これは勉強になった! 今まで長年、日本史の本を読んできて、高校で日本史を教えてきたわけですが、本書を読んで「なるほど、そうだったのか!」となるところが多々ありました。
本書は中国の銭が、日本を含めた東アジア世界に広がっていく様子を追いながら、中国の貨幣政策が中国国内、そして周辺地域にどのような影響を与えていったのかという問題を見ていきます。
また、本書は経済学的な観点からも非常に面白く、「貨幣の流通量が減ると価格が下がる」といった貨幣数量説に反するような現象も報告されています。これらは「貨幣とは何か?」という議論を考える上でも重要な知見です。
さまざまな実証によって既存の理論の修正を迫る非常に刺激的な本です。
目次は以下の通り
はじめに――貨幣を選ぶ人々第一章 渡来銭以前――一二世紀まで第二章 素材としての銅銭――一二世紀後半以降第三章 撰ばれる銅銭――一五世紀以降第四章 ビタ銭の時代――一五七〇年代以降の日本列島第五章 古銭の退場――一七世紀以降の東アジア、自国通貨発行権力の始動第六章 貨幣システムと渡来銭
高校で日本史を学習した人は日本の貨幣について以下のようなストーリーを持っている人が多いのではないかと思います。
日本では律令国家の誕生とともに中国に倣って貨幣をつくろうとする動きが起こり、和同開珎が鋳造された(その前に富本銭もあった)。しかし、経済発展が遅れていた日本では人々は貨幣を必要としなかったために、貨幣はあまり流通せずに延喜・天暦の治の時の乾元大宝を最後に貨幣の鋳造は行われなくなった。この背景には律令国家の衰えもある。
平安時代末期〜鎌倉時代になると商品経済の発展とともに貨幣が必要とされるようになったが、朝廷の力が衰えていた日本では貨幣の鋳造は行われずに、代わって中国の宋銭を輸入することでこの需要に応えた。
室町時代になると、貨幣への需要はますます高まり、中国からの輸入では追いつかなくなったために日本でも民間で貨幣を鋳造する動きが起きた。しかし、その質は低かったために私鋳銭として嫌われ、そういった銭を避ける撰銭が行われるようになった。
だいたいこんなものかと思いますが、本書ではこうした理解を覆していきます。
まず、平安時代末期からの銅銭の輸入ですが、これは必ずしも国内の経済発展にともなう貨幣需要の増大によるものではありません。
実は10世紀終わりから12世紀半ばまでの日本列島ではほとんど銅の生産が行われておらず、銅銭の輸入は、「銭」というよりも「銅」を求めてのものだったのです。
1177年に京都は大火に見舞われて多くの寺院が消失し、1181年には平重衡による南都焼討によって東大寺の大仏が破壊されます。
銅の生産がほとんどない中で、大仏や寺院の梵鐘などをどうやってつくったのかというと、中国から銅銭を輸入してそれを溶かしたと考えられています。987〜1146年まで日本列島で鋳造された梵鐘は2つのみだとされていますが、12世紀半ば以降は数多く作られるようになっていきます(30p表2参照)。
この原料となったのが中国からの銅銭(宋銭)です。梵鐘の銘文からわかることもありますし、また、梵鐘の金属成分の分析からも宋銭と一致していることがわかります。梵鐘だけではなく、鎌倉の大仏の金属組成も宋銭と一致しています(36p表3参照)。
銅銭に関しても、そもそも銅がなければ鋳造できません。日本よりも中国の制度を熱心に模倣した朝鮮半島では、唐の開元通宝を模した高麗開元がつくられたのは998年であり、その後も朝鮮半島では銅銭はほとんど流通しませんでした。銅がなかったからです。
一方、日本では現山口県美祢市の長登銅山などアクセスしやすい酸化銅鉱があり、これが東大寺の大仏や皇朝十二銭の作成を可能にしました。
しかし、これらの銅山は9世紀後半に生産を終えてしまい、仏像も木造が中心になります。銅銭についてもつくろうと思ってもつくれなくなったのです。
また、日本では錫の調達にも問題があり、皇朝十二銭は後の時代になるほど錫の含有量が減っていき、そのために文字が不鮮明になっていきます。
こうして材料として輸入された銅銭が徐々に貨幣としても使われるようになっていきます。1220年代になると、荘園から京都への年貢の納入において今までの米や絹での支払いが銭建てに変わっていきます。
では、銅銭を輸出した側の中国の状況はどうだったのでしょうか?
唐は開元通宝をつくって流通させましたが、銅不足に苦しみました。793年、銅銭1000枚を溶かして6斤(約3600グラム)の銅を得て、それを売ると3600文の売上になるので、銅鏡を作る場合などを除いて民間における銅の使用を禁止すべきだとの上奏がなされています。つまり銅銭の鋳造で大きな逆ざやが発生していたのです。
銅銭を小さくする、銅銭の価値を上げるといった措置も考えられますが、一定量の1文の価値を持つ銅銭が流通している場合、新しく小さい銅銭をつくれば新しい銅銭の価値は低く評価されるでしょうし、銅銭の価値をあげれば最小単位としての通貨の役割(本書では原子通貨と呼んでいる)を果たせなくなります。
宋になってもこの銭不足の状況は続きますが、11世紀になると酸化銅よりもはるかに埋蔵量の大きい硫化銅を製錬できるようになり、銅の大増産が可能になります。1074年には、宋は唐以来つづいていた銅器の保有禁止を撤廃しています。
銅銭も大量につくられるようになり、王安石の新法では行財政のさまざまな面を銭建てにしました。農民の労役を銭で代納させる募役法はその代表ですが、これは潤沢な銅銭の供給があってこそできたものです。
しかし、12世紀になると銅生産ははやくも陰りを見せ、銅銭の額面がその製造費用を大きく下回ることになります。
しかし、唐の時代と違ったのは、すでに鋳造された大量の1文銭がでまわっていたことでした。そのため、銅銭の額面価値を上げることも難しく、南宋は紙幣の発行へとかじを切っていきます。
中国で銅銭の需要が低下するに連れ、銅銭を素材として輸出する動きが出てきます。北宋時代の銅銭は1文でありながら、素材としては1文以上の価値があるので、これを銅として輸出しようというわけです。
南宋政府は1199年、1212年に銅銭の海外輸出を禁ずる法令を出していますが、13世紀半ばには日本の商人が浙江の台州や温州にやってきて10倍の価格の商品と銅銭を交換していったそうです。
南宋を滅ぼして中国全土を支配するようになった元は中統鈔と呼ばれる紙幣を発行して、これを流通させました。
元は銅銭を中統鈔の流通を阻害するものと考え、日本商人に金と銅銭の交換を認めました。ちょうど元寇のころでしたが、元からすると江南地域に中統鈔を流通させることが優先事項でした。
こうして海外に流出した銅銭は、日本では寺院の梵鐘や仏像になり、ベトナムやジャワにも流れていきました。
同時に材料としてだけではなく、銭としても使われるようになり、日本では13世紀末から土地取引が銭建てとなっていきます。
これまで、商品経済の発達→定期市の増加→年貢の銭納化という因果関係で語られることが多かったですが、15世紀になると銭納化が現物納入に変えるようにもとめる荘園も出てきます。だからといって商品経済が衰えたとは考えにくいのですし、歴史的な順番としては銅器物の鋳造(中国銅銭輸入)の増加→年貢の銭納化→定期市の新設という流れで起こっています(58−59p)。
むしろ、貨幣供給の増大が市場を勃興させたという側面が強そうでなのです。
明は成立当初は大規模な銅銭の鋳造を行いますが、古銭などの銅のストックがなくなったのか銅銭鋳造の勢いは鈍り、宝鈔と呼ばれる政府紙幣が発行されるようになります。ただし、この宝鈔は元の中統鈔と違って回収の仕組みが整備されていませんでした。
明は1374年に紙幣を発行し始め、その流通を促すために翌年には金銀を取引に使用するのを禁じ、1393年には鋳造局を廃止し、1394年には銅銭の使用を禁止します。
しかし、たぶついた宝鈔の価値は低下し続け、15世紀には1貫の紙幣が銅銭1文にもならなくなる状況になり、紙幣は流通から消えてしまいます。
明は1503年まで公式には銅銭を鋳造しておらず、銅銭も紙幣もないという貨幣不在のじだいとなりました。この時期には江西・湖広では米と布が、山西・陜西では皮革が貨幣の代わりに使われたと言います。
一方、日本では1400年頃から硫化銅の製錬ができるようになり、銅の生産が復活します。銅の輸入国であった日本は15世紀からは西のスウェーデンと並ぶ屈指の銅輸出国となっていくのです。
東寺に残された銭建ての米価の記録を見ると、1400年頃〜1460年あたりまで米の価格が上がっていっています(73p表7参照)。これはこの時期に銭の価値が落ちたということです。
その後、1460年からは一転して米の価格が下落していき、1530年頃には最盛期の半値以下になってしまいますが、これは米の価格が下がったというよりは、銅銭の価値が上がったと考えられるべきです。
銅銭の使用を禁じた明ですが、大運河沿いとモンゴルと対峙する北方の兵士たちには銅銭の使用を認めていました。
兵士たちの食料や日用品を政府が完全に支給することが難しい以上、食料や日用品を現地で調達するための銅銭の使用を認めざるを得なかったからです。
現物支給に限界を感じた明は、次第に銀の仕様へとかじを切り、前線の兵士たちの給与の支払いも銀で行うようになります。ただし、少額の買い物に便利な銅銭は北方で強い需要がありました。
1453年の遣明船は中国に銅銭3000万枚分の銅を寧波に持ち込み「新銭三千万」を受け取ったとされています。
これ以外にも日本からの銅の持ち込みはあったとみられ、その銅を使って銅銭の私鋳が行われました。日本からの流入で銅の価格が下がったことによって、銅銭(永楽銭)を私鋳してこれを銅銭の価値が高い北方に持ち込んで利益を得ようとしたのです。
この頃を境に、「新銭」「古銭」という言葉が使われるようになります。
価値があるとされたのは古銭のほうで、緑青っぽい色が1つのポイントでした。宋銭、あるいは宋銭を溶かして作られた明初期の銭は時代を経るとともに緑青の色になっていましたが、日本からの銅で新たに鋳造された銭はピカピカの黄銅色でした。
新たに大量に新銭が流通するようになる中で、人々は撰銭と呼ばれる行為を行うようになります。
大量の銅銭は取引を円滑にしましたが、同時に今まで銅銭を蓄えていた人にとっては資産が目減りすることを意味します。そこで、新銭と古銭を区別して、古銭だけを受け取る、あるいは価値に差をつけるという動きが起こります。
しかし、新銭だからといって受け取ってもらえなかったり、価値が低いとされれば銅銭を使う庶民はたまったものではありません。
そこで為政者たちは撰銭を制限させる撰銭令を出します。こうした撰銭とそれを規制する動きは中国でも日本でもベトナムでも起きています。
中国大陸では出土が少ない永楽銭ですが、日本では大量に出土しています。茨城県東海村で出土した永楽銭の金属成分を見ると、輸入中国銭を溶かして、それに日本産の原料を加えて鋳造されたと思われるものもあり、日本で永楽銭がつくられていたことがうかがえます。
大内氏の撰銭令では、永楽銭を混ぜるのは2割までとの規定がありましたが、これは永楽銭が日本でつくられた私鋳銭中心だったからだと考えられます。
このような日本産の私鋳銭は倭寇を通じて中国本土にも持ち込まれ、福建南部沿岸にも私鋳銭製造の拠点が生まれていきました。
16世紀半ばに明が倭寇の抑え込みに成功すると、銅銭製造のネットワークにも変化が起こります。日本では明瞭な文字を出すための錫の調達が難しくなり、日本で流通する銭の質が低下します。
かと言って古銭だけでは円滑な取引は難しくなり、16世紀になると米建ての取引が見られるようになります。信長の撰銭令では米遣い売買の禁止も含まれていましたが、これは大軍を動かしていた信長にとって銭の流通が非常に切実な問題であったからだと考えられます。
16世紀後半になると日本では「ビタ銭」と呼ばれるものが登場します。登場当初は永楽銭の1/7の価値しかないものでしたが、次第にこの「ビタ」なるものが普及していきます。1570年代に登場したビタは、1580年代になると広く使われるようになり、1590年代になるとわざわざ「ビタ」と書かれることもないようになりました。
「新銭」「次銭」「悪銭」などと呼ばれて撰銭の対象となっていた銅銭が、物価の基準となる貨幣として流通し始めたのです。桜井英治はこれを「銭の下剋上」と表現しています(138p)。
石高制の導入についても、「精銭」とも呼ばれた古銭の流通が滞る中で、複層的な銭の使用が始まり、貫高では知行なども行いにくくなったからだと考えられます。
関東では永楽銭が流通しており、江戸幕府が1602年に調査したところ、保土ヶ谷から藤沢までは永楽銭で支払うが、藤沢から岡崎まではビタ銭で支払うような状態だったといいます。
その後、1608年になると幕府は永楽銭の使用を禁じて、すべてビタ銭で払うように命じます。街道筋の支払いの統一を図るためです。
一方、佐賀藩などは古銭(ビタ銭を含むと考えられる)の流通を禁止し、独自の「新銭」をつくって流通させようとしています。萩藩も独自の銅銭をつくりました。
また、小倉藩の細川忠興は領内で銅銭をつくらせていましたが、もっと古く見えるように作り直しを命じたと言われます。これはベトナムなどに向けて銅銭の輸出が計画されていたからだといいます。
日本で鋳造された銅銭の輸出は他でも行われ、日本から銅銭が東南アジアへと輸出されていきますが、これが幕府が朱印船貿易の禁止に踏み切る要因になったとも言われています。
幕府は寛永通宝を作るために古銭の大規模な買い入れを始めましたが、朱印船貿易による古銭の流出はこれを阻害することになるからです。
では、なぜ寛永通宝の鋳造が必要だったかというと、参勤交代制度の確立と関係があります。参勤交代を行うには街道筋で使える統一的な貨幣が必要だったのです。
当初は品質に問題の合った寛永通宝ですが、1655年に薩摩で錫鉱山が発見されたことによって品質も安定し、ビタ銭を駆逐していきました。
本書では最後に、世界のさまざまな貨幣のエピソードを取り上げながら、貨幣を流通させる難しさについて指摘しています。
1円と100円と1万円の貨幣をつくろうとしたとき、そこで使われる素材の価値を価格通りに比例させることは困難です。例えば、銅で1円をつくった場合、100円はその100倍の重さであるべきかもしれませんが、実際にそのようにつくれば大きすぎて、重すぎる貨幣が生まれてしまいます。
そこで金・銀・銅といった違った金属が使われたりするわけですが、この金属間の価格の比率も常に安定しているわけではありません。
また、人々が使うのに必要な貨幣を供給し続けるのも大変です。中国は長年、少額貨幣の不足に苦しんでいました。
これを救ったのは宋の時代の銅の大増産と、そのときに鋳造されたおよそ2000億枚の銅銭です。この銅銭は中国大陸のみならず、日本や東南アジアでも通貨として流通し、東アジアの経済に大きな影響を与えました。
歴史を見ると、貨幣の不足が物価の高騰をもたらすという意外な減少も見られます。
貨幣数量説によれば、「M(貨幣供給)×V(流通速度)=T(取引商品量)×P(価格)」となり、貨幣供給が経ると価格が下がると考えられますが、これはMとTを独立したものと考えているからです。
ところが、歴史を見ると、貨幣の不足がその地域に持ち込まれる商品の減少を招き、物価の高騰をもたらすという現象も見られます。TはMに依存していることがあるのです(途中で紹介したように、日本の定期市の勃興をもたらしのは中国からの銅銭の流入だった)。
このように本書はアジアの銅銭の歴史をたどることで、経済学の理論の修正をはかるという非常に刺激的な内容になっています。
最初にも述べたように、日本史や経済学の本をそれなりに読んできた自分にとっても非常に勉強になるものでした。歴史や経済に興味のある人に自信をもってお薦めできる本です。
