『かくれ里(愛蔵版)』
白洲正子 著 新潮社 2010年
私が著者である白洲正子の知っている情報と言えば、「白洲次郎の妻」ということのみ。しかも白洲次郎自体、名前を知っているだけで、詳しい経歴は知らない。つまり、私の中では、夫婦の名前を知っているというだけのことであった。このような状態で、今回本書を手にすることとなったのは、私の推し活のキーワードとなっている「吉野」という単語で検索をしたところヒットしただけのことなのである。正直大きな期待はしていなかった。しかし、ページをめくった瞬間からのめり込むように文章を追いかけてしまった。
本書は、著者が巡った「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯(p1)」の紀行文である。しかし、それは「紀行文」にはふさわしくないものであった。偶然なのだが著者が巡った場所の多くを実は私も巡っている。そこから導き出せることは、本書はその場所の「解説本」であるということ。気候から風土、歴史に至るまでを抑えつつ、そこから著者なりの考察を論じている。完全に私は推し活視点で読み込んでいった。つまり、山岳信仰における解説本であるというのが正解と断言しても過言ではない。
そして、ここからは完全に私の推し活目線での感想であることをお断りしておく。どの項目も私にとっては当然深く関心を寄せるものばかりであるが、最後の項目「葛城から吉野へ」は深く関心を寄せるだけでなく、気持ちは高ぶり、心は踊り、狂喜乱舞しながら読んだのである。それは私の「推し」であり、修験の祖と言われる「役行者」についてどっぷりと綴られていたからである。役行者の存在は「続日本紀」にわずか数行書かれているだけで、世間では伝説の人と言われていることも多い。しかし、私の中では尊敬すべき人物で実在していたと思っている。そして、あくまでも私の推測であるが、彼の存在は朝廷にも影響をかなり与えたのではないかと考えている。だが、朝廷と絡んでいたと記述された書籍をほとんど目にしたことがなく、私の中での唯一の史料は、五條市安生寺に残る古文書で「文武天皇の皇后が役行者に帰依し、子授けの祈願をしたところ聖武天皇が生まれた」という内容のものだけであった。しかし、本書では、「斉明天皇紀」に書かれている部分の一節が「役行者」であろうとあっさり記しているのである。自分の推し活の甘さが露呈した瞬間でもあった。それでも、嬉しい記述もあった。現在も女人禁制となっている大峯山系の1つ山上ヶ岳についてである。私自身、男女同権というのが基本であるが、ここ山上ヶ岳の女人禁制については、今後もこのままでいいという考えをもっている。その理由について語りだすときりがなくなるので、割愛するが、著者もここに関しては女人禁制に「大賛成」と書いているのである。恐らく修験道のことを深く知っているからだけではなく、何度も吉野山をはじめとする修験の山を巡ることで、肌感覚でそれを捉えているのではないかと想像した。そこまで思わせてくれる程、この項目で書かれていることに説得力を感じるのである。
さて、完全に推し活目線の感想を書いてしまったが、いちばん驚くべきことは、本来の本書の初版年である。実は昭和46(1971)年に刊行されており、これらの文章を綴ったのは、それ以前ということである。当時は今よりも交通網が発達していたとは思えず、私よりも時間をかけて「かくれ里」に幾度となく巡ってのエッセイであり、解説本である。しかし、それが50年以上前に書かれた文章のようには全く感じない。それは、著者の筆力もさることながら、著者が示した「かくれ里」が今尚「かくれ里」として機能しているからだと思うのである。著者が示した「かくれ里」は間違いなく「かくれ里」なのである。読了後、著者のその鋭さにただただ感服であった。そして、タイムマシーンでもあるのなら、著者の膝に突き合わせてご教授願いたいと心底思ったのである。====文責 木村綾子
『かくれ里(愛蔵版)』
白洲正子 著 新潮社 2010月
私が著者である白洲正子の知っている情報と言えば、「白洲次郎の妻」ということのみ。しかも白洲次郎自体、名前を知っているだけで、詳しい経歴は知らない。つまり、私の中では、夫婦の名前を知っているというだけのことであった。このような状態で、今回本書を手にすることとなったのは、私の推し活のキーワードとなっている「吉野」という単語で検索をしたところヒットしただけのことなのである。正直大きな期待はしていなかった。しかし、ページをめくった瞬間からのめり込むように文章を追いかけてしまった。
本書は、著者が巡った「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯(p1)」の紀行文である。しかし、それは「紀行文」にはふさわしくないものであった。偶然なのだが著者が巡った場所の多くを実は私も巡っている。そこから導き出せることは、本書はその場所の「解説本」であるということ。気候から風土、歴史に至るまでを抑えつつ、そこから著者なりの考察を論じている。完全に私は推し活視点で読み込んでいった。つまり、山岳信仰における解説本であるというのが正解と断言しても過言ではない。
そして、ここからは完全に私の推し活目線での感想であることをお断りしておく。どの項目も私にとっては当然深く関心を寄せるものばかりであるが、最後の項目「葛城から吉野へ」は深く関心を寄せるだけでなく、気持ちは高ぶり、心は踊り、狂喜乱舞しながら読んだのである。それは私の「推し」であり、修験の祖と言われる「役行者」についてどっぷりと綴られていたからである。役行者の存在は「続日本紀」にわずか数行書かれているだけで、世間では伝説の人と言われていることも多い。しかし、私の中では尊敬すべき人物で実在していたと思っている。そして、あくまでも私の推測であるが、彼の存在は朝廷にも影響をかなり与えたのではないかと考えている。だが、朝廷と絡んでいたと記述された書籍をほとんど目にしたことがなく、私の中での唯一の史料は、五條市安生寺に残る古文書で「文武天皇の皇后が役行者に帰依し、子授けの祈願をしたところ聖武天皇が生まれた」という内容のものだけであった。しかし、本書では、「斉明天皇紀」に書かれている部分の一節が「役行者」であろうとあっさり記しているのである。自分の推し活の甘さが露呈した瞬間でもあった。それでも、嬉しい記述もあった。現在も女人禁制となっている大峯山系の1つ山上ヶ岳についてである。私自身、男女同権というのが基本であるが、ここ山上ヶ岳の女人禁制については、今後もこのままでいいという考えをもっている。その理由について語りだすときりがなくなるので、割愛するが、著者もここに関しては女人禁制に「大賛成」と書いているのである。恐らく修験道のことを深く知っているからだけではなく、何度も吉野山をはじめとする修験の山を巡ることで、肌感覚でそれを捉えているのではないかと想像した。そこまで思わせてくれる程、この項目で書かれていることに説得力を感じるのである。
さて、完全に推し活目線の感想を書いてしまったが、いちばん驚くべきことは、本来の本書の初版年である。実は昭和46(1971)年に刊行されており、これらの文章を綴ったのは、それ以前ということである。当時は今よりも交通網が発達していたとは思えず、私よりも時間をかけて「かくれ里」に幾度となく巡ってのエッセイであり、解説本である。しかし、それが50年以上前に書かれた文章のようには全く感じない。それは、著者の筆力もさることながら、著者が示した「かくれ里」が今尚「かくれ里」として機能しているからだと思うのである。著者が示した「かくれ里」は間違いなく「かくれ里」なのである。読了後、著者のその鋭さにただただ感服であった。そして、タイムマシーンでもあるのなら、著者の膝に突き合わせてご教授願いたいと心底思ったのである。
====文責 木村綾子