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蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

読書的秋

2005å¹´10月05æ—¥ 15時55分07ç§’ | å½·徉
よく読書が趣味ですなんていう人がいる。そうですね、良い趣味をお持ちです。わたしも本を読む。読むことは読むのだが趣味ではない。かといって仕事でもない。なんといったらよいのだろう。生活の一部といったらちょっと気障かな。でもほかに言い様がない。
本を読むことは他人の頭で考えるようなものだ、といったのはニーチェだったかしらん。まあそれはたしかにそうなのだけれども、なにぶんにもわたしにはそもそも考える頭がないもので、他人の頭だろうがなんだろうが、とにかく考えられればそれで良いと思っている。
最近出た本に『論理の哲学』というのがある。この手の素人向け出版物は人気があるのか、気が付くと書店に並んでいる。近頃ではフレーゲやゲーデル、ヴィトゲンシュタインの名もどうにか一般に知れ渡るようになってきた。とくにヴィトゲンシュタインなどはその人生あるいは個人的性癖の特殊性から、そして大学での講義の仕方からも、ちょっと神秘的な雰囲気の漂ってくるおじさんで、加えて若い頃の写真のハンサムなこと。ま、これはよけいな話だが。でもさすがにリチャード・モンタギューは一般的ではないと思う。この人は論理学というより言語学の範疇に属する学者なのだけれどの、どんなことをいっているかというと統語論と意味論との同型性ということなんですな。これを理解する一番の早道は彼の論文"Universal Grammer"と"The Proper Treatment of Quantification in Ordinary English"を読めばよいらしい。この論文はRichmond H. Thomasonの編集した"Formal Philosophy"(注1)に収められているのでの興味ある方は見てください。ただし予備知識なしには読みきるのが難しいと思います。じつはこれの日本語による解説みたいな本があって、『形式意味論入門 -原語・論理・認知の世界-』(注2)という。おなじような本でこちらは翻訳書なのだが『モンタギュー意味論入門』(注3)というのもある。翻訳している先生が同じなので難しい箇所は同じように難しいと思って読んだほうがよい。でもまったくちんぷんかんぷんというわけでもない。腰をすえて読めば判ってくる(かもしれません)。
モンタギューとはいかなくとも、昨今の「論理学」繁盛の背景にはどうも会話やプレゼンでイニシアチブを取りたいという巷のサラリーマン諸氏からの需要があることは、ほぼ間違いないのではないか。しかしこれはとんだ勘違いだ。ゲーデルやヴィトゲンシュタインが会話やプレゼンテーションに巧みだったという話は聞いたことがない。もっともその逆の逸話なら山ほどあるが。論理学というのはあくまで手続きの妥当性を研究する学問分野であり、その意味では数学に限りなく近しい。だから他人を説得する技術でも感動させる技術でもないわけだ。もしそのようなテクニックを物にしたいのなら論理学ではなくレトリックを学ぶべきである。要すれば人をはぐらかしたり騙したりする技術のこと。
最初のほうで紹介した『論理の哲学』は、したがってこれをよんだとて会議でアホ馬鹿上司を煙に巻くテクニックを身に着けることはできない。読んだあと、この世離れした世界に一時浸れることができたのが成果だと思えればそれで充分、というほどの本なのだ。この本の腰巻に「論理学と哲学の最前線」と謳っているけれども、素人向けに書かれた本が「最前線」の情報など扱うはずがない。そんなことをしたら普通の読者にはなんのことやらさっぱりわからなくなってしまう。
最後にわたしの個人的な思いを披瀝するならば、もし暢気に暮らしたいならば、論理学の世界にはなまじ足を突っ込まないほうがよろしいということ。

(注1)"Formal Philosophy -Selected papers of Richard Montague-" Edited and with introduction by Richmond H. Thomason Yale University Press 1979
(注2)『形式意味論入門 -言語・論理・認知の世界-』白井賢一郎 産業図書 昭和60年9月30日初版
(注3)『モンタギュー意味論入門』David R. Dowty Stanley Peters Robert E. Wall著 井口省吾 山梨正明 白井賢一郎 角道正佳 西田豊明 風斗博之訳 三修社 1987年10月15日第1刷

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