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陳思:チベット事件についての討論ノート

2008-05-13 23:01:51 | ä¸­å›½ç•°è«–派選訳
梁文道の「最大公約数」で在野の学者として触れられている陳思の当該論文。

陳思:サロンでのチベット事件についての討論ノート

2008年3月25日

今回のチベット自治区と他のいくつかの省のチベット人地区の各地で起こったデモと暴動について、北京政府は厳粛に中国民衆と全世界にむかって「ダライ集団が背後で計画し扇動した」確かな証拠があると言った。ネット上でも多くのコメントが、中国政府はチベットの経済開発にこれまで大きな支援をし、チベット人の生活も天地がひっくり返るような変化をしたのだから、チベット人は満足して感謝すべきだと言っている。しかし、ほとんどの人は知らないだろうが、1959年にダライラマがやむなくチベットを離れてインドに避難して以降今日に至るまで、毎年老若男女数千人が、非常食を背負って、徒歩でヒマラヤ山脈という世界の尾根を越え、中国とネパールの国境守備隊を避けつつ、インドのダライラマのもとに逃れているのである。海抜数千メートルの雪山を越えてゆく過程で多くの人が凍死したり餓死したり転落死している。チベット亡命政府のあるダランサラの病院には、毎月新しい亡命者が入院してくる。その多くは途上でひどい凍傷にかかり、手や足の切除手術を受けなければならない。中国人はすでに経済発展を中心に考えることに慣れてしまい、経済が発展することがすべてだと考えている。また、ほとんどの中国人は宗教生活や精神生活の体験がない上に、政府の宗教に対する歪曲された宣伝とチベットの歴史の周到な改ざん(例えばいわゆる農奴制)の結果、中国人がチベットでチベット人を理解できなかったり、チベット人に対して無礼な行為をしたりするのは全く自然なことだ。北京政府はこの数十年の宣伝と教育、経済的利益によってチベット人は政府に感謝していると思っていた。しかも、政府の宣伝のもとで、「ダライ集団」に対して反感を持っていると考えていた。しかし、北京政府は失敗した。経済開発はやったが、受益者はチベット人ではなく、外から押し寄せてきた四川人を中心とする中国人である。経済的にも政治的にも、チベット人地区全域で、チベット人は徹底的に周縁化され、差別され、排斥されている。私はチベット各地区で多くの地元の人と話しをしたが、多くの人が生活水準はたしかに上がったが、社会的地位はむしろ下がったと感じている。政府はチベット人に対しダライラマの写真と著書を持つことを厳禁しているが、実際にはほとんどどの家庭でもダライラマの写真を秘蔵している。たとえそれがペンダントのように小さいとしてもだ。このことから、チベット人は心の奥深くでダライラマを慕っていることがわかる。

ラサの町は、見たところ非常に繁華な町で、数え切れない大小の商店、百貨店、娯楽施設がある。しかしこれらは基本的に中国人のものであり、チベット人の所有はほとんどない。そればかりでなく、ほとんどが中国人であるタクシー運転手は、チベット人を見るとよけて走り、できるだけ乗せないようにし、ときには面と向かって乗車拒否をする。彼らはチベット人の服が汚く、体臭が臭いと考えている。チベット人は自分の土地で、差別される少数民族、二等市民になっている。彼らは心の中で差別され、いじめられているという強い屈辱感を抱いている。この種の屈辱感と怒りがある程度まで蓄積したら、必ず爆発するであろう。だが、チベット人が希望しているのは北京が非難しているように独立だろうか? 私の知っている限り、大多数のチベット人はまず自分を中国国民だと考え、その次にはじめてチベット人だと考えている。だから、彼らの心が求めているのは、決して独立ではない。大多数の人は実のところ「独立」が何を意味するのかよくわかっていない。彼らは独立したら、自分たちの生活ができて、差別や辱めを受けなくてもすむと感じている。

では、インドのほうの状況はどうだろう? ダライラマが1959年にインドに行ってから、何回かの海外視察のあと、このチベットの最高指導者は民主主義が良いと感じ、必ず民主主義を実現しようと決めた。そこで、歴史上はじめて君主が強制的に民主主義改革を行うという状況が出現した。上から下への民主主義の実行である。90パーセントの亡命チベット人はこれを理解できず、投票においても反対した。かれらはダライラマの権威は他をもっては代えがたく、他の人が彼らのリーダーになることは受け入れられないと考えている。しかし、ダライラマは民主主義が人民にとって良いといって譲らず、不退転の決意で古いガシャ制政治体制を解散し、議会制の内閣政府を組織した。内閣総理と各大臣は亡命チベット人全員の投票で選挙し、ダライラマ自身は総理でもないし、いかなる実際の職務にもついていない。しかし、私の観察によれば、彼は今でも実質的なリーダーである。内閣はダライラマの路線を実施することが主であり、亡命チベット人の大多数がダライラマの平和路線を支持している。

もちろんダライラマの路線を支持しない者もいる。彼らはダライラマよりはるかに急進的であり、その政治的要求は「大チベット地区」の独立である。彼らはチベット青年会議を組織し、集会を行い、チベット人と海外に向けて宣伝することにより、彼らの独立要求を表現し、影響力の拡大を目指している。チベット青年会議のメンバーは大多数が高い教育を受けた学生、学者、商人が中心であり、庶民は少ない。そのリーダーは多くが欧米留学から帰ったチベット人である。

初期には、たとえば2000年以前には、チベット青年会議のメンバーはみな若かった。彼らの独立獲得の手段も平和的だった。多くの場合亡命政府のサポート的な活動をしていた。そのころ、チベット青年会議にはいくつかの特徴があった。第一、彼らは若く、大学生と学者を中心とするグループだった。第二、彼らは穏健で、暴力的手段は主張していなかった。第三、2001年のころ、私はそのメンバーと話したが、彼らはダライラマを非常に尊敬しているようだった。ただ、彼らはダライラマが善良すぎて、政治の醜さをわかっていないといっていた。例えば、ダライラマの兄が北京政府と交渉しても、すでにN回も北京政府にもてあそばれている。彼は政治的に善良すぎるし、理想主義的過ぎるのではないか?! ダライラマはしばしば数万人の集会の場で、チベット人に向かって言う。私と北京の交渉は非常に楽観的であり、たぶん二三年後には進展があるだろう。これを聞いた多くのチベット人の感覚は、ダライラマは良い宗教指導者で、温厚な人であるが、それゆえに、彼は政治を簡単に考えすぎているというものだった。後に北京での交渉が再び決裂したとき、チベット人にとっては、集団的辱めの効果があった。ダライラマはチベット人に、もう少し待ちなさいと言った。70~80年代からずっと彼はこの調子であり、いつも楽観的に二三年後にはチベットに戻れると言ってきた。21世紀に入ってから、亡命チベット人たちは徐々にインドなど国外での亡命生活に適応し、また徐々にダライラマの楽観に適応して行った。

たぶん2003年の交渉が失敗したことは、またもチベット人に対する深刻な集団的辱めであった。北京側はほとんどダライラマの兄に会わなかった。ダライラマは交渉前に公の場で、北京政府が我々の宗教生活を尊重し、我々の風俗を尊重することだけを望み、他の経済、軍事、外交などはすべて北京政府が管理しても良いといっていた。しかし、ダライラマの兄はほとんど北京政府と本当の交渉ができず、北京は一貫してダライラマは独立を求めていると主張した。こちらでダライラマが独立を求めないといったばかりなのに、あちらの北京政府はすぐにダライラマに誠意がなく、独立を諦めていないと発表した。大陸の中国人はダライラマが独立を求めていると信じていることを、国際社会ははっきりとわかった。このような環境は、すべての亡命チベット人にとって辱められていると感じられ、ダライラマの路線に再び疑問が生じた。一部の急進的チベット青年会議メンバーは、ダライラマと決裂するという張り紙まで張り出した。もっと急進的な者は、彼を殺して独立の道を掃き清めると公言した。悪く言えば、ダライラマは子供である。天真爛漫で寛容。これでは政治的に受身となり手練手管に長けた北京政府にもてあそばれてしまう。北京政府はダライラマがいまでは交渉カードをまったく持っていないと考えている。だから、彼の死だけを待っており、彼が死んだら、チベットには精神的指導者がいなくなるから、そうなれば処理しやすいと考えている。

十一世パンチェンラマのことがダライラマに非常に大きな教訓と警告になったので、彼もこの点はわかっている。(君たちは活仏の伝統を知っているだろうか? ダライラマとパンチェンラマはともにツォンカパの高弟であり、彼らは転生してもツォンカパを守護すると誓った〔参照:http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_and_pl.html〕。もし、ダライラマが先に亡くなったら、パンチェンラマがその転生霊童を探し出す。逆もまた然りである。この二人の伝統はすでに十数代の長きにわたって続いている。現在のダライラマは14世、パンチェンラマは11世である。だから伝統に従えば、第10世のパンチェンラマが亡くなったら、チベットのタシルンポ寺(扎什倫布寺)が彼の遺言により、11世転生霊童を探し始める。タシルンポ寺は北京に探索の進捗状況を伝えると同時に、もしくはその前に、インドのダライラマに最新の進捗状況を報告していた。よって、ダライラマは北京の前に、11世パンチェンラマを確認した。そして彼の指示により地位継承式を行った。北京は知らせを聞いて激怒した。それに続いて起こったことは、わずか10歳の11世パンチェンラマが父母らと共に忽然と姿を消し、今に至るまで消息不明となったことである。われわれは国外の宗教団体が当時10歳だったパンチェンラマを捜索しているのを見る。これらのことは大陸の中国人はみな知らない。かつて記者会見で、外国の記者が質問をしたら、中国政府のスポークスマンは次のように答えた。「君たちは心配しないでよい。彼は問題なく生きている。外部の妨害を望んでいない」。この回答は11世パンチェンラマがまだ死んでいないことを間接的に物語っている。今私たちが見るパンチェンラマは、本当のパンチェンラマが失踪してから、北京政府が鳴り物入りで引っ張り出してきた少年だ。彼は二年前に修行を終えるとすぐに活仏日記を出版し、共産党がいかにすばらしいか、共産党の温情がいかに深いかを述べた。これは共産党の教育が非常に成功したことを物語っている。もし今の14世ダライラマが死んだら、伝統によれば15世ダライラマが出てくる。そのとき北京政府は再び転生霊童の人選と教育を操るだろう。だからそのような状況を避けるために、ダライラマは14世のダライラマがたぶん最後になるだろうと発表した。

では、ダライラマが転生しないとき、チベットの政治宗教リーダーは誰が担うのか? 我々が知っているのは、カルマパ17世である。彼はすでにインドに亡命し、自分の上師(ダライラマ)と一緒にいて、仏法と政治についてすでにだいぶ成熟している。いくつもの形跡から見て、彼がダライラマの継承者だろう。カルマパ17世がインドに行ったのは、自分の上師と会い、系統的な教学を授かるためだった。世俗権力の観点から見ると、彼は二十数歳で、継承者に内定したことになる。彼のチベット民族と仏教学会における権威はますます高まっており、インドでの住まいもダライラマの近くである。

問題は、ダライラマの権威を、かなり長きに渡って、カルマパは代替することはできないということだ。たとえダライラマが10年後にやっと亡くなったとしても、カルマパはまだ三十数歳である。このような状況の下で、何度も挫折してきたチベット青年会議は、競争のテクニックは向上し、成熟して権威も高まっている。ダライラマは四大宗派の最高指導者である。四大宗派のリーダーは、仏法の修養の面でも人格道徳の面でもダライラマに帰依している。チベット仏教には四大宗派があるが、ダライラマはそのリーダーであり、また政治的なリーダーでもある。私の観察によれば、チベット亡命政府と亡命チベット人の趨勢は、ダライラマ死後、カルマパが精神的指導者になり、チベット青年会議が急速に影響力を拡大し、亡命政府の多数派となり、より暴力的に北京政府と対抗するだろうというものだ。チベット青年会議が宣伝と選挙を通じて内閣を主導し、世俗的権力を固めたとき、彼らの政策はもう中間路線をとることはない、平和的ではなく、仏教の本懐をはなれた暴力的手段となるだろう。政府の主導権を彼らがとれば、政府の要求は独立となる。だから、北京政府の愚昧は、ダライラマが生きているうちに、この事情を適切に処理せず、チベット青年会議が穏健から暴力に、野党から与党になるのを待っていることである。そうなればチベット各地で紛争の火の手が上がり、より収拾が難しくなる。

私はチベット大学に行って、学生の学科別人口比率を調査したことがある。大学には、経営学院、科学学院、チベット言語文学学院がある。経営と科学学院の学生募集は75%以上が中国人に割り当てられている。チベット人がチベット大学で学ぼうと思ったら、大部分はチベット言語文学学院を選択するしかない。歴史の講義は農奴制であり、仏法は教えられず、伝統も教えられない。すべての小学校で中国語を教えており、チベット語と文化は教えていないか、教えたとしても非常に簡単な内容である。私は学生宿舎で内地(中国本土)からチベット大学に進学してきた学生に話を聞いた。なぜこんなに辺鄙なチベットを選んだのかと聞いたら、彼は卒業したあと就職先が保障され、ほぼ全員が政府機関に就職できると答えた。チベット政府と企業、公法人の人選枠組みはこのように準備されている。商業面では、チベットで商業を営む大多数の人は、四川や浙江省から来ており、チベット人はほとんどいない。チベット人の習慣は我々と異なり、たいていある程度お金がたまったらそれで止めてしまう。生活できればいいという考えだ。また、人によってはある程度稼いで、縁があって活仏と知り合って人生の道理を悟ったら、すぐに財産を喜捨して、最低生活を維持できるだけしか残さない。したがって、彼らは全く内地商人と競争にならず、急速に周縁化されている。

では、チベット人が最も重視する仏教信仰はどうだろう? 2003年のころ、西側は中国が信仰の自由を制限していると批判した。北京はすぐに、それはでっち上げだ、チベット人には十分な信仰の自由があると反駁した。国務院はジョカン寺(大昭寺)門前の写真を持ち出して、多くの人が門前で祈っている情景を示した。しかしジョカン寺の本来のチベット最高仏教施設としての機能は失われている。現在は政府が何人かの僧侶に命じて観光客の入場を管理しているが、参観料は非常に高く、ジョカン寺がチベットの政府の主な収入源の一つになっている。我々チベットに観光に行くものは、必ずジョカン寺に行く。しかし、現在のジョカン寺は抜け殻を残すだけで、中では講話は行われていないし、講義も行われていないし、本当の高僧もいない。ゲルク派(格魯派)三大寺院(ガンデン寺〔甘丹寺〕、デプン寺〔哲蚌寺〕、セラ寺〔色拉寺〕)のリーダーはみんな秘密裏にインドに亡命した。だからラサの三大寺院の教育レベルは落ちてしまった。チベット人は彼らの仏法伝承システムを保存するために、インドに三大寺院を再建し、各寺院では千人も万人もの人が学習している。そして、各寺院に募金の担当者がいる。

チベットの多くの小さな寺院は焼き払われた。以前一部の若い解放軍兵士たちは、出家して和尚や尼僧になり結婚しないのは愚かであると考えた。一部の若い解放軍兵士はチベットで多くの犯罪行為を行った。資料によれば、銃で脅して和尚と尼僧に公衆の面前で性交をさせたりした。80年に胡耀邦が視察に行ったところ、見るに忍びないので、北京に戻ってから多くの幹部を更迭した。四川省のセルタ(色達)五明仏学院は、チベット最大の仏法伝承基地であり、最盛期には数万人の中国人とチベット人の信者が集まっていた。一つの谷の中に、数万の掘っ立て小屋が谷底のいくつかの小さな寺院を囲んでおり、非常に壮観だ。しかし、政府が突然命令を出して、二三万人いた男性信徒を千人に減らし、女性は四百人に減らせと言った。政府はさらに地元のチンピラを雇って、仏学院の人の話では、「食住買春」を提供して、信徒の掘立小屋を破壊させた。こうして多くの人が凍死し、餓死した。一部の尼僧の死体は鷲についばまれた。これは、2002年のことである。私は現地に行って、破壊された掘立小屋を見た。もし君がチベット人なら、どう感じるだろう、どうするだろう? これまで中国の指導者は誰一人としてチベットの中国人に向かってチベット人の生活習慣と習俗、伝統を理解しなければならず、できるだけ彼らを尊重しなければならないと言った事はない。こっそりインドに逃げて学習した人たちは、良好な教育と、上手な英語を身につけて、どんどんチベットに戻ってきている。彼らは政府機関や企業、公法人に入ることはできない。英語教師と、ガイドをするしかない。彼らはチベットの出身であり、高い学歴があり、ダライラマの近くにいたことがある。この訴求力と影響力は無限である。これはあたかも古代ヨーロッパの辺境に、突然バチカンで学んだ一人の青年が帰ってきたのと同じ効果がある。

彼らはチベット、青海、四川のチベット人地区で大きな影響力を発揮し、地元のオピニオンリーダーとなっている。チベット青年会議だけでなく、三大寺院のラマたちもいる。彼らはインドで学んで戻り、あるいは三大寺院で引き続き教えている。彼らも同じようにチベットの宗教社会に影響を与えている。

今年発生した3月10日からの事象は、以上の分析をしてみれば非常に自然である。くわえて、3月10日はチベット蜂起記念日であり、今年はオリンピックもある。誰でもこの機会に不満を爆発させればより多くの国内外の関心を集めることができると考えるだろう。私は、ダライラマは絶対背後で操ったり扇動したりした事はないと確信している。彼は、因果を信じるべきだと考えている。もし原因が暴力であるなら、そのような原因から得られる結果は絶対平和ではありえない。だから彼は断固としていかなる暴力的手段による政治目的の達成にも反対している。世界でそして歴史上、多くの民族がすでにそしてまさに暴力を使い、流血を通じて彼らの政治的要求を実現しようとしている。しかしダライラマはこんなにも大きな民族を率いて、たゆまぬ意思疎通と交渉によって目的を実現しようとしている。この点でも彼は我々が大いに尊敬すべき人物であり、全世界の人民が学ぶべき人物である。彼がノーベル平和賞を授与されたのはたぶんそのためであろう。

原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/fcd7774df4d8bce03217f95d07d8891c

(転載自由、要出典明記)

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