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いま、そのとき、かんがえつつあること。

「ふつう」に あぐらをかかない

2007-10-29 | ãƒ–ログ
I don’t wanna walk around with youというブログをみつけた。「あなたと散歩したくない」って意味かな。わかんないや。このブログの紹介文のような文章が おもしろい。
「普通の人間に興味はありません。この中にハゲ・デブ・チビ・メガネ・毛モジャ・早漏・副乳・痔持ち・やたら兄弟が多い・倦怠期の夫婦・岐阜出身・放送作家・実家が乾物屋・歌舞伎役者がいたら私のところへきなさい! 以上。」
最近の記事に「いわゆる「オタク」、この存在を国が障害者認定せよ」というのがある。おもしろいので よんでほしい。

さらりと よんだだけなので、つっこみどころがあるかどうかは しらない。興味ない。ただ、「彼らオタクが「自分はまとも」だと主張するのはあまり賢くない方法といえるだろう。逆にはっきりと「異常者」であることを宣言すべき」というのは、納得がいくのである。まあ、他人に「すべき」だなんて いわれるすじあいは、だれにも ないのだが。

ともかく、この話題に関連した記事として、わたしが かいた「すべての少数派は障害者である」を紹介しておく。

もちろん、「少数派」というのも相対的なもので、少数派でありながら ある面においては多数派に属しているということも当然ある。複合的なかたちで少数派である場合もあり、そのありようは さまざまだ。

だから、「ふつう」に あぐらをかかないのも大事であり、自分の被差別性だけを意識せず、自分のもつ既得権のありかたに注意をはらう必要がある。

だれもが ある点においては少数派に属するところがあると おもうのだが、なかには、自分は「ふつう」であると感じているひともいる。わたしは それを「「ふつう」にあぐらをかく」姿勢だと おもっている。もし、そういったひとが自分のマイノリティっぷりに意識をはらい、社会の抑圧性に気づくことができれば、それは、社会のありかたをふりかえり、批判的意識を発展させるのに つながるのではないかと おもう。だが、「ふつう」でいることが、ふつうだと おもっているほうが、安心できるというのも、ひとつの現実なのだろう。

「ふつう」の外に足をふみいれている自分のすがたをみつけること。それは、既存のワクをこわし、社会をかきみだす動力になるのではないだろうか。

「ふつう」なんてワクは、いつも捏造[ねつぞう]されてきただけの、まぼろしなのだ。まぼろしによって色めがねをかけ、ひとを分類する。おとしめる。まったく いやなことだ。「ふつう」の基準は、いくらだって うごくくせに、いつも、「ふつう」は「当然でしょ?」と、冷静な顔をみせる。すこしも当然ではないのに、そのとき、その瞬間は、「当然」だと おもえてしまうのである。当然って、だれにとって? それは、社会の多数にとって、ということになるだろう。

その「多数」から、外へと ふみだそうということだ。