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窮鼠句日記2006、今年は一日一句でいこうかな…とは、思いつつ…

栃木にいろいろ雨のたましいもいたり/阿部完市 

2005-02-20 | ä¿³KINGヴァイキング


俳KINGバイキング8

栃木は嘗て足利氏の発祥の地であり、足利市には藤本観音山古墳を始め、確認されているだけでも159基に及び、古代から聖地として考えられていた。更に、男体山は山嶽信仰の対象として神仏習合の霊場のして栄え、その後徳川秀忠により、日光東照宮が家康の霊廟として建立されたことにより、確固たる聖地となった。この句は、そんな栃木の歴史的背景を踏まえて、魂は万物に宿るとされていることから、しとしと降る雨にそれを感じたのだろう。
この句、阿部完市の句集「荷物は絵馬」より、引いた。また、完市は日野草城などにも俳句を学んでいた。(富沢秀雄「春愁の言葉の出口 雨模様」)
★美しいページですhttp://www.miraiku.com/index.htm

(前略)かつて摂津幸彦などの俳句仲間とよく話題にした句の1つがこれだった。現実とは別次元で言葉が世界を作っていること。そのことに私たちは強い興味を抱いた。栃木には行ったことがないが、この句を知ってからは、そこには雨の魂がいろいろと居る、と思うようになった。(以下略)(船団・坪内稔典)
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0502.html


☆WEBの地図で「栃木」の場所を確認してみましたら、アら大変、だ、埼玉、を挟んで更に遠く、成る程、大阪の感覚で伊賀上野あたりと言うのに納得しました。
てっきり東京に隣接かと思っていました。
で、日光もあれば鬼怒川温泉も猿軍団も…「いろいろ」全国区ネタの情報があります。
観光コピーならそちらへ向うべきでしょう。
或は「樹」などの方がより「魂」を見易いのに何故か「雨のたましい」です。無数の「雨粒」の形から無数の「魂」の形との連想でしょうか? 
今ここで私はこの俳句を知覚の側で受け止め様としています。
外世界があり、それを構成する其々の具体物の其々に誰かが命名した言葉があり、それを文法に則って再構築する事によって外世界を再現する(=客観写生)事によって作者の感動・認識を共有・反撥しようとしています。先の「少年来る…」はそれで読める俳句です。発想法がどうあれ、意味が通り、子規に言わせれば「理屈は芸術では無い」と言う所のものに近くあります。

<イメージ>は、言葉の微光である。イメージとは、言葉と言葉との衝突の発火である。だから、それは、かっきりしていることなく、明瞭でなく、完結するものではない。ひとつの思いに近くて、ひとつのかたちに、その色と動きと、それに人間の情動、気分とを加えた一定のニュアンスであり、ゆらめきである。
『ゆらめき光る「イメージ」』(阿部完市)

この作者の作品は作者の精神世界の「吟行」だと言えます。この句なら「栃木…いろいろ…雨…魂…」と次々に浮かぶ「イメージ」が指定する「言葉」を8・8・3のリズム、新仮名文語に留めました。作者の内面世界の「栃木の雨」が取りあえず作品に仕上がったのです。現実の栃木はイメージの素材としてあるだけです。
掲句、阿部完市の代表句と言う事に成っています。
「あなたと私との双方にもたれかかっている言葉、その言葉ではイメージは書き切れない(阿部完市)」と言っている人の俳句は疲れますょ~。
ね、ハタ坊さん(^O^)。

おまけ:句集『地動説』<自選八句>
牡丹花肖伯遠くにねむる寝返りす/阿部完市

にわとりもふらんす人も居らぬなり/阿部完市

ばると海という海がみたくておよぐ/阿部完市

撒水車らぷそでい・いん・ぶるう撒く/阿部完市

空気銃は空気銃の重さ六月/阿部完市

水色は滋賀県の水の色なり/阿部完市

精神はぽつぺんは言うぞぽつぺん/阿部完市

鮎錆び候その首尾候/阿部完市

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Unknown (ハタ坊)
2005-02-22 15:24:05
 俳句はぼんやり頭で読むようにしていますので、あまり疲れませんよお。だから選は誰よりも早いです(へんな自慢)。しかし、このアベカンの評論は読みにくいね。数年前、海程のある幹部さんから「兜太とアベカンではどちらが残るだろう」とえらく難しい質問をされました。「どっちも残るでしょう」とはぐらかしましたが。

 入院中の日野草城に、雨の中ずぶ濡れては、迷い迷いながら訪ねた話をどこかで読みました。でも、アベカンの師系(好きな言葉ではありませんが、異端には使っても良いでしょう)はホトトギス系俳人の西山泊雲郷ですね。野人だったとか。



  名無し浜の汐干を一人ゆくは人    白雲郷

  枝蛙居るところ生きて居るところ

  老いて知る樫の実は二つづつひつつき

  父母も妻も無し夏帽の函を出す

  蝿叩有る時は二本無き時は無し

  西に海わが生涯の春の山



 最近、アベカンさんの句、自己模倣に陥っていて面白くありません。糖尿病らしいですが、体力が落ちているのかな。が、追随者の作品、例えば(アベカンが跋を書いている)山本敏倖句集『天韻』を読むとアベカンの独創性が際立ちます。二番煎じはいけませんね、やはり。
返信する
調べた~~(~_~;) (AQ)
2005-02-22 23:12:16
はい、あの阿部完市の評論は詩のような、モノローグのような、それこそ、言う所のイメージ語で書かれたものかと…

■ 山本敏倖  『天韻』

備長炭玄界灘を渡りけり

されど優曇華まで三日三晩かな

神無月羊降る夜となりにけり

奴凧蠣殻町にひっかかる

一月のビタミンEは籠である

竹夫人あばらの門をくぐります

向日葵のうしろが落ちてしまいけり

軍鶏原色の打楽器をまきちらす

胡桃の中は音のない臨月

僧正の尾を持たされる大旦

さえずりの水平線を折りたたむ

石という時間があり石を見ている

さえずりの1/2のすりらんか

かげろうの越前越後にある抜手

心太は危険思想である

かげろうのえぼしのころをつきとめる

列島ひらたく左右大安でありけり

☆二三、採りたい物も有ります…



2001年1月17日

水涸れの水にて流れねばならず (季語:水涸る)

西村白雲郷

 冬の川や池は底が浅くなり、滝なども細くなる。そんな冬の現象が「水涸る」という季語の本意。さて、この句は、涸れて乏しくなった水でも、水である以上は流れねばならない、流れるのが水の本来だから、というのであろう。もちろん、その水のように人もまた本来の面目に従うのがよいのだ、という含みもある。この句、野崎観音に建つ句碑に刻まれており、白雲郷の禅的な思いの託された句として知られている。

 白雲郷は、戦後、永田耕衣などとともに根源俳句を堤唱Lた。「蠅叩き有る時は二本無き時は無し」「眼に残る群青は何処の露草か」などに私は禅的な機鋒を感じる。昭和33年に73歳で死去。(坪内稔典)

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2001年1月16日

大寒を突っ張れる塀の突っ張り棒 (季語:大寒)

西村白雲郷

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http://sendan.kaisya.co.jp/ikkubak_0102.html



☆富沢秀雄と言う人、御同業のようです
返信する
白雲郷 (ハタ坊)
2005-02-28 19:17:45
 西村白雲郷が『未完』を発行と稔典さん書いてました。そうです、思いだしました。編集作業は稲葉直がやっていて、白雲郷の死後に『未完現実』として稲葉直が引き継いだようです。アベカンさんにとって稲葉は兄のような存在ですから、一緒にこの俳誌に関わったのでしょう。この『未完現実』は薄いですが、読んでいて気持ちの良い俳誌です。二、三人知り合いが所属しています。

 大正11年9月号『ホトトギス』を持っていますが、「西村酒造場」の広告が載ってます。「高濱虚子命名 俳人 西村白雲醸造」、この白雲は白雲郷でしょう。原石鼎らと一緒に西山白雲先生となっていますから、相当優遇されていますね。白雲の誌上の句は、おお、虚子選、雑詠巻頭ですよ、



 蚊帳越しに梁太き雨夜かな  白雲
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