アニメができたらいいなと妄想しているブログ

他人の作品を観て、「自分ならこうするのに」と、妄想するのって楽しいですよね。その妄想を割と本気でまとめてみたら、アニメの原作ができるんじゃないかっていう、さらに妄想なんですけれど、二次創作という名前の寄生をして、誰かに完成品を作ってもらおうと素材になりそうなものをばらまいています。

相互RSS募集中です

2019年03月

ついでだから「ウエストワールド シーズン1」のレビューをしてみた

episode-10-1024-480x270

最初に注意が必要なこととして、物語の時間軸が交錯していて途中で迷ってしまうと思われますが、これは気にしなくて良いことです。と、言い切ってしまいます。理由は、ホストの受ける感覚を観客にも理解してもらおうとの演出で、実際に起きた事柄の前後関係がわからなくなってしまった状態でいたほうが、より楽しめると僕は思うからです。同じ理由でループするセリフの不自然さも、全裸で「モノ」として扱われる屈辱感も、ホストたちの見せる表情に違和感を感じるのも演出です。

そして、目をそむけたくなるような暴力シーンも必要以上に感じるかもしれませんが、これも計算されたものだと思います。というのは、作品が「リメイク物」で、現代の状況に照らし合わせると「こんなもの」じゃないかという製作者からのサジェスチョンだと思うからです。

例えば、モンスターを倒しまくって爽快になるゲームがありますが、あれは対象が「人間ではない」だけで、大量殺戮に変わりはないと思います。相手が人間でなければ、「残酷ではない」という解釈です。あるいは、乗り物(ロボットを含む)を破壊したり、建物が倒壊すれば、必ずそこで負傷・死亡する人間がいるはずなのですが、直接の描写がなければ問題がないのが、現在(2019年)のエンターテインメントの作り方で、そういうものばかりだと言っても過言ではないと思うのです。

特殊メイクでホストを演じていた1973年の映画の頃より、CG全盛の現代はそういう意味で残虐性は驚くほど増していると思われ、更に先に進んだロボットがエンタテインメント事業に進出する頃はもっと残酷なものが喜ばれるようになっている可能性は否定できないと思います。繰り返しますが、相手が「人間でなければ」タガが外れてしまう現象はすでに起きているのです。

そういうものをふまえて、「では、A.I.側はどういう反応をするのか」と問いかけをする前に、観客にA.I.の体験を共有してもらう必要があると考えられるのです。ですから、この作品を視聴して、途中から気分を害されたり不愉快な思いをされたなら、それは製作者の意図する通りの反応で、その状態のママ最後まで視聴されることをおすすめします。









TVドラマ「ウエストワールド」を観て A.I.の時間だ!

【ご注意】ネタバレとまでは言いませんが、伏線だった部分をクローズアップしますので、そういうものをお気になさる方は、先に作品を半分以上ご視聴になることをおすすめします。

Westworld

この作品の中で非常に興味深い考察が出てたので、A.I.について語るときの参考になるのではないかと思っています。いつも出てくる「A.I.と人間を区別するのは何か?」というもので、いわゆるチューリングテストのようなものとは別次元の、「ゴーストが囁く」とか、そういう直感的なものでストーリーの中に入れ込むことができないかという試みです。

作品が英語で作られているので、英語の表現・解釈がとても重要なのだとは思いますが、僕にそれほどの英語力がないので、「全体の流れからの考察」になってしまいます。いくつかのキーワードの細かいニュアンスとか、それが理解できればもっと面白いのかもしれませんが。

技術が進歩してゆき、人間と同じものが作れるようになったとき、あるいは逆に人間のパーツが人工のものと置き換えられてしまったら、最後に自分が人間であると証明できるのは何か?(これは草薙素子が問い続けているもの)という問題が生まれてきます。その答えは「意識」の中に存在するのではと考えられ、「意識とは?」という新しい問いが生まれます。

前提として、機械(A.I.)の反応は「そう作られている」からで、例えば体を傷つけられたとき「痛み」を感じるのは、その時にそういう反応をするように予めプログラムされているからで、プログラム通りの反応が「痛み」としての表現なだけで、実際の「痛み」は存在しているのか?ということになるのです。「感じる」ことが「意識」なのだと仮定して、人間とA.I.の感じ方の違いが両者を区別するときの鍵になるんじゃないかということです。

「そう作られている」を別の言葉に置き換えると「そういうもの(プログラム)が存在する」と言えると思うのです。これを逆転させて「存在しないものへの執着」が、人間としての「意識」なのじゃないかというのが新しい解釈なのではないかと考えています。「痛み」には形も重さもありませんが、人間ならそれを感じることができるという仮定で、「存在しないものへの感覚(悲しみ・苦しみ)」が、人間とA.I.を決定的に分けることができる方法なのではないかということになっています。

新しい人間の定義の方法です。













すいません。書き進めていったら、ネタバレ方向に向かってしまったため、以下、【ネタバレ注意】な内容です。









更に進めてその「存在しないものへの感覚(悲しみ・苦しみ)」をA.I.に組み込んでしまえば、彼らにも「意識」が備わり、結果、人間と同レベルの「知的生命体」へと進化できるのでは?という考えが、このストーリーの大きな伏線になっていると思われるのです。この作品のあらすじをひとことで表すと「A.I.が進化する過程の産みの苦しみ」と言えると思います。物語に登場する「黒服の男」は、残虐で凶悪な殺戮を繰り返しますが、ホストに対してできるだけの「悲しみ・苦しみ」を与えようとしていると見ることもできます。彼がウエストワールドに居続ける理由や狙いは明らかにされませんが、結果的に、フォード博士が自身の間違いに気づき方向修正した「アーノルドの目指したゴール」へ向かう後押しになってることで、彼の正体と重なってゆくと思います。

ということで、ラストシーンとして描きたかったのは「ドロレスの最後の行動」ではなく、「メイヴのとった行動」ではないかというのが僕の感想です。



「やってはいけない」どろろの描き方

どろろが女の子だということが作中で語られてしまったので、もう公然の秘密ではなくなってしまいました。原作や1969年のアニメを知っている人だけの密かな楽しみだったのですが、幼児ポルノの範疇に入ってしまうので、これからはおおっぴらにどろろの絵を描けなくなってしまいました。以下、過去にツイッターに載せた絵をまとめたものです。

どろろ

これは、こういう服を着ていたら前かがみになったときは「こういう風になってしまいますよ?」というものを絵にしてみたものです。アニメではそうならないように作画されていて、少し不自然になっているのを感じてほしいという思いで描きました。

どろろ

これも同じく、こういうポーズのときにこの向きから見るとこうなるというものです。

どろろ

これは、実際にどろろが着ている服の素材によって変わってくるとは思うのですが、まあ、薄い生地だったらこうなることは想定の範囲内ということになります。

どろろ②

これは、左がアニメのオリジナル画像で右は「もし、どろろが男の子だったら」という僕が加工した画像です。右の画像を見た後に左を見ると、とても攻め込んでいることにお気づきいただけると思います。

どろろ

で、それを元に描いてみた「やってはいけないどろろの描き方」です。ツイッターに載せたものより更に一筆線を増やしたのですが、本当に「やってはいけない」絵になってしまいました。


<追加> 第13話(2クール目)で、温泉エピソードがありました。実写版だとアウトなカットがいくつかあったのですが、アニメだと「描かなければ大丈夫」なわけで、あえてそれを描き込んでみました。

温泉のどろろ



物語の新しいラストの作り方について考えてみた

「スリー・ビルボード」と「シェイプ・オブ・ウォーター」の2本の映画を観て、感じたことを。

174042

91NXqvgbJtL

上記の映画のラストシーンについての考察なので、壮大なネタバレをしています。ご留意ください。

まず、スリー・ビルボードなんですが、途中で終わっています。そういうと身も蓋もないので、具体的には、ストーリーの中心は主人公のミルドレッドが自分の娘を殺害したレイプ犯を探すというものなのですが、結局犯人の手がかりすら無い振り出しに戻ってしまうところで終わってしまうのです。

で、これは表面的な部分で、この映画で描きたかった一番重要な部分はミルドレッドの心の中なんじゃないかと思うのです。つまり、彼女は最悪の形で自分の娘を失うことで、元に戻せないほどの心の傷を負ってしまい、その傷を癒やすためには「犯人」という完全な悪を生贄にする必要があるのですが、犯人は見つからず、彼女はその怒りの矛先を身の回りすべての人間に向けてしまっているのです。

彼女に「仲間」ができて、絶対に許すことが出来ない相手と和解できて、笑顔で話すようになったところでストーリーが終わっているのです。つまり、「彼女が普通に戻った」ことが一番肝心な部分だったのではないかと思われるのです。「怒り」や「悲しみ」の感情から逃れるために必要なことは「普通に戻る」ことだというのが、この作品の伝えたかったことなんじゃないかと思うのです。ですから、「犯人探し」や「復讐」というのはほんの表面のことなので、わざわざ付け足す必要もなかったと考えられるのです。

もう一つ、ミルドレッドがアイダホで「男」どうしたのか、劇中では描かれていませんが、これをどっちの結末を彼女が選択したかと想像するにあたって、観客自身が善人か悪人かを判断するリトマス試験紙になっているのではないかと思います。というか、彼女自身が「男」を殺すことに意味があるのかすでに気づいているというのがわかって、それがストーリーの結末だという考えもあります。



そして、シェイプ・オブ・ウォーター」。こちらは逆に余計なものが付け加えられています。主人公のイライザと謎の生物との愛についてのお話です。主人公のイライザは発話障害で、その他の登場人物にはマイノリティの人たちがたくさん出てきます。そして、謎の生物というのが言い換えると「究極のマイノリティ」なわけで、この作品は「マイノリティ同士の恋の物語」とも言えるのです。

ラストシーンで、二人は拳銃で撃たれて水の中に飛び込むのですが、普通ならここで二人の死によってストーリーが終結してしまうところを、映画では「ファンタジー結末」になっています。僕はこれを、その場にいた人たち(観客を含む)の「脳内妄想」のためのミスリードじゃないかと思っています。これが事実なら、あまりにも都合が良すぎて「ドン引き」してしまうプロットなのですが、あえてそれをラストにすることで、ファンタジー作品の王道結末を見せたかったのではないでしょうか?

別の言い方をすると、「眼の前に現実を突きつけて、何のメリットがあるの?」ということで、「ありえない結末」を見せることで、現実の受け止め方の選択肢を増やそうとしているのではないでしょうか?または、「愛の成就」を迎えるにあたって、ネガティブな要素で相殺されるのを避けようとしたのではないでしょうか?「二人は結ばれた。でも死んだ。」では、ファンタジー作品の結末としては失格なわけで、その先を誰も知らないのであれば、ファンタジー全開でも否定は出来ないし、それなら、何を持ってきても不適切にはならないわけで、それなら最高のハッピーエンドを持ってきても「陳腐化」はしないということになるのです。

あるいは、究極のマイノリティーである謎の生物に同化することで、マイノリティーを正当化するのが目的だったのかもしれません。生きていることさえ、それは人間側の勝手な基準であって、謎の生物とともに生きてゆくことができれば、それがハッピーエンドなのでは?という解釈なのかもしれません。イライザは彼(謎の生物)のホームグラウンドである海の中に取り込まれることで、彼の世界の中に属することが出来た幸せを感じたのかもしれません。それをわかりやすく表現したのがラストのシーンだと解釈することも出来ると思います。

荒唐無稽とも言えるラストなのですが、違和感を感じるよりもハッピーエンド的な感覚が大きかったのは、彼女の幸せを感じていたからなのかもしれません。



<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-2725067-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
記事検索
ギャラリー
  • 忍者ハットリさん その後
  • 「ロード・オブ・ザ・プルトニウム」を考えてみました
  • アニメ「pet」についてひとことふたこと言わせてください
  • 「謎設定」を血肉にしてみる
  • 「バトルもの」に足りないもの
  • スティーブン・キングに捧ぐ(死んでないけど)
楽天市場
読者登録
LINE読者登録QRコード
カテゴリー
アーカイブ
RSS
メッセージ

名前
メール
本文

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('