嘉義農林の選手紹介。                  
1番 平野(本名不詳・アミ族)  
2番 蘇 (台湾人)
3番 上松(本名アシワツ)       
4番 呉 (台湾人)
5番 東 (本名ラワイ)          
6番 真山(本名マヤウ)       
7番~9番が日本人
     原住民(高砂族)4名   台湾人2名・日本人3名。
高砂族4名はすべて台湾東部出身者で、東和一は台湾の東部の出身なので、苗字を東にし、名前は和をもって一になるようにと和一にしたと伝えられている。

4番の呉は早大進学後、長嶋茂雄に破られるまでの東京6大学通算本塁打記録所持者である。のちにプロ野球で活躍する呉 波(昌征)とは同姓別人。

蘇 正生さん

台湾のデータによるとメンバーは以下の通り
である。
1931年夏季甲子園大會代表隊
嘉義農林は決勝戦に敗れ準優勝であったが、観衆6万人の甲子園の拍手は優勝校より多かったと言われている。

嘉義農林「KANO」ユニフォーム写真
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出場校・対戦結果
1931年 第17回全国中等学校優勝野球大会 - 大会別データ | 高校野球情報.com

☆北海道  札幌商(初出場)
☆奥羽(青森 山形 秋田)
                秋田中(7年ぶり4度目)
☆東北(岩手 宮城 福島) 
               福岡中(2年ぶり4度目)
☆北関東(栃木 群馬 埼玉)
               桐生中(2年連続3度目)
☆南関東(茨城 千葉)
               千葉中(初出場)
☆東京    早稲田実(3年ぶり9度目)
☆信越(長野 新潟)
                長野商(6年ぶり2度目)
☆北陸(富山 石川 福井)
               敦賀商(7年連続7度目)
☆甲神静(山梨 神奈川 静岡)
               神奈川商工(3年ぶり2度目)
☆東海(愛知 岐阜 三重)
               中京商
初出場)
☆京津(滋賀 京都)
               平安中(5年連続5度目)
☆大阪    八尾中(初出場)
☆兵庫  第一神港商(4年ぶり5度目)
紀和(奈良 和歌山)
              和歌山商(初出場)
☆山陰(鳥取 島根)
              大社中(10年ぶり3度目)
☆山陽(岡山 広島 山口)
               広陵中(3年ぶり4度目)
☆四国  松山商(2年連続8度目)
北九州(福岡 佐賀 長崎)
              小倉工(2年連続2度目)
☆南九州(熊本 大分 宮崎 鹿児島  沖縄) 
              大分商(初出場)
☆朝鮮   京城商(初出場)
☆満州   大連商(2年連続9度目)
☆台湾   嘉義農林(初出場)

付録 1 
甲子園での台湾代表の戦績
http://www.asahi.com/koshien/stats/summer/p50.html

http://www.mm24mm.com/v-formosa-1915-1973.html

付録 2 嘉義農林甲子園メンバー

1933年夏季甲子園大會代表隊

  • 部長:濱田次箕  教練近藤兵太郎
  • 隊員:
  • 投手:平野保郎(羅保農
  • 捕手:川原信男
  • 內野手:杉田健、今久留主淳、高木光夫、小里初雄、吉川武揚(楊吉川)
  • 外野手:福島又男、吳波(吳昌征)、崎山敏雄
  • 後補球員:有馬純高、張萬居、楊元雄、脇黑丸二男、木村靖

 1935年夏季甲子園大會代表隊

[1936年夏季甲子園大會代表隊

  • 部長:濱田次箕    教練近藤兵太郎
  • 隊員:
  • 投手:東公支(藍德明
  • 捕手:河野博
  • 內野手:盛福彥、脇黑丸二男、奧田元、吉川武揚(楊吉川)
  • 外野手:楊元雄、吳波(吳昌征)、兒玉玄
  • 後補球員:戶田大介、富士農、園部久、濱口牡馬(郭壯馬)、濱口光也(郭光也)
この動画の5分過ぎから見てください。



参考資料:岡本博志著 
            「人間機関車・呉昌征」より


1931年8月21日、全国中等学校(今日の高校)野球選手権大会の決勝戦。7年前の1924年に完成した甲子園球場では、5万人の観客が声援を送り、場内には熱気があふれていた。

こ の夏の甲子園第17回大会の決勝に進出したのは、中京商業と嘉義農林だった。中京商業は1923年の創立、対する嘉義農林は正式名を台南州立嘉義農林学校 と言い、台湾の農林業を振興するためにエリート人材を養成する目的で1919年に創立された。新参の両校が対戦する決勝戦はそれだけで話題充分であった が、その一つが台湾代表であることがさらに全国野球ファンの関心を呼んだのである。

回が進むに従い、戦前の予想通りに中京商業が有利に試 合を進めていた。三回裏、中京が連打とタイムリーヒットで2点を先取した。続く四回にも2点を加えた。その後は両校投手の力投が続き、投手戦の膠着状態の まま回が進んだ。中京は本大会から球史に残る3連覇を成し遂げた吉田正男投手が4安打に抑える好投、対する嘉義農林の四番打者で主将の呉明捷投手も力投し ていた。嘉義農林の敗色が濃くなってくると、白いユニフォームの胸に書かれた「KANO」の文字を読んだ観客が「カノウ」、「カノウ」と大合唱の声援を送 り始めた。

試合はそのまま4対0で終了した。翌日、全国紙が嘉農の健闘を大きく報道し、一紙は「天下嘉農」(嘉農ナンバーワンの意)と讃えた。

試合後、新聞記者が嘉農の近藤兵太郎監督にインタビューをした。近藤監督は松山商業野球部出身、その後台湾に渡って嘉農の教練(軍隊式の体育教師)になり、長く部員から慕われた監督だった。

「それにしても選手たちのスタミナはすごかったですね。甲子園まで4日の長旅と、この暑さによく耐えましたね」
「そ りゃ、大したことじゃありません。何しろ部員は午後2時間の農業実習で汗をかいてから、日が暮れるまで練習しているのですから、むしろ回毎に休憩がある試 合の方が楽だったでしょう。暑さなんて問題じゃない。北回帰線の南にある熱帯の嘉義はもっと暑いですから。選手の中には甲子園は涼しいなんて冗談半分に 言っていたのがいましたよ。ワッハッハハ」と監督が答えた。
監督は急に真剣な表情になって記者に話を続けた。
「嘉農の野球部は台北のチー ムとは違う。台北のチームは全員が台湾在住の政府関係者や会社員の日本人の子弟であるのに対し、嘉農は日本人、台湾人、原住民の三者が渾然一体になった チームで、単に南部が台北より強くなったというだけではないのですよ。私はチームに三者一体の嘉農精神を教えています。親が誰かなんて関係ありません」

嘉 義は北回帰線が通る位置にあり、その南は熱帯になるのだ。嘉義では梅雨空けの5月からは毎日暑い日が続く。嘉農チームはスタッフを入れて総勢18人が、嘉 義駅を出発したのは8月9日の朝9時32分だった。駅前広場に集まったおよそ千人の市民に見送られる中、蒸気機関車が祝砲のように三度汽笛を鳴らしてゆっ くりと動き出した。急行列車で基隆まで約300キロ、8時間かかり、一行が港町基隆に着いた時には陽暮れになっていた。当時日本に渡る台湾航路の基点とし て栄えていた基隆、選手たちは初めて見る港町の賑わいに驚かされた。

翌朝、誰もが生まれて初めて乗る大型定期船の大和丸が岸壁を離れるに 従い、故郷の陸地が遠ざかることに不安と感傷を覚えたが、間もなくどっと疲れが出て、三等室のベッドの上で眠りにおちた。神戸まで1500キロの長旅には 2昼夜と半日58時間かかり、船が最初の寄港地門司港に着いたのは13日の午後だった。

大和丸は港にしばらく停泊した後、門司からの乗船 客を加えて夜中の瀬戸内海を神戸に向かった。翌朝、船が神戸に近づくと、六甲山の麓から海に沿って広がる美しい景色に、部員たちは目を見張った。こうして 8月14日、宿舎となる高校(旧制)の寮に入った。15日から二日間の練習をした。初戦は17日、神奈川商工を3:0で勝つと、札幌商業、小倉工業を退け て快進撃し、決勝に進出した。出場前には無名であった嘉農は一躍全国に知られるようになっていた。
 嘉農チームが嘉義に帰ると、地元はその凱旋を 熱狂して迎えた。それまで8回の台湾大会では台北一中、台北商業など台北代表が甲子園に出場してきたので、南部から初めて嘉農が台湾代表になった時に地元 は興奮に包まれた。加えて初陣で甲子園の決勝戦まで進出した嘉農チームを、はるか日本から嘉義駅に降り立った郷土の英雄たちを、大群衆が歓迎した。「天下 嘉農」、「天下嘉農」と大合唱があたりに響き渡った。嘉義市民にとって嘉農チームは甲子園では二番であったが、彼らの心の中では一番だった。