本書の帯には次のように書かれています。
なんだ? この怪物は……現在の警察庁+総務省+国土交通省+厚生労働省+都道府県知事+消防庁…
戦前に存在した巨大官庁・内務省、本書はその全貌を明らかにしようとした本です。
編者となっている「内務省研究会」は2001年に若手の政治学者や歴史学者が集めってできた研究会で、目次を見ればわかるように錚々たるメンバーが参加しています。
550ページ超えで、内容的には2分冊にしてもいいくらいですし、内容的には「ハードカバーでやっても」という感じではあるのですが、2分冊の新書は買いづらい、読みにくいですし、ハードカバーでこのボリュームだと値段はおそらく5000円近く、そう考えるとこのスタイルで正解かもしれません。
最新の研究を踏まえた記述もありますが、構成が大きな流れから細かい部分へと工夫されており、前提となる知識がなくても読み進められるように工夫されています。
内務省といえば、「有司専制」の大久保利通が自らの国家構想を実現するために強大な権力を集めてつくられ、その後は山県有朋が政党に対抗するための牙城として育成したというようなイメージがあるかもしれませんが、本書を読むとそのイメージは大きく修正されると思います。
また、後半のテーマ編は、さながら「近代日本内政史」といった感じで、近代国家としての日本のあゆみ、そして現代につづく官僚機構の経路といったものがわかるようになっています。
文句なしの歯ごたえ、読み応えのある本と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
はじめに――なぜ、今、内務省を取り上げるのか 清水唯一朗序 論 内務省――政治と行政のはざまで 清水唯一朗通史編第一章 「省庁の中の省庁」の誕生――明治前期 小幡圭祐第二章 内務省優位の時代――明治後期~大正期 若月剛史第三章 政党政治の盛衰と内務省――昭和戦前期 手塚雄太第四章 内務省の衰退とその後――戦中~戦後期 米山忠寛テーマ編第一章 近代日本を支えた義務としての「自治」――地方行政 中西啓太第二章 戦前の「国家と宗教」――神社宗教行政 小川原正道第三章 権力の走狗か、民衆の味方か――警察行政 中澤俊輔第四章 感染症とどう向き合ってきたか――衛生行政 市川智生第五章 河川・道路政策の展開と特質――土木行政 柏原宏紀第六章 救貧・慈善から「社会事業」へ――社会政策 松沢裕作第七章 内務省の議会史?――内務省と帝国議会 原口大輔第八章 国民統合をめぐる攻防――内務省と軍部 大江洋代第九章 災害を防ぐ、備える――防災行政 吉田律人第十章 省内外にひろがる土木技術者のネットワーク――港湾行政 稲吉 晃コラム1 内務省の官業払下げ 谷川みらい2 内務省の人事と官僚の生き様――水野錬太郎と福原鐐二郎 松谷昇蔵3 選挙権なき女性の政治参加――政治家の妻の視点から 手塚雄太4 内務省とそのアーカイブズ 下重直樹5 「人見植夫」――雑誌『斯民』に登場したシドニー・ウェッブ 白木澤涼子6 府県課長のイスにこだわった井上友一 木下順7 文化・芸術と検閲――演劇検閲のあり方から 藤井なつみ8 社会の発見――田子一民 渡部亮9 内務省出身者と政治教育 西田彰一10 内務省と植民地 李炯植11 北海道と沖縄 塩出浩之
まず、前半の通史編の面白さとしては、「発足当時の内務省は最強官庁ではなかった」「内務省の強大化と政党の台頭は車の両輪的な麺があった」という2点があげられると思います。
内務省は大久保利通の肝いりでつくられたこともあって、発足当時から内政の中心的な部分を掌握する最強官庁だったというイメージがありますが、むしろ明治初期の最強官庁といえば、廃藩置県を機に民部省を吸収した大蔵省でした。
井上馨の指揮のもと、大蔵省は民政から財政にわたる法整備を統一的に行おうとし、また、政府(太政官正院)や各省庁を統制しようとしました。
しかし、この大蔵省の肥大化は太政官正院の反発を生み、予算編成権は太政官正院へととり上げられ、井上も大蔵省を去ります。
こうした一連の動きのあと、岩倉使節団に参加していた大久保が帰国します。大久保は内務省の創設を建議しますが、これは大蔵省の分割と表裏一体のものであり、大蔵省の権限が分割される形で内務省は誕生しています。
こうした中で、大蔵省は内務省の設立に干渉し、経費のかかる案件については大蔵省との稟議を必須とするという制度が盛り込まれました。内務省は単独で意思決定ができない省庁としてスタートせざるを得ませんでした。
また、内務省といえば大久保の強力なイニシアチブのもとでつくられたと考えられがちですが、勧業行政についても、事務を担当した勧業寮の長官である河瀬秀治、松方正義、前島密はそれぞれ大久保とは違った考えを持っており、大久保の構想通りには進みませんでした。
大久保は内局を設け、そこに腹心の松田道之をおいて、内務省のコントロールを図りました。
大久保死後、内務省の卿には伊藤博文が就任します。内務省を率いる伊藤と大蔵省を率いる大隈がしのぎを削る状態となり、大隈は内務省の仕事に干渉しようとしますが、大隈が明治十四年の政変で失脚することにより、大蔵省からの圧力は弱まります。
そして、内務卿に就任した山県有朋が、内務省の意思決定から大蔵省を排除することに成功するのです。山県は地方行政と警察行政の仕組みを整えていくことで、内務省を頂点とするヒエラルキーを構築しました。
その後、警察を握った内務省は、品川弥二郎内相の選挙干渉に見られるように、民党を弾圧する側として存在感を発揮します。実際、政党嫌いの山県は内務省を中心に「山県閥」と呼ばれるグループを形成して政党の影響力を排除しようとします。
しかし、内務省が「省庁の中の省庁」としての地位を確立するのは政党の存在があったからでもありました。
警察と地方行政を握る内務省は、政党にとってはぜひ掌握したい存在になります。初の政党内閣である隈板内閣において自由党の党首の板垣退助が就いたのは内相でした。
こうした動きに対して山県は文官任用令の改正などで政党の影響力の排除を狙うわけですが、桂園時代になると、西園寺内閣のもとで原敬が内相を長期間勤め、次第に内務省の中に影響力を強めました(このあたりについてはテーマ編の第7章も参照)。
また、他の省庁からすると、地方に政策を実行させようとするときには、地方を握る内務省の力を借りる必要がありました。このことも内務省が「省庁の中の省庁」になっていった大きな要因です。
政党内閣期になると、内務省への政党の影響力はますます強まります。初の男子普選となった1928年の総選挙では内相の鈴木喜三郎が大規模な選挙干渉を行いましたが、これは政党の進出を防ぐためではなく、内閣の与党たる政友会を勝たせるためのものでした。
内務官僚や知事たちは党派性を帯びるようになり、政権交代のたびに大規模な人事異動が行われることになります。
こうした政党の干渉を嫌がって、1930年代になるといわゆる「新官僚」が登場します。元内務官僚で斎藤実内閣で農相として入閣した後藤文夫などがその代表です。彼は岡田内閣で内相に就任しました。
犬養内閣から斎藤実内閣への交代で政党内閣は終焉を迎え、内務省は自由を手にしたかに見えます。しかし、しばらくは政党の影響力は残りましたし、政党に代わって軍が内務省の行動を制約することになります。
また、後藤文夫をはじめとして内務官僚が内務大臣に就く例が増えてきますが、これは政党内閣期には副総理格だった内相の地位が低下した証でもあります。
1938年には内務省から厚生省が分離しますが、これも軍の意向を受けたもので、戦時改革の中で「おもちゃにされていた」(212p)状態でした。内務省は戦後に解体される以前から、解体されかかっていたと言えます。
最終的に内務省はGHQによって解体されるわけですが、当初、内務省はGHQからの要求によく応えていました。建設省の独立などはGHQの意向に内務省が応えたものです。
しかし、最終的に「内務省解体」という大きな成果を得るためにGHQは頑なに内務省の解体を進めていくことになるのです。
通史編の最後の第4章で米山忠寛が、内務省=「非民主的」、「保守的」といったイメージに対して、政党が警察を動かせた戦前のほうが「民主的」かもしれないし(「山県有朋や山県系官僚がもし公安委員会制度を利用可能であったならばその超然性にどれほど狂喜乱舞したことであろうか」(236p))、石川県では官選知事は62年間で38人いたのに民選知事は77年間で5人という数字を上げて、県知事の「終身制」、「殿様」化を指摘しているのは興味深いです。
後半のテーマ編も面白い論考が並びますが、いくつかしぼってとり上げます。
まずは第5章の河川・道路行政についてです。ここでは道路について見ていきます。
日本では鉄道に比べると道路が貧弱な状況が続きましたが、それは鉄道が鉄道員・鉄道省という国家主体で整備されたのに対して、道路については統一法の制定が遅れ、道路改良は地方の判断に任されている部分が多かったからです。道路法が成立したのはようやく1919年になってからでした。
土木政策全体については、1880年代に内務省と工部省の綱引きがありました。
工部省が内務省による土木行政の遅れを指摘し、工部省への移管を求めました。しかし、工部省主体となればこれらの費用は国家持ちとなり、莫大な費用がかかることになります。また、地域のそれまでの歴史的な蓄積などを踏まえる必要もありました。こうした歴史的な蓄積は非合理である場合もありましたが、河川工事などはこうしたことを無視することはできませんでした。
土木行政は地元との調整が必要であり、そうしたこともあって土木行政は内務省が管轄し続けることになったのです。ただし、同時に内務省が管轄したことで土木行政は政党や政治家からの影響を受けることになります。
次に第6章の社会政策と第8章の内務省と軍部を見ていきたいと思います。
明治になってつくられた救貧政策として恤救規則があります。これは高齢者、障がい者、病気の者、13歳以下の児童という4つのカテゴリーに属していて、扶養可能な者が戸籍上にいないという条件を満たしてはじめて適用されるものでした。
このように、他に救われる手段がない者だけに限って援助を行うというスタンスは内務省にも受け継がれており、1890年以降、内務省ではより救済の範囲を広げた法が検討されますが、こうした法は「惰民」を生むという議会の批判もあって成立しませんでした。
内務省の中でも、社会政策の推進を試みる官僚はいましたが、基本的には「救貧」よりも「防貧」に重きが置かれており、福祉を一種の権利として位置づけるような考えは希薄でした(大正期になると「社会連帯」を訴える田子一民のような内務官僚も出てくる(コラム⑧参照)。
これに対して、軍人の残された家族の援護を要求したのが軍です。この援護制度については、軍と内務省で主管の押し付けあいがあり、軍人の遺家族は軍人ではないということで最終的に内務省が引き取ることになりました。
基本的に困窮を自己責任と捉える内務省にとって、国家が責任を持って対処というスタンスは受け入れがたく、援護を「市の義務」とするものから「隣保相扶」に修正したうえでこの制度を成立させています。
その後も軍は軍事援護制度の拡充を訴え、内務省も次第にその拡大を認めざるを得なくなっています。
内務省から厚生省が独立する際にも、そこには戦時に必要な兵士の体力的な質を求める陸軍の意向がありました。日本の福祉政策については、軍事的な要請によって推し進められきた面もあるのです。
1930年代になると、内務省内でも親軍的な官僚が登場し、軍とともに革新的な政策を進めようとする動きもありましたが、1933年のゴー・ストップ事件では軍と警察の対立が表面化しましたし、戦時でも軍と内務省が対立することがありました。
本土決戦を想定した国民義勇隊構想では、内務省が道府県本部長を地方長官とするを主張し、また、軍人の座る総司令部の設置に反対したことなどによって、結局は内務省の行政補助機関のようになりました。1945年6月に持ち上がった地方総監府の構想でも、内務省が軍政機関とすることを阻止しました。
なお、第8章の東条内閣における軍人出身の内相・安藤紀三郎について書いている部分も面白です。
ちなみに国の事業について、どこの省庁が管轄するかという話は重要ですが、明治の初期においては海港の整備をどこが行うのかというのははっきりと決まっておらず、横浜港の第一次築港は外務省が、その後は大蔵省の税関が築港に乗り出したという話は興味深いです。
その後は内務省が港湾整備に乗り出し、築港も内務省の仕事という形になっていっていきます(第10章参照)。
他にも魅力的な論考が並ぶテーマ編ですが、詳しくは本書をお読みください。
最初にも述べたように、このテーマ編は「近代日本内政史」といった趣きもあり、日本の近代化について学べるような構成になっています。
また、日本の近代史を学ぶ入口としてもいいかもしれません。近年の研究の成果が取り入れられており、多くの人が持っている日本近代史のイメージを覆してくれるでしょう。
本書はほぼ2冊分の新書のボリュームになっていますが、例えば、通史編の第1章とテーマ編の第1章、通史編の第2章とテーマ編の第7章、通史編の第4章とテーマ編の第8章といった具合に、それぞれが補いながら歴史を複合的に見ていくことが出いるようになっており、1冊にまとめた効果も出ています。
内容、そして形式ともに成功している本だと思います。
