玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

謝罪を要求する人たち

2006å¹´06月07æ—¥ | ãƒãƒƒãƒˆãƒ»ãƒ–ログ論
いまだに大炎上を続けている花岡信昭氏のブログ。
「謝罪」で一度は鎮火するとも思われたが、花岡氏が日経BPに「ブログ再炎上、きっかけはアイドル名と句点」なるコラムを発表してさらに火力が上がったようだ。

私にとって

 ・ 「…。」問題
 ・ 「『モーニング娘。』が日本語を壊した」というトンデモ説
 ・ モーニング娘。の歌や踊りが下手だという花岡氏の主観

のどれもが心の底からどうでもいいことなのでこのエントリでは取り上げない。すでに前のエントリ“「素人」と「玄人」”で書いたことでもある。
花岡氏の論理性の欠如や文章力不足、マスコミ業界人の傲慢についても多くの批判が寄せられているが、私自身は「まあ、団塊世代のジャーナリストならああいうものだろう」という感想しか持てない。誰かに「あれでいいのか?」ときかれたら「良くはありません」と答えるけれど、「炎上」に参加している人たちのように一所懸命(あるいは面白半分)批判する気になれない。批判されるべきことはすでに言い尽くされており、今さら付け加えるものは何もない。

私にとって興味深いのは、「炎上」参加者の多くが花岡氏に謝罪を求めていることだ。
彼らがいったい何について、誰に対して謝罪せよと要求しているのかわからない。
これはレトリックとしてわからない振りをしているのではなく、本当に「どういうつもりなんだろう?」と不思議でしかたないのだ。
もしかして彼らの真意を親切に説明してくださる方がいるかもしれないが、たぶんその説明を読んでも私には「本当にわかった」と納得することはできないだろう。

電気通信大学に中島義道という変わり者の哲学者がいて、世間の常識を逆なでする言動と行動で良識ある人たちから顰蹙を買っている。
電車やバスの社内で流れる「親切な」案内放送に「自分が不愉快だから」という理由で猛抗議したり、「濡れ衣を着せられたが仲間のため言い訳せず耐えた」という「美談」に噛み付いたり、なんともわがまま勝手な人である。中島義道のような人が家族や職場仲間だったらずいぶん困ることだろう。
「思いやりと察し」を至上の価値とする日本社会に反発する社会的不適合の人だが、私はなんだか自分に通じるものを感じている。
中島氏とは無縁の一読者として、彼の本を何冊か買い愛読している。以下はその中の一冊からの引用である。

私の嫌いな10の言葉
 「大人になること」とは、この国ではこういうことです。それは、どこまでも自分の信念を貫くように行動することではなく、信念をうわべでは曲げても全体の「和」を乱さないように行動すること、そういうときの辛さもみんなわかっているのだから、ジタバタしないで、言い訳せずに、頭を下げてただ「私がまちがっていました」と謝れば、それですべてがマルク収まるのだよ。
 こうして、言葉の真の意味を無限に希薄化することを教育する。その人にとって最も大切な信条をも、言葉の上ではかなぐり捨てることを要求する。これは、存外それなりに合理的であって、一旦その修行に耐えて「大人」になってみれば、他人が自分の眼前で「悪うございました」と深々と頭を下げても、ああそうか、随分この人はたいへんなのだなあ、ほんとうは自分が謝る必要がないことを知っているのに、こうして「和」を保つ儀式に参加しようという意思表示なのだなと解釈して、その理不尽な行動を理解してあげる。
 だから、この国ではみんなすぐに謝る。みずからの非を認めているから謝るのではなく、謝ることそのことが社会的に要求されているから、つまり「得」だから謝る。逆に言うと、謝らずにいると、いかに自分が正しいとしても社会的に「損」だから謝るのです。 
 (5 一度頭を下げれば済むことじゃないか! p125-126)

 たしかに、すべての人が心にもなく頭を下げており、そのことをみんなが承知している場合、つまりこうした「謝る文法」がうまく機能していて透けて見えている場合はそれでいいのです。私がこうした定型化された「頭を下げる文化」にヒドク反発を感じるのは、この文化には濃霧の中を歩いているような見通しにくいところがあって、足元をいちいち点検して歩かないと、アッという間に罠に陥ってしまうため。
(中略)
 もう少し踏み込んでみましょう。あるときは「かたちだけ謝る」ことを相手は要求している。しかし、あるときは、それでも許さないともう決心しており、「すみません」と頭を下げる相手に向かって「かたちだけ謝れば済むと思うのか!」とかえってその「うわべ主義」をけがらわしいと言わんばかりにグイグイと批判しさえする。
 (5 一度頭を下げれば済むことじゃないか! p129)

 この国では、「一度頭を下げれば済むことじゃないか」と要求しても従わない者に対する制裁はたいへん厳しい。やんわりと猫なで声でこの「儀式」を迫っていた輩が突如青筋立てて、今度は本気で「謝れ!」と言い出すのです。
(中略)
 こういうことを口角泡を飛ばして要求する当人が、しばしば自分が従っている「かたち」をじつは憎んでいることがある。この誇り高い自分でさえ、幾度涙をこらえて頭を下げたかしれない。威張りくさった相手のアホ面に向かって小便でもひっかけてやりたいほどなのに、「すみません」と震える声で頭を下げたことがこれまで何度もあった。だから、おまえもこの儀式をしなければならないのだ。でなければ、おれが浮かばれない。おれがこの恥辱を濯ぐことができない。おれが、バカを見たことになる。
 こうして、若いころに徹底的に憎しみをもって「かたち」を学んできた者が、妄執的に同じ「かたち」を若いものに押しつけることはよくあることです。ですから、これに従わない者に対して、彼(女)は神経症的に要求する。自分でも恐ろしくなるほど、相手を滅ぼしてしまいかねないほど、目をひんむいて「謝れ!」と命令するのです。
 (6 謝れよ! p145-146)

 こうした事態を逆の側面から冷静に見てみれば、一般に若いころこういう屈辱を味わうことがあまりなかった者は、高飛車に「謝れ!」と命令することは少ない。つまり、どんなにがんばっても、自分が他人を自由にできないことを体感的に学んだ者は、他人に向かって「かたち」だけでも支配しようとすることはない。「謝れ!」と命令して謝ってもらってもなんにも嬉しくはないのです。
 まして、本心から謝ってもらいたい、などという大それた要求をしようなどとは夢にも思わない。人間がいかに互いに違った感受性をもち、互いに異なった信念のもとに生きているか、しかも各自プライドだけは容易に捨てない者であるかを、体感的に知っている者は、「謝れ!」と百回言っても相手の気持ちが変わることなどありえないことを知っている。どんなに悲痛の叫び声をもって相手に訴えても、何時間もじゅんじゅんと説いても、相手の心をツユ変えられないことがほとんどであることを知っている。だから、今度こそ性根を入れ替えてくれるだろう、今度こそ目を醒ましてくれるだろう、などというおめでたい願望を抱くことはないのです。
 こうして、謝ることを要求する人とそれを要求しない人とは完全に別世界に生きている。両者がわかり合うことはまずありません。私は自分がいかに悪いことをしたとしても、その人に命令されて謝ることはしたくない。「謝れ!」と言われた瞬間に、謝りたくなくなる。そして、同じことを他人にも期待している。私はたとえいかにある人から被害を受けようとも、悪さをされようとも、「謝れ!」とだけは言いたくない。
 それは、私が潔癖だからではなく、そういう「かたち」だけの謝罪に虚しいものを感じているから、そんな「かたち」だけの謝罪では納得しないからなのです。私の要求はもっと強くて、たとえそこに本心が見えていたとしても、私に命じられて謝るのでは納得できない。それでは駄目だという直感がある。つまり、私のほうがずっと相手に対して要求が高いがゆえに、口が裂けても「謝れ!」とは言わないのです。
 私は自分が他人にどんなに卑劣なことをされても、当人に強制的に謝らせたくはありませんし、それを要求したくはない。今までも、記憶に残るかぎり、要求したことはありません。もちろん「謝ってもらいたい」と言われたことは少なからずあります。そのうち、ほとんどすべて謝りませんでしたが……それでいいのです。
 (6 謝れよ! p148-149)
* 黄色文字は原文では傍点付き文字

私は中島義道ほどの変人ではないので、誰かにいやな目にあわされて「謝ってくれ」と要求したことがある。ずいぶん昔のことだが、その時は「そういうやりかたが世間並みなのだ」と思っていたようだ。今ではよく思い出せない。
だが、要求して謝罪を勝ち取っても何の満足感も得られず、むしろ苦い後味ばかりが残った。どうやら「謝罪を要求する」のは私の体質に合わないらしい。

花岡氏のブログで謝罪を要求している人たちの気持や考え方は依然としてよくわからない。
だが、中島義道の感覚、いや精神的アレルギー反応は自分のこととして理解できる気がする。

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謝罪についてのみ触れられていらっしゃるようですが (田中)
2006-06-07 02:09:11
多くの人たちが花岡氏に求めているのは

弁解や発言の趣旨の説明ではないでしょうか?



謝罪を求める声が増えたことのみを取り上げていらっしゃいますが

謝罪要求が増えた背景はおそらく

花岡氏が謝罪すると書き込んだにも関わらず

反省の色も謝罪の文言もなかったために

比較的気の短い連中が

『言ってることとやってることが違う』

と怒り出したに過ぎないと思われます



もう一度流れを把握しなおした上で再び同じ見解を示されるのであれば

お互いの考え方の相違で片付けるほかないとは思いますが

一通りきちんと流れを追い直していただければ

玄倉川氏が今回引用なさった文章の趣旨とは異なる内容で

謝罪議論が巻き起こっていることをご理解いただけると思います
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求められているのは謝罪ではないでしょう (nango)
2006-06-07 03:16:47
 炎上が続いているのは、花岡氏が謝罪したからでしょう。その気もないのに。

 私自身は「団塊世代のジャーナリスト」だからでも長野生まれだからでもなく、このblogでの日本海海底地形調査問題についての玄倉川さんの批判に対する氏の醜悪な言い訳から、ああいうものだろうという感想しか持てませんが、氏が要求されていた「謝罪」はああいう形ではないのです。

 安倍なつみというタレントが盗作疑惑を持たれた時、国会議員なら謝罪で済むことでも、表現者としてあるまじき行為ですから、一切の活動を停止しました。

 年頃の女性ならデートをしても当然なのに、矢口真里というアイドルはその現場を撮影されたことで、ファンの夢を壊す結果を招いたのは「アイドル」として相応しくないと、「アイドル」としての活動を辞めました。

 その職業に対しては、職業に応じたモラルがあるわけで、逸脱行為に対しては、表面的な謝罪文ではなく、職業上のけじめをつけることを求めているのだと思います。

 花岡信昭氏に求めてられている「謝罪」というのは、「謝れ」ということではなく、安倍なつみや矢口真里の域に達してないまでも、職業に誠実であることを示すことで、社会人としてのけじめなのだと思いますよ。

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とりあえず (通りすがり)
2006-06-07 03:46:17
色んな人へ色んな意味でこの言葉を捧げます



( ´_ゝ`)フーン
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Unknown (Unknown)
2006-06-07 04:42:33
多分言ってる本人達も、いったい何について、誰に対して謝罪せよと要求しているのかは明確にはわからないんじゃないですか。理屈の話ではないと思います。



興奮した子供が(大人も)「てめぇぶっ殺すぞ」と叫んだとしても、

本気で相手の死を望んでる訳ではないですね。

今回の「誤れこの野郎」も同じニュアンス、単なる罵り文句ではないかと。

褒められたものではありませんが。



冷静なコメントを残している人達は、別に謝罪を求めてないようにみえますが...。



問題になっているのはああいう類の、団塊世代のジャーナリストが他にも大勢いて、それらに対する蓄積した不満が、今回彼に集中しているのではないかと思います。
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Unknown (Unknown)
2006-06-07 05:07:13
心の底からどうでもいいことなら最初から書かなきゃいいじゃん。
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Unknown (koroko)
2006-06-07 05:24:00
信条を守り、自分の発する言葉の希薄化を防ぐために謝るのだと思います。子供に謝れという場合、相手の許しを請うことよりも、子供の成長を願っているように思います。
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Unknown (XYZ)
2006-06-07 07:41:22
謝罪を求めている人ってそんなにいたかな。

それから、本気で謝罪を求めていると、本気で思ってます?
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謝られても…。 (がう)
2006-06-07 09:18:10
>だが、要求して謝罪を勝ち取っても何の満足感も得られず、むしろ苦い後味ばかりが残った。



 問題となっているブログとは関係なく、これは体験的によくわかります。「謝れよ」と言った自分って何なんだと自問したり。ただし、相手が謝るべきなのに謝らないのも腹が立つ。口惜しいと言いますか。



 そう感じているから「きー! くやしい! 謝ってよ」とはまず言えない。一時のカタルシスは得られるかもしれないけれど口惜しさやは残ると思うから。



 「筋を通せ」なら言えますね。私的にはこれは別に謝罪を要求しているわけじゃない。自分が納得するための便法みたいなものです。それで納得すれば良し、納得できなかったら、まぁこんなものかであきらめることが多いように思います。
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異文化衝突…なのか? (古四王)
2006-06-07 12:33:58
これまでのblog炎上事件は、まぁ了解可能、想定の範囲内だと思っていたのだが…。

最近此処で取り上げられている事件には、それをはみ出す「過剰さ」と「継続性」が有り、奇妙に感じています。 私も素直に「わからない」というしかない。



世代間の断絶でも、左右対立でも、市民運動とかの文脈でもなく、別の文脈のように感じています。

個々の「理屈」はわかるが、その「筋?」がわからないので噛みあわないのかな?

ひょっとして「文化が違う」のじゃないかと、けっこうマジに考えてます。
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Unknown (Unknown)
2006-06-07 12:57:52
今回の一件てのはさ、地位も名声もある(あるよね?)オッサンが、



「他人の細かいどーでもいいことには(遷移だの・・・。だの)、

偉そうに厳しく言うくせに、自分には甘~いのは、どういうことだゴルァ!」



っていうことで、そこが一番腹立つ所なんじゃないの。



それってあらゆるジャンルにいる、地位も名声もあるオッサンに

やって欲しくない事なんだよね。

だからこんだけ怒られてるんじゃないの。



さすがにちと気の毒ではあるけどね。
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