九州最大の勢力誇る
鎌倉以来の名門大名
戦国時代における九州最大の大名は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん、義鎮・よししげ)であった。
平安時代、大友氏は相模国に住む武士であったが、当主の中原能直(なかはらのよしなお)が源頼朝の寵愛をうけ豊後や筑後の守護に任じられ、その子孫が豊後に土着して勢力を広げるようになった。
大友宗麟はそんな大友氏二十一代目で、豊後・筑後・肥後の守護職を継承し、周防の大内氏が滅んだとき、大内領だった豊前・筑前・肥前も配下におさめ、さらに海を渡って四国の伊予へも力を伸ばした。永禄二年(一五五九)には、宗麟は将軍義輝(よしてる)によって九州六カ国に加え、日向と伊予の守護に任じられた。
だが同年には、安芸の毛利氏との戦いが本格的に始まるとともに、薩摩の島津氏も盛んに領土拡大に乗り出すようになり、決して王国が安泰だったわけではない。そうしたこともあって宗麟は、永禄五年頃に臼杵(うすき)城を築き、豊後の府内からここへ移った。臼杵は三方を海で囲まれ、建物は山塊の上に高くそびえ、城へ入る通路も一本の小道しか存在せず、容易に敵を寄せつけぬ堅牢な城郭だった。しかも、城から睥睨(へいげい)できる臼杵湾は、九州東岸のほぼ真ん中に位置し、瀬戸内海航路や四国、さらには東南アジアや中国大陸に通ずる海上交通の要衝地だった。豊後府内については、嫡男の義統(よしむね)にその支配を任せたが、完全に家督を譲ったわけではなく、大友氏の実権は相変わらず宗麟が握っていた。
家臣間の亀裂を生んだ
キリスト教への傾倒
日向国都於郡(とのこおり)の大名であった伊東義祐(いとうよしすけ)は、天正四年(一五七六)、島津義久の侵略に耐えかねて豊後へのがれ、宗麟に島津の手から領国を取り戻してくれるよう日向への遠征を乞うた。宗麟は島津の強大化を苦々しく思っていたから、要請に応じて島津に痛撃を与え、あわよくば滅ぼしてしまおうと考えた。加えてもうひとつ、攻略した日向にキリシタンの理想郷を造ろうと決意したのである。
宗麟はキリスト教を保護したが、当初は南蛮貿易の利益が目的だった。キリスト教の布教を許さない地域には、ポルトガル船が来港しないからだ。だが、信仰のために命をささげる外国人宣教師たちに接するにつれ、宗麟はキリスト教に魅了される。宗麟は臼杵城内に建てられた宣教師の屋敷に子どもたちをともなって訪れ、たびたび食事をともにし、教会にも足を向けるようになった。さらに息子や家臣にキリスト教への入信をすすめたので、天正三年(一五七五)には次男親家(ちかいえ)が洗礼をうけ、大友家の重臣も入信しはじめた。
だが、宗麟の正妻はキリスト教に親しむどころか激しく憎悪し、信者になろうとする者を強引に引き留め、宣教師を迫害した。彼女は奈多八幡宮の大宮司奈多鑑基(なたあきもと)の娘であり、こうした出身ゆえ、キリスト教を嫌悪したのだろう。宗麟は妻の無理解にたえてきたが、ついに我慢できなくなり、この天正六年(一五七八)に彼女と離縁し、正妻の侍女だったジュリアを後妻として、自身もキリスト教の洗礼をうけた。だが、宗麟の入信は、家臣団にも大きな亀裂を生んだ。入信をめぐり一族で騒動になったり、口には出さないものの、神仏を崇敬する重臣のなかには宗麟に不信感を抱く者も出たはずだ。
存亡をかけた一戦よりも
理想郷建設に邁進
さて、宗麟が軍議で日向遠征を発表したとき、重臣の意見はふたつに割れた。軍師の角隈石宗(つのくませきそう)らは「島津氏は強く、日向の地形は複雑であり、留守中に毛利氏が攻めてくる心配もある」と反対した。しかし、重臣の田原紹忍(たわらしょうにん)は、宗麟に賛同して出兵をとなえた。紹忍は、息子がキリスト教に入信したのでこれを廃嫡したところ、宗麟の怒りをかい、元に戻した経緯(宗麟が引き取ったとの説もあり)があった。また、彼の妹は、離別された宗麟の正妻だった。こうした事から宗麟の信頼を回復するため、主君におもねったのだと思われる。こうして遠征が決定したが、これが、大友王国瓦解の引き金になった。
遠征の総大将は田原紹忍がつとめることになり、十月に出立した軍勢は四万を超えた。また志賀親教、一万田鑑実(いちまだあきざね)らを将とする別働隊三万が組織され、遠征を支援するため肥後方面へ進出した。宗麟自身は海路で日向へ向かい、県(あがた、現・延岡)地域に上陸してはるか後方の務志賀(むしか)を拠点とした。しかも陣中には妻ジュリアとガブラル神父や修道士などキリスト教関係者をともなう呑気さを見せた。宗麟は周囲の寺社を破壊させ、その木材で教会や住居などをつくりはじめた。だが、当主自らが前線へ顔を出さないことで、兵の士気は弱まり、その威令も戦線に届かなくなった。
四万を超える大友軍は、宗麟の命令により、寺院を次々破壊しながら進撃していった。この行為は住人の怒りを誘ったばかりでなく、仏教を信奉する大友兵にとっても耐えがたい行為であった。
大軍を擁するも
大将不在で統率を失う
大友軍が標的としたのは、豊後府内から二百キロ離れた高城(たかじょう)。島津方の山田有信と島津義久の弟・家久が一千五百で守っていた。
大友軍は、カンカン原と呼ばれる台地に陣をすえた。高城との距離は一キロも離れていない。着陣すると、ただちに大友軍の先鋒は城下の民家を焼き払い、城の大城戸へ殺到した。対して家久は城中から激しく鉄砲を浴びせかけたため、いったん攻城軍は後退した。だが、いくら要害でも、これだけの大軍に囲まれたら、長期間、守り抜くことができない。家久は兄・義久の援軍を待ち焦がれた。
だが義久は、日向の伊東氏旧臣らの一揆に手を焼き、足止めを食らっていた。ようやく十一月、義久は姿を現わした。まもなくして義久の弟・義弘も財部に着陣した。すると義久は根白坂(ねじろざか)に陣を置き、大友軍に夜襲をかけるなど、挑発行為をおこなった。義弘のほうも、大友軍の松尾砦を襲撃して大友軍をやぶった。
ここにおいて大友軍は軍議を開き、城の包囲を解いて一気に島津の本軍と決戦するかどうか審議した。佐伯宗天(さえきそうてん)や角隈石宗は、「肥後から来る味方の到着を待って決戦に望むべきだ」と自重論を説いた。だが、田北鎮周(たきたしげかね)は「翌朝、総攻撃を加えるべきだ」と主張。最終的に総大将の田原紹忍は、自重論を支持した。するとこの決定に激怒した田北は、席を蹴って自陣に戻ってしまった。
翌朝、田北は無断で進軍をはじめた。味方の大友軍は大いに驚き、「あやつらだけに手柄を立てさせてはならぬ」と、戦闘準備もととのわないうちに戦功に逸って個々に出撃していった。もし軍議の場に宗麟がいたなら、こうした混乱は起こらなかったはずだ。
大敗を喫した大友軍
勢力挽回はかなわぬまま衰退
島津の先鋒隊は、大友軍の襲撃に苦戦し、ついに支え切れず背を見せて味方の本陣に向かって敗走をはじめた。大友軍はそれを夢中で追いかけ、隊列が長く伸びきってしまった。
「敵を撃滅するチャンスである」と考えた島津義弘は、ただちに本隊を三つに分けて散開させ、迫り来る大友軍を三方から囲みこむような陣形をつくった。そして、近づいてきた敵の先頭に向かい、鉄砲を激しく放ち、相手がひるんだところを左右からその横腹を突くように攻撃させた。細く伸びきった大友軍は、左右から襲い来る敵に各所で隊列を寸断されていった。この状況にたじろいで大友軍が進撃をとめたとき、島津義弘隊が正面から一斉に突撃してきたのである。
かくして、敵味方が入り乱れての混戦となった。だが、まもなくして、大友軍の後方に突如、島津の兵が出現したのである。いるはずのない敵を目の当たりにして、大友の兵士たちは茫然としたが、彼らは高城の城兵であった。大友軍が包囲を解いて島津の陣へ攻めかかったことで、すかさず城を出て味方の応援に駆けつけたのだ。
にわかに背後に敵が出現したことで、大友軍は大混乱に陥り、一斉に逃亡をはじめた。
これを島津軍が追撃して次々と大友兵を倒していった。さらに十数キロ以上、執拗に追いすがり、耳川に大友軍を追い詰め、渡るのを躊躇している兵を殺戮していった。大友軍の犠牲は四千人を超えたともいう。
さて、後方で都市建設に励んでいた大友宗麟だが、味方の大敗北を知ると、仰天して取るものも取合えず、すぐさま務志賀から逃亡をはじめた。なんと、宣教師もその場に見捨てたといい、飢えに苦しみながらようやくのこと豊後国臼杵へ戻った。
しかし、この遠征での大敗北によって、一気に大友帝国の瓦解が始まり出した。宗麟の重臣たちは次々と大友家から離れ、島津義弘や新興の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)と結ぶようになっていった。
こうして、九州全土を平定する勢いを見せていた大友宗麟は大きく勢力を退潮させ、九州は大友・島津・龍造寺の鼎立(ていりつ)状態が生まれたが、天正十二年に龍造寺隆信が戦死すると、にわかに活気づいた島津氏が大友氏の領国への侵略を強めた。こうした危機的な状況において、宗麟は自ら大坂城の豊臣秀吉のもとへ行き、救援を求めたのである。このため秀吉は大軍を派遣して島津氏を征伐したが、戦後、大友氏はわずか豊後一国のみ安堵されただけで、秀吉の傘下に組み込まれた。しかも同年、宗麟は五十八歳で死去してしまったのである。九州の太守の哀れな晩年であった。
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