PEAKを生きる

科学の力で、能力を最大化するブログ

リーンスタートアップはなぜ実践されないのか?認知バイアスと「合理的な」人達の物語

f:id:kasajei:20171005091711j:plain

 どうやら僕には、リーンスタートアップを学んでいた時に、腑に落ちてない部分があったようだ。その腑に落ちてなかったことに気づいたのは最近の話だ。直感的に、リーンスタートアップが正しいことは感じていたし、新規事業や起業の方法論として最適であると確信さえしていた。「スタートアップとは科学的実験だ」というエリック・リースの表現には、共感していたし、強く同意していた。今でもそれは変わらない。

自信過剰な理想論者

 しかし、どうも話が合わない人がいることにも気づいていた。新規事業をやっていても、リーンスタートアップが嫌いな人がいるのだ。もしくは「これからはリーンスタートアップだ」と言っていても、どうにも実践しようとしない人たちがいる。彼らは、都合の良いところでは”リーンスタートアップ”を持ち出し、他人を動かそうとする。一方で、都合の悪いタイミングでは、自分の意見を無理やり通そうとする。そのアンバランスさは目に見えてわかりやすく、エゴというものは恐ろしいものだなと思っていた。

 リーンスタートアップは、痛みを伴うのは確かである。だからこそ、目を瞑ってしまいたいときもある。そんな現実に目を向けたくはないから、時にはリーンスタートアップから逃げているのだと思っていた。

成功を評価する愚かさの弊害

 また、問題は評価制度にもある。世の中の評価制度は一般的に、”絶対に”成功することしか、評価にはつながらないようになっている。なので、リーンスタートアップ的な方法を行うよりは、評価制度の中で”生き延びる”方法を選んだほうが良いこともある。こういうときに出る口癖は「とはいえ」だ。「リーンスタートアップでやることが正しいことはわかっている。とはいえ・・・」といった具合である。僕にも、その気持はよくわかったし、そのようにせざるを得ない状況も多々あった。しかし、評価されるべきなのはチャレンジなのだ。だいたいの評価制度は、成功に偏りすぎている。意義のあるチャレンジを、そして失敗をもっと公平に評価せねばならない。

プラトンとラプラス

 リーンスタートアップを心から受け入れない人は、「合理的」なのだ。もしくは、新規事業を成功するために、合理的な方法や戦略があると信じていて、それを自分が実行していると思い込んでいる人達だ。ラプラスを登場させる必要はないかもしれないが、全能なる知が存在し、自分が成功してきたのは「それを知っていたからだ」と思っている人達だ。また逆に、自分の成功から法則を見出し「ほら見たことか」と大ぼらを吹く人達である。

 さて、ガチガチの合理主義者であり、形而上学的な理想主義者には、リーンスタートアップなんてものはクソでしかない。タレブの言葉を借りれば、”プラトン性”のため物事を型にあてはめることを生業にしている人からすると、リーンスタートアップなんてものは見ていられなくなる。ザ・ファーストマイルの表現を借りるなら、リーンスタートアップは「茹でたスパゲッティを壁に投げてみて、どれが張り付くか?」と遊んでいるに過ぎないと思っている。そして、そんなことを尻目にバカにしつつ、自分だけが正しいと信じてやまない。

理想の果としてのリーンスタートアップ

 ところで厄介なのは、合理的な人がリーンスタートアップを理解してしまったときだ。それが僕だった。「合理的に考えて」リーンスタートアップの手法論が、効率的であると理解してしまったのだ。それは、新規事業の成功を約束する絶対的な手法論のように思えたし、シリコンバレーで鍛え上げられた効率的な方法に思えた。しかし、これでは、ダメである。リーンスタートアップを理解するための、前提が間違っていたのだった(悲しいことではあるが、科学に対する認識も間違っていた。真理などというものは「ラプラスの魔」によって整理され、科学は懐疑主義からして「常に反証できるもの」としてポパーによって定義されていた。数学という学問が好きだった理由が腑に落ちた)。

都合の良い脳が招く不幸

 リーンスタートアップをどの立場から理解すればよいか。それは、懐疑的実証主義である。実証主義とはヒュームによると「事実というものを認定するあらゆる知識は経験から得られる”実証”データに基礎づけられる」という認識を重んじる。また、懐疑主義であるがゆえに「絶対で確実な成功」などは、複雑な世界においてはありえない。「絶対法則を見つけたぞ!」と叫んでいる人たちは、認知バイアスに侵されている確率を理解していない人であると認識する。短絡的な帰納法で世界を理解したりはしない。

 誰かが成功すると、われわれはその成功法則を理解しようとしてしまう。それが、まぐれであったとしてもだ。「日頃の行いが良かったから」なんていえばバカっぽく聞こえるが、こういうことを考えてしまう脳みそを我々は持ってしまっている。これを心理学者はハロー効果と呼ぶ。また、成功した人はさらに成功しやすくなる。これを新訳聖書の「マタイによる福音書」のセリフから、マタイ効果と言う。この2つが組み合わさり、それっぽい理由は瞬く間に「真理」として理解されてしまう。我々は、世界を単純化した法則として理解したいのだ。大抵のことに理由をつけるのは難しく、そう簡単には再現することはできないのにもかかわらずにである。そして多くの人は「なぜ自分だけが不幸なのだ」と嘆く理由もここにある。「私はみんなと同じように行っているのに、なぜ?」。同じサイコロを、同じように投げたって、みんながゾロ目を出す世界なんて、どこにあるんだろうか(まだサイコロは正規分布に従ってるだけあって、現実世界よりは幸せ!)。

実験は成功しないから意味がある

 「スタートアップとは科学的実験だ」と言ったエリック・リースの言葉から、もう一度リーンスタートアップを考えてみる。我々は仮説という事業プランを、顧客開発によって実証していくのだ。そして、確率的な成功と失敗を通して、学習していくのである。仮説を強固なものにし、説明できる事例を増やしていく。成功する(役に立つ)ことを目標にしてはいけなのは、すぐに分かる。科学的な実験研究が、仮説の検証(実証)を行っているのが主な目的であるとしているのと同様に、新規事業ではアイディアを確率的の中に放り込み、学びを得ることが大切なのだ。成功することが大切なのではなく、勇気を持って放り込むことが大切なのだ。そして、失敗は早い方がいい。ずっと「仮説」を考えているだけでは役に立たない。仮説を考えている人は、できるだけはやく発表した方がいい。

痛みを堪え続けることができる人は少ない

 新規事業や起業はポジティブなブラック・スワンを探す旅だ。どこにいるかはわからないが、べき分布的にポンと不意に出てくる。「絶対に成功しろ」なんて、バカなこと言ってはいけない。やらないといけないことは、全部が吹っ飛んで死なないようにしながら(もしくはそういう理解を得た上で)、許容できる痛みの範囲の中で、確率的なボラティリティの高いところに手を突っ込むことだ。痛みの中で学びを得て、プランAをプランBに変えて、また確率の中に放り込む。ちょっと痛いことが続くことに人間は慣れていないから辛い。しかし、エジソンが「1万通りの、うまくいかない方法を見つけただけだ」と言ったように、我々も確率と学習を通して、たまたま成功する努力を続けていく。リーンスタートアップもそういうものだ。確率的に大きな成果を得られるかも知れないという期待値に賭けているのであって、成功法則でも「合理的な」手法論でもない。「ブラック・スワンが出てきたら、捕まえろ!」その挑戦を自分が死なないようにしながら、手を突っ込みまくるのである。決して溺れ死んではいけない。それぐらいしか、僕達にできることはない。

賢人たちに教えを請う