京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

読書ノート かくれ里 愛蔵版 白洲正子

2025年01月15日 | KIMURAの読書ノート

『かくれ里(愛蔵版)』

白洲正子 著 新潮社 2010年

私が著者である白洲正子の知っている情報と言えば、「白洲次郎の妻」ということのみ。しかも白洲次郎自体、名前を知っているだけで、詳しい経歴は知らない。つまり、私の中では、夫婦の名前を知っているというだけのことであった。このような状態で、今回本書を手にすることとなったのは、私の推し活のキーワードとなっている「吉野」という単語で検索をしたところヒットしただけのことなのである。正直大きな期待はしていなかった。しかし、ページをめくった瞬間からのめり込むように文章を追いかけてしまった。

 

本書は、著者が巡った「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯(p1)」の紀行文である。しかし、それは「紀行文」にはふさわしくないものであった。偶然なのだが著者が巡った場所の多くを実は私も巡っている。そこから導き出せることは、本書はその場所の「解説本」であるということ。気候から風土、歴史に至るまでを抑えつつ、そこから著者なりの考察を論じている。完全に私は推し活視点で読み込んでいった。つまり、山岳信仰における解説本であるというのが正解と断言しても過言ではない。

 

そして、ここからは完全に私の推し活目線での感想であることをお断りしておく。どの項目も私にとっては当然深く関心を寄せるものばかりであるが、最後の項目「葛城から吉野へ」は深く関心を寄せるだけでなく、気持ちは高ぶり、心は踊り、狂喜乱舞しながら読んだのである。それは私の「推し」であり、修験の祖と言われる「役行者」についてどっぷりと綴られていたからである。役行者の存在は「続日本紀」にわずか数行書かれているだけで、世間では伝説の人と言われていることも多い。しかし、私の中では尊敬すべき人物で実在していたと思っている。そして、あくまでも私の推測であるが、彼の存在は朝廷にも影響をかなり与えたのではないかと考えている。だが、朝廷と絡んでいたと記述された書籍をほとんど目にしたことがなく、私の中での唯一の史料は、五條市安生寺に残る古文書で「文武天皇の皇后が役行者に帰依し、子授けの祈願をしたところ聖武天皇が生まれた」という内容のものだけであった。しかし、本書では、「斉明天皇紀」に書かれている部分の一節が「役行者」であろうとあっさり記しているのである。自分の推し活の甘さが露呈した瞬間でもあった。それでも、嬉しい記述もあった。現在も女人禁制となっている大峯山系の1つ山上ヶ岳についてである。私自身、男女同権というのが基本であるが、ここ山上ヶ岳の女人禁制については、今後もこのままでいいという考えをもっている。その理由について語りだすときりがなくなるので、割愛するが、著者もここに関しては女人禁制に「大賛成」と書いているのである。恐らく修験道のことを深く知っているからだけではなく、何度も吉野山をはじめとする修験の山を巡ることで、肌感覚でそれを捉えているのではないかと想像した。そこまで思わせてくれる程、この項目で書かれていることに説得力を感じるのである。

さて、完全に推し活目線の感想を書いてしまったが、いちばん驚くべきことは、本来の本書の初版年である。実は昭和461971)年に刊行されており、これらの文章を綴ったのは、それ以前ということである。当時は今よりも交通網が発達していたとは思えず、私よりも時間をかけて「かくれ里」に幾度となく巡ってのエッセイであり、解説本である。しかし、それが50年以上前に書かれた文章のようには全く感じない。それは、著者の筆力もさることながら、著者が示した「かくれ里」が今尚「かくれ里」として機能しているからだと思うのである。著者が示した「かくれ里」は間違いなく「かくれ里」なのである。読了後、著者のその鋭さにただただ感服であった。そして、タイムマシーンでもあるのなら、著者の膝に突き合わせてご教授願いたいと心底思ったのである。====文責 木村綾子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『かくれ里(愛蔵版)』

白洲正子 著 新潮社 2010

 

私が著者である白洲正子の知っている情報と言えば、「白洲次郎の妻」ということのみ。しかも白洲次郎自体、名前を知っているだけで、詳しい経歴は知らない。つまり、私の中では、夫婦の名前を知っているというだけのことであった。このような状態で、今回本書を手にすることとなったのは、私の推し活のキーワードとなっている「吉野」という単語で検索をしたところヒットしただけのことなのである。正直大きな期待はしていなかった。しかし、ページをめくった瞬間からのめり込むように文章を追いかけてしまった。

 

本書は、著者が巡った「秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、『かくれ里』の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯(p1)」の紀行文である。しかし、それは「紀行文」にはふさわしくないものであった。偶然なのだが著者が巡った場所の多くを実は私も巡っている。そこから導き出せることは、本書はその場所の「解説本」であるということ。気候から風土、歴史に至るまでを抑えつつ、そこから著者なりの考察を論じている。完全に私は推し活視点で読み込んでいった。つまり、山岳信仰における解説本であるというのが正解と断言しても過言ではない。

 

そして、ここからは完全に私の推し活目線での感想であることをお断りしておく。どの項目も私にとっては当然深く関心を寄せるものばかりであるが、最後の項目「葛城から吉野へ」は深く関心を寄せるだけでなく、気持ちは高ぶり、心は踊り、狂喜乱舞しながら読んだのである。それは私の「推し」であり、修験の祖と言われる「役行者」についてどっぷりと綴られていたからである。役行者の存在は「続日本紀」にわずか数行書かれているだけで、世間では伝説の人と言われていることも多い。しかし、私の中では尊敬すべき人物で実在していたと思っている。そして、あくまでも私の推測であるが、彼の存在は朝廷にも影響をかなり与えたのではないかと考えている。だが、朝廷と絡んでいたと記述された書籍をほとんど目にしたことがなく、私の中での唯一の史料は、五條市安生寺に残る古文書で「文武天皇の皇后が役行者に帰依し、子授けの祈願をしたところ聖武天皇が生まれた」という内容のものだけであった。しかし、本書では、「斉明天皇紀」に書かれている部分の一節が「役行者」であろうとあっさり記しているのである。自分の推し活の甘さが露呈した瞬間でもあった。それでも、嬉しい記述もあった。現在も女人禁制となっている大峯山系の1つ山上ヶ岳についてである。私自身、男女同権というのが基本であるが、ここ山上ヶ岳の女人禁制については、今後もこのままでいいという考えをもっている。その理由について語りだすときりがなくなるので、割愛するが、著者もここに関しては女人禁制に「大賛成」と書いているのである。恐らく修験道のことを深く知っているからだけではなく、何度も吉野山をはじめとする修験の山を巡ることで、肌感覚でそれを捉えているのではないかと想像した。そこまで思わせてくれる程、この項目で書かれていることに説得力を感じるのである。

 

さて、完全に推し活目線の感想を書いてしまったが、いちばん驚くべきことは、本来の本書の初版年である。実は昭和461971)年に刊行されており、これらの文章を綴ったのは、それ以前ということである。当時は今よりも交通網が発達していたとは思えず、私よりも時間をかけて「かくれ里」に幾度となく巡ってのエッセイであり、解説本である。しかし、それが50年以上前に書かれた文章のようには全く感じない。それは、著者の筆力もさることながら、著者が示した「かくれ里」が今尚「かくれ里」として機能しているからだと思うのである。著者が示した「かくれ里」は間違いなく「かくれ里」なのである。読了後、著者のその鋭さにただただ感服であった。そして、タイムマシーンでもあるのなら、著者の膝に突き合わせてご教授願いたいと心底思ったのである。

 

====文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『紫式部の娘 賢子 まいる!」

2025年01月03日 | KIMURAの読書ノート



『紫式部の娘。賢子がまいる」
篠綾子 作 静山社 2016月

新年あけましておめでとうございます。今年も懲りずにこちらのコーナーをブログ主の許可なく書いて、原稿を送りつけております。昨年は「山岳信仰」に関する本を突っ走って読んでいく予定にしておりましたが、突っ走りすぎて、後半はそれらの本に出合う数が大幅に減少(つまり、読み過ぎ)。故に数年ぶりにあれもこれもの乱読、通常モードに戻りつつあります。とはいえ、私にとっては外の世界に引っ張り出してくれた本ではありますので、まだまだどこかに眠っているはずのそれらを開拓しながら他の本も並行して楽しんでいきたいと思います。そして、その一部を皆様にお届けできたら幸いです。稚拙な文章ではありますが、今年もお付き合い下されば嬉しいと思っております。どうぞ本年もよろしくお願いします。

さて、新年早々ではありますが、昨年のNHK大河ドラマ『光る君へ』ロスのまま年を越してしまった人は多いのではないでしょうか。私もその一人ではありますが、昨年最後の読書ノートと同様に、ロスを埋めるべく、いやブームに乗っかったまま、年明け第1弾も関連本の紹介です。それがこの作品。主人公は紫式部の娘、賢子です。

母、紫式部同様に皇太后・彰子の御所で宮仕えをすることとなった14歳の賢子。そこで出会った和泉式部の娘・小式部や母を皇太后の母の乳姉妹として持つ良子、賢子より5つ年上で中堅の女房であり、賢子の世話係の小馬と、時に張り合いながら、時に団結して宮仕えとして過ごしていく中で、宮中に物の怪が現れるという噂が立つ。その真意を探るように皇太后から指示を受ける三人。そして、彼女たちの前に現れた物の怪の正体は。

ミステリー要素が少しあるものの、作者による解釈による賢子中心の物語です。そのため、大河の解釈とは一線を画して読まなくてはなりませんが、大河と比較して読むことは決して悪いことではなく、そのことでより面白さを感じます。大河の時以上に賢子は負けず嫌いで正義感があり、かつ男性陣にも目がとまるように日々アンテナを高くして過ごしています。いや、むしろ殿方を射止めるために、宮仕えをしていると言っても過言ではありません。大河の最終回の賢子はその片鱗を見せていましたが、まさにそこはそのまんま。かつ、母である紫式部のことをあまり心よく思っていません。大河では宮仕えする前には母親と和解をしていましたが、この作品ではもっと後。そう、ある意味、母と娘の物語でもあります。そうなると、平安時代も、今の令和の時代もあまり関係なく、これまで見えてこなかった母親像が同じ職業に就くということで、明らかになっていくというのは1000年の時を超えて一緒であることを映し出しています。しかし、本書は決して、作者による勝手な解釈で脚色された宮中世界ではなく、史実であるところはそれにそって描かれていますので、より大河ではどの場面だったかということも照らし合わせながら読むことが出来ます。そして、この作品の名誉にかけてお伝えしておきますが、出版されたのが、今から9年前。大河よりも8年も前のこと。今回のブームとは関係なく、作者は賢子に焦点を置いて作品を描いていることに驚きを感じ入りました。

今年の大河ドラマは1月5日からスタートですので、この読書ノートを目にされる頃には皆様の心は平安時代から江戸時代に切り替わっているやもしれませんが、その合間をぬって、賢子の活躍を楽しんでたいと思います。

=======文責 木村綾子




 


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KIMURAの読書ノート『日本語あそび学』

2024年12月16日 | KIMURAの読書ノート

『日本語あそび学』
倉島節尚・監修 稲葉茂克 今人舎 2016年

この1年、NHK大河ドラマの影響で何かと平安時代(平安京)が取り沙汰される1年であった。書店では「源氏物語」「紫式部」「清少納言」「平安京」「平安時代」を冠とした本が軒並み平積みで並んでいるのを目にしたし、市内各所の図書館でも関連本が特集コーナーとして取り上げられていた。そのような訳で今年最後となる読書ノートの締めくくりもそれに乗っかることにした。

タイトルにある「日本語あそび学」とはどういうものなのか。簡単に言ってしまえば、「日本語を使っての遊び」ということになる。しかし、これはかなり回りくどい言い方である。手っ取り早く、本書で取り上げられている遊びをここに列挙する。「しりとり・あたまとり」「しゃれ・だじゃれ」「ごろあわせ」「早口言葉」「かけことば」「清音・濁音」「アナグラム」「ぎなた読み」「畳語」「オノマトペ」「山号寺号」「無理問答」「回文」とかけば、誰もがピンと来て、この中の幾つかは幼い頃、家族や友達と1度や2度やったことを記憶として思い出すのではないだろうか。それでは、これのどこが大河ドラマに乗っかることになるのか。
実はサブタイトルが「平安時代から現代までのいろいろな言葉あそび」となっている。単純に言えば、サブタイトルに「平安時代」が付いているからである。が、この言葉あそび、遊び方は誰でも知っているものの、その起源ということまで気にした人は少ないのではないだろうか。本書では遊び方だけでなく、そこにもきちと焦点を当てているのである。つまり、言葉あそびは「平安時代」からあったということが書かれている訳である。それだけではない、日本最古の回文として記録されているのが、なんと平安時代に活躍した藤原清輔が詠んだ短歌である。藤原清輔の祖父・藤原顕季は美濃守隆経の子で藤原実季に養子に入っており、その藤原実季自身、藤原氏本家から大きく外れているため、この1年もてはやされた藤原道長と血縁関係にはないと言える。しかし、清輔の家系は、祖父に始まる歌道の家系(六条藤家)であり、道長の六男・藤原長家を祖とする御子左家と競い合いながら、歌道を究めていった家系である。これだけでも、本書は立派に大河ドラマに乗っかっていると言えよう。百人一首の84番目に収められている「ながらえば またこのごろや しのばれん うしとみしよぞ いまはこいしき」は藤原清輔のものである。因みにこれは回文ではない。回文となっているのは、当人が書いた『奥義抄』という書物に載っている(当然、本書にも取り上げられている)。

もう1つ、平安時代との関連を挙げると、「しりとり」の起源がそれである。もともと、しりとりは室町時代の「源氏文字鎖」が起源であるらしい。これは、『源氏物語』の54ある題名を覚えるために、編み出された手法なのだそうだ。どのようにしりとり風に覚えていくかは、是非本書を手にして確認して欲しい。

回文としりとりを例に出したが、他の言葉遊びも同様に、その起源や現代に至るまでの流れが解説されていて、正直遊び方の項目を読むよりもこの部分が断然面白い。そして何よりもこれら遊びが1000年以上続いているということに驚きを感じる。是非この年越しの時に本書を手にして、今年最後の平安時代を「言葉あそび」で味わって欲しい。

それでは、良いお年を。そして、今年も一年間読書ノートにお付き合い頂きありがとうございました。

    文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『食べた!見た!死にかけた!「運び屋女子」一人旅』

2024年12月02日 | KIMURAの読書ノート

『食べた!見た!死にかけた!「運び屋女子」一人旅』
片岡恭子・著 講談社 2019年

私自身が全く知らない職業(思いもつかない職業)というのがこの世にどれくらい存在するのであろうか。本書の著者もその一人。私は本書で「運び屋」という職業を知った。正式には「ハンドキャリー」と言うようで、少し前までは「クーリエ」と呼ばれていたらしい。著者の言葉を借りれば、「国際空港便で超急ぎの荷物を海外に配達する仕事で、その品物に関しての通関手続きをし、関税を支払い、ビジネスビザで渡航する完全に合法の運び屋」と言うことである。本書が出版された時点で運び屋としての年間渡航回数は35回前後で、年に3~4か月海外にいるばかりか、朝にアメリカから成田空港に帰って来て、その日の夜にカナダへ羽田空港から飛んだり、中国には3日に2回ほど通ったこともあるらしい。運び屋は時間の融通が利く自営業でこの仕事を兼業でやっている人が多いのも特徴のようである。このざっくりとした「運び屋」という職業の説明が「おわりに」に記されていた。

さて、本書。タイトルから見ても、「運び屋」という職業で、どの国に、どのような物を運ぶのかということが話の中心のようにイメージできるが、全く予想を覆される。確かに海外の話ではあるのだが、そこには一切仕事のことを出してこない。あくまでも著者が海外を旅した紀行文なのである。なのに、このタイトル。もしかするとこの旅行記で訪れた国が仕事なのかプライベートなのか、読者の方で考えろという挑戦的な本なのではないかとすら疑ってしまう。

しかし、この旅行記はそのようなことを考える余地さえ与えない程、ぶっ飛んでいる。あまりにもエピソードが濃いすぎると言えば分かりやすいだろうか。スペインでは窓のサッシに手をかけた瞬間に感電し、グアテマラから帰国直後にアメーバ赤痢に感染したことが判明。その原因がどうも飛行機の機内食というから目が当てられない。パタゴニアに紅葉狩りに行き、吹雪に見舞われ低体温症。メキシコ及びラテンアメリカでの信号機のルール、「赤信号で止まるな!注意しながら進め」。フィリピンでは気の長い強盗に連れ去られた話。このようなエピソードは序の口である。しかもここでは国名しか挙げていないが、実際はその国のなぜそのような場所に行ったのか、読み手はただただ謎に振り回される。それこそ仕事なのかプライベートなのか(そこに行った理由が書かれてあることも時々あるにはあるが)。

それでも、やはり実際に訪れた人しか気が付かない問題を提起してくれている。ペルーでの先住民族の住んでいる村を訪れた時の話。そこの村人が観光客の顔を見るなり、服を脱いで踊り出し、またガイドに連れられてきた観光客はその村の集会所のようなところに連行されお土産物を買わされていたという。著者自身は1人で訪れたためにそのようなことはなかったが、それでも村人に囲まれたために、お土産物を買ったらしい。彼らからすると次にいつ来るかわからない貴重な現金収入源というのが村人の一連の行動の理由である。著者はこれらのことをこのように書いている。「今も未接触民族を空撮したニュースを見かけるたびに、裸踊りを観光客に見せるような卑屈な文明化をすることなく、ジャングルの中でお金の心配をすることなく、彼らが天寿を全うすることを願っている(p82)」。

近年「多文化共生」と言われているが、これは「異なる国籍や民族の人々が、互いの文化的違いを認め尊重しあい、対等な関係を築きながら地域社会の一員としてともに生きていくこと」である。ここにある「ともに生きていく」というのは「積極的に手を取り合い」という意味合いを強く感じるが、著者が記してくれたことから考えたのは、「何もせずにそっとしておく」ことの必要性も重要なのではないかということ。外から入って来た近代文明を持ちすぎた民族からの外貨により先住民族の文化が荒廃していくことが果たして「多文化共生」なのだろうか。ハチャメチャなエピソードの中にこのようなことを問題提起を至る所に散りばめきているから本書は侮れない。

======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『京街道』

2024年11月15日 | KIMURAの読書ノート

『京街道』
上方史蹟散策の会 編 向陽書房 2012年

「東海道五十七次」という言葉を知ったのは、何を隠そう今月のことである。11月2日から2夜連続で放映されたNHKの番組「ブラタモリ」で、である。ご覧になった方もいらっしゃるのではないだろうか。江戸日本橋を出発し東海道をひたすら西に歩いていくのは京都に入るまでは変わらない。現在の京都市山科区と大津市の県境、京阪京津線の追分駅の少し南、山科区屋敷町にその分岐はある。直進(西)すると誰もがなじみのある東海道五十三次のゴール三条大橋に繋がる。そして左(南)に曲がる(現在の府道35号線)とこの東海道五十七次となり、ゴールは大阪高麗橋である。この番組を観ている最中、忘れもしない11月3日、図書館で何気に京都の郷土史を扱うコーナーを見渡していたら、目があってしまったのが、本書である。まだ放映中であったため、喜び勇んで連れて帰ったのは言うまでもない。しかし、出会うまでこのことが本となっていることすら知らなかった。

さて、本書であるが、これはタモリさんとは逆に大阪高麗橋から京都に向けて歩いたものが解説されている。しかし、本書は解説本ながら、前回の読書ノートで紹介した『呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック 令和版』とは逆に旅のお供にしてもとっても役立つガイドブックでもある。地図は略図しか掲載されていないが、文章でこの街道のコースを示しているのである。例えば、東海道五十七次最後の宿場町守口宿を出てから京都方向に進む場合、「一里塚跡から、府道北大日竜田線の北斗町バス停付近に出て、北本通郵便局から北へ1ツ目の辻を北西に京街道はつづいているが、突き当りの三差路を右に曲がり、ふたたび府道・八雲バス停の辺りへ。しばらく自動車道を歩き、守口東高校を過ぎてまた府道から西にそれ、八雲公園、八雲小学校の西側の道に沿って正迎寺へと街道は向かっている。このように、京街道は守口宿瓶橋から『上の見付』を経て湾曲して正迎寺にいたるが、これは宿場を守るためにわざと蛇行させたものだ。(p45)」のようにである。これは出版当時のものなので、今は少しランドマーク的なものが変わっているかもしれないが、文章通り歩けば、間違いなく東海道五十七次の京街道を歩けるのである。しかも、それだけでなく、その街道のランドマークとなるものについての解説はしっかりと記されている。

東海道五十七次の整備を命じたのは徳川家康である。その理由は大名が京都に入って朝廷と接触するのは好ましくないからだという。追分から五十四次の伏見宿、五十五次の淀宿、五十六次枚方の宿、五十七次の守口宿、そして高麗橋のまでの総距離44.8km(京街道)を整備する中で、以前に豊臣秀吉が築いた堤防や城下町などを活用しており、徳川家康は自分の手腕を庶民や他の大名に見せつける絶好の機会ともなっていることに気が付く。そしてこのことが全く平穏とは言えないまでも安定した江戸時代となった一端であることは否めない。

私事であるが、一昨年の春、山科区にある牛尾観音参詣のため、五十三次と五十七次の分岐の場所にいたのである。そして、間違いなくこの石標を目にし「立派な石標だなー」と思ったのを記憶している。しかしまさかこれが東海道の重要な分岐点とは思わず、その場を後にした。この史実をもう少し早く知っていれば、この石標に刻まれた意味を深く考えながら眺めていたかと思うと少々悔やまれる。

     文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック 令和版』

2024年11月03日 | KIMURAの読書ノート

呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック 令和版』
奥本剛・著 潮書房光人新社 2023年7月

9月末に帰省した際、駅ビルに入っている書店で本書が平積みで置かれているのを目にした。関西でもそうであるが、郷土がテーマとなっている書籍はその地域でないとなかなかお目にかかることはない。本書はそれに属するものとは思われるが、それでも何冊も平積みになっているということは広島ではかなり売れ行きが良い書籍でないかと思い、自宅に戻ってから読んでみた。

タイトルには「ガイドブック」となっているが、一般にイメージするガイドブックとは一線を画する。本書を地図代わりに旅に出ても到底役には立たない。確かに戦争遺跡を「ガイド」するという意味合いではあるが、「ガイド」というよりは「解説本」と言った方がしっくりとくるものである。

明治19(1886)年、呉市に海軍の鎮守府が置かれ、広島市は呉市と同様明治19年に陸軍第5師団が置かれ、更には明治27(1894)年には日清戦争大本営として首都機能が一時的に広島城内に置かれるという「軍都」として発展している。勿論、地元の人間としてはその遺構があちこちに残っていることは知っていたが、本書を読むとその「知っている」はあくまでも有名どころ、いわば観光地として表に出ている部分だけであることに軽い眩暈を感じた。しかし、全く知らなかったというものではない。余りにも近い存在だったために、意識しなかったと言った方が正確かもしれない。例えば、ある山の山頂に置かれた防空砲台。この山は私自身、小学校の時にしばし遠足で登っていた山である。そして同級生と一緒に市内の街並みを堪能していたその展望台が防空砲台だったのである。つまり、展望台としては、その形状や大きさなどを記憶しているが、それが砲台だったということは知らなかったのである。改めて本書でその写真を見ると、間違いなく自分が記憶している展望台である。このような遺構が本書で数々と明らかになったのである。

上記のようなローカルなものだけではない。世界遺産となっている厳島神社のある宮島にも多くの戦争遺構が残っている。しかも崩壊することもなく綺麗な形で現存しているものも多い。神の島だから、関連施設が守られたのかと思わず皮肉を言いたくなるほどである。いや、神の島にこのようなものを建造するあたり、やはり戦争は狂っているとしか言いようがない。
 
先にも述べたように本書は広島県内湾岸部における戦争遺構の解説本である。その遺構が何のために建造し、利用されたのか。そして、施設そのものの意匠的に至るまで、現在の写真だけではなく、当時の地図や配置図などを掲載して詳細を説明している。一地域における戦争遺構をこれだけ一挙にまとめたものは珍しいのではないだろうか。

関西に住むようになり、しかもここ数年毎週のようにお山に上っている私は、「山」と言えば信仰の対象、突き詰めれば平和の対象であったが、自分の生まれ育った場所の「山」がこんなに軍事施設で埋まっていたことに正直絶句している。

=======文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『犬が看取り、猫がおくる、しあわせのホーム』

2024年10月15日 | KIMURAの読書ノート

『犬が看取り、猫がおくる、しあわせのホーム』
石黒謙吾 文・写真 光文社 2023年

2022年にNHKで放送された、犬や猫と入居者が一緒に暮らす特別養護老人ホームのドキュメンタリー番組を視聴された方はまだ断片的にでも内容を覚えてのではないだろうか。その番組では彼らが入居者と一緒に暮らしているだけでなく、死期が迫った人に寄りそう犬や猫の姿が映し出されていたはずである。この番組に感銘を受けた著者は、すでに施設長がこの施設に関する著書を出しているにも関わらず、それでも自分の手でもっとこのことを伝えたいという思いが募り、施設長の許可を受けた上で、取材し1冊にまとめたのが本書である。

改めて「人間の死を看取る犬」のことをここで紹介する。この施設の1期生として迎え入れられたミックス犬の文福がその犬である。入居者の死期が近づくと、だんだん側にいようとし、亡くなる3日前あたりからは入居者の個室のドアから離れず、室内を向いて座り、その時が近づくと、ベッドに横たわる入居者に寄りそい、顔をなめ、見守り、最期を看取るのだそうである。偶然ではなく、本書が出版された2023年現在で20人以上の人を看取っている。また、実は文福だけでなく、ここの施設の別ユニットに住んでいるトラ(猫)も同じ行動を起こしている。エビデンスはないものの獣医師の見解によるとこの二匹は保護される前、過酷な環境下で、かつ仲間たちが亡くなるすぐ横に常にいたため、死期に発せられる匂いを認知しているのではないかというものであった。

しかし、本書はこのことだけに重点を置いているのではない。老人ホームであるが故にそこで亡くなる入居者が大半であるが、当然犬猫たちも年を取り、この施設で虹の橋を渡ることになる。その時には、入居者が彼らを看取るのである。その命のやり取りを施設での日常生活から伝えているのが本書なのである。取材をした時の様子を克明につづりながらも、何よりもたくさんの写真を掲載することで、入居者と犬猫たちの交流がとても温かく伝わってくる。

本書では数多くのエピソードが紹介されている。認知症を患っても飼い犬のことだけは忘れずに世話をしようとして同伴入居となった人、逆に骨折して入院したために認知症が一気に進み退院してきたものの、愛犬の存在すら記憶の外となってしまった入居者が1年かけて愛犬の名前を呼ぶまでに至った出来事、犬や猫同士の交流。どれを切り取っても心がほっこりするエピソードばかりであるが、これはこの施設での特別な話ではない。恐らく高齢者の自宅でも犬や猫たちがいる場合、表に出てこないだけで、飼い主が病気や事故などに遭わなければ同じような心温まる日々がそこにあると想像するのである。しかし、年を重ねるとどうしても人も動物の不具合が出てくる。それをサポートしてくれる施設が今回の舞台となった施設だっただけである。しかし、このように犬や猫が一緒に住まう施設というのは2023年の時点でも全国で3か所のみである。これには、すでに社会問題にもなっているように福祉業界が人手不足という部分が大きいと思われる。低賃金な上に、配置人数が決まっているために、スタッフの増員が難しく、入居者のサポートですら手が足りていない現状で、犬や猫の世話など全く無理な話である。ある意味、こちらの意見の方が正しいとすら言える。しかし、人が動物たちと一緒に過ごすことで幸福度が上がるという研究調査もある。ペットの終生飼育が法律的に定められた今、今後の動物福祉のことも含めて、高齢者が住まう施設の在り方、そして福祉業界について改めて考える1冊である。

======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『富士下山ガイド』

2024年09月30日 | KIMURAの読書ノート

『富士下山ガイド』
岩崎仁・著 静岡新聞社 2024年7月

昨年、富士登山の人気はインバウンドにより、更に高まった。しかし、装備なく登る人も多く、事故やトラブルが相次いだため、今年は山梨県側で規制が設けられ、登山客は減少。しかし、連日の遭難事故の報道は変わらず多く、映像を視る限り山頂までの道のりは渋滞をしており、果たしてこれを登山と言えるのか、正直げんなりしている。そんな時に出会ったのが本書である。

目から鱗であった。富士山は山頂で迎えるご来光が美しいと言われ、多くがそのご来光を目的と、日本で一番高いところに登りたいという欲求で山頂に向かうものだと思っていた。つまり、「富士山は登る山」という固定観念があったという訳である。しかし、本書のタイトルにもあるように、車の侵入が許される五合目から下山しても、相当な距離を歩き、様々自然に触れ合うことが可能なのだ。なぜなら、五合目ですら標高が軽く2000mを超えているのである。そこから下山する醍醐味がないはずがない。私自身の最高峰は関西最高峰と言われる八経ヶ岳であるが、ここですら、若干2000mを切るのである。しかし、標高2000m弱の世界は明らかに下界とは異なっていた。本書の冒頭には次のように書かれている。

「私が提案している『富士下山』は、富士山を「下る」ことで新たな魅力を発見するトレッキングツアーだ。富士の登山道というと、岩肌が露出した無機質な光景を思い浮かべる人もいるかもしれない。だが、五合目から下には、我々の想像をはるかに超える豊かな自然が広がっている。砂礫地に生きるたくましい植物や、悠久の時を刻む巨木、溶岩を覆い尽くす瑞々しいコケ、そして懐に広がる青木ヶ原樹海や富士五湖。下るごとに次々と見える風景が変わっていくのは、標高差のある富士山ならではの楽しみだ。また、道中には石物や神社、朽ち果てた山小屋などが残りかつて同じ道を歩いた先人たちの営みが感じられる。こうした史跡を巡り、その背景にある信仰の歴史を理解していけば、富士山の自然や文化をどのように次世代へ継承していくべきか、自分なりに考えるきっかけにもなるだろう。(p6~7)」

ここに書かれていることは登山というよりも、私が週末に行っている「登拝」に近いものである。先人たちが残した軌跡を巡ることでそこに思いを馳せることのできる醍醐味を本書は余すところなく伝えてくれている。

本書はガイドブックというカテゴリーに入るが、コースに関する情報だけにとどまらず、写真集と見紛うばかりの画像がたくさん掲載されている。純粋に写真集として楽しむことができる1冊となっている。普段映像で映される富士山の風景とは異なり、画像だけ観ていたら、そこが富士山の一部とは思えない程、樹木が青々と生い茂り、山頂を目指すよりはるかに自然の営みを感じられる。本書を手にしてそう感じるのであるから、実際にそこを歩いた時はどのような感覚を得ることができるのであろうか。これまで富士山映像が流れるたびに足を踏み入れるのはよそうと思っていたが、2000m辺りから下りていくのは決して間違いではないなと思い始めた。山頂へ向かう人は渋滞中でも、下山する人はもしかしたら人っこひとりいない貸し切り状態かもしれない。そんなところで雄大な自然と先人たちの信仰に出会ってみたいと思った。本書は富士山の新たな魅力に出会うきっかけをくれる1冊である

       文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 映画『ラストマイル』

2024年09月16日 | KIMURAの読書ノート

映画『ラストマイル』
監督・塚原あゆ子 脚本・野木亜希子 出演・満島ひかり、岡田将生ほか 
2024年8月23日公開

かつてドラマで放送された『アンナチュラル』『MIU404』と同一世界線上で描かれるという情報だけを楽しみに映画館へ足を向けた。私自身は『アンナチュラル』のファンなのである。スクリーンに『アンナチュラル』の人物が出てくるだけで満足のはずであったのだが、予想外の内容に『アンナチュラル』のことはすっかり忘れて見入ってしまった。

すでにこの作品はテレビで予告編が流れているため物流倉庫で起こった爆破事件の真相を追い求めていく内容であることだけは分かっていた。しかも前述したように過去のドラマ2作品に登場した人物たちが当時の役柄のままで出てくるため、てっきりエンターテイメントで埋め尽くされた作品だと思っていたのである。予想外というのは、まさにこの部分でエンターテイメント性はドラマ2作品の同一世界線であるというところのみであったこと。いや、それこそこの2作品もあえてというよりは、作品の流れ上必要な職種であったため、必要なのだったら改めてその世界を作り上げるよりは、かつてのドラマの人達に出てもらうほうがいいんじゃない?ファンも多いしという感覚に近いと感じた。

エンターテイメントでなければ何であるのか。少なからず、私は流通に関する経済学をこの作品で終始学ばせてもらったということから、予備校のオンライン授業とでも言えばよいのかもしれない。まさかテレビで流れていた予告編から誰が経済学を学ぶと思うだろうか。しかし、これは経済の話であり、現代の社会問題の提起なのである。この映画では物流倉庫が大半の舞台である。この物流倉庫は世界規模で大手の通信販売会社ものと設定されている。そこで爆発予告があったらどうなるのか。物流が止まったらどうなるのか。ピラミッドの頂点にある、通信販売会社本部(アメリカ)とその日本支社、そして物流倉庫。この物流倉庫から荷物を分配する配送業者の本部と配送担当地区のセンター、そしてそれを委託された配送業者。例え、爆発物があろうと物流の流れを止めてはいけないと倉庫のベルトコンベアの動きを止めようとしない物流倉庫までの通信販売会社側。そのしわ寄せがくる配送業者側。配送業者がいなければいくら通信販売でたくさん物を購入しても購入者には届かないのだが、そのパワーバランスは明らかに通信販売会社の方にあるいびつさ。また、倉庫で働く人は何百人もいるのに、これは全てアルバイト(非正規雇用)で正社員はわずか9人といういびつさ。この9人で何百人ものアルバイトをまとめていかなければならないばかりか、倉庫は常にコンピューターで稼働率がはじき出され、80%を切るとその倉庫の社員にペナルティが与えられる過酷な労働環境。そして、今回の爆弾事件はこの稼働率を下げてはならないということが全ての中心となってしまったことが発端であった。これまでほとんど表に出てこない流通の舞台裏に光を当てたのがこの作品だったというわけである。しかし、この光は決して希望が湧くような明るさではない。目をそむけるしかない閃光である。

そして、何よりもラストシーンに背筋が凍った。何が起こっても倉庫は稼働していかざる得ない状況で、バトンを受け渡された人物はその後どのようにして対応していくのか。それはこのバトンが映画の登場人物だけでなく、この作品を観てしまった観客全てにも渡されてしまっているということが、この作品の凄さであり、怖さである。タイトルとなっている「ラストマイル」は物流においてお客様へ荷物を届ける家庭の最後の区間を表す言葉である。

           文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『バリ山行』

2024年09月01日 | KIMURAの読書ノート

『バリ山行』
松永K三蔵 講談社 2024年7月

第171回芥川賞受賞作。これまでの私なら全く手にしない作品なのであるが、何分にもお山に入るようになって、山関連の本が読める(理解できる)ようになり、今回の受賞作をうっかりと手にしてしまった。因みに私は単行本ではなく雑誌「文藝春秋9月特別号」を購入して読んだため、以下引用分のページに関しては、雑誌の該当ページとなることをご了承頂きたい。

「山行」とは一般的には登山することを指す。そして「バリ」とは「バリエーションルート」の略語で作中の言葉を借りると「通常の登山道でない道を行く。破線ルートと呼ばれる熟練者向きの難易度の高いルートや廃道。そういう道やそこを行くことを指す(p392)」。

私自身山に入り始めた頃は、明確な登山道となるルートをひたすら歩くことに専念していたため、このバリエーションルートに気が付かなかったのだが、回数を重ね周囲にも目を向けられるようになると、この「バリ」と思われる踏み跡の薄い道に、かなり気持ちがそそられていることに気が付く。しかし、それを現実にやってしまうと間違いなく遭難危険度は上がるので、予定ルートをひたすら歩くのであるが(それでも、分岐で迷って知らぬ間にバリ状態になっていることがある)、それが丸ごと作品のテーマになっているとなると、読む前から気持ちはかなりアップしていた。どのようなルートを歩くのか、何を感じるのか、遭難の危険性との兼ね合いを登場人物はどのように乗り越えていくのか、妄想がただただ膨らんだ。

が、思いっきりこの妄想を裏切ってくれた。非難覚悟で本作品を一言で片づけるならば、この作品は「男の物語」であり、今風に言えば「お仕事小説」である。というのも、主人公が「バリ」を行うのは、後半のたった1回。しかも、この「バリ」を週1で行っている会社の同僚がこの山行中に「本物の危機」について語る場面があるのだが、主人公はそれを「山の話」とし、半分も理解できないと感じるのである。主人公にとっての「危機」は会社が倒産するかどうかの方が「危機」なのである。そして、主人公は山の中で同僚がいうところの「本物の危機」に直面する。それでも、主人公にとっては「所詮遊びだ」と一蹴する。この感性をもった人物を主人公としているこの作品を「お仕事小説」としなくて、何と言うのであろうか。本書の帯には「純文山岳小説」と記されているようであるが、私のイメージする山岳小説にはほど遠い。

この主人公は古くなった建物の外装を修繕する会社に転職し、営業課に所属している男性であり、この会社の登山サークルを自分の社内の身の置き所としている。冒頭はトレッキングの場面から始まり、主人公がサークルで山行を重ねるうちに登山関連のグッズや、スマホを山関連のアプリや画像が増えていっていると語る場面もありながら、回想シーンも含めて主人公の会社の話題がやたらと多いというのも「お仕事小説」とする理由の1つでもある。そして、主人公から発せられる言葉の一つ一つがいかにも「男」を彷彿させるもので、私にとっては「男ってこんな考えなのか」と思わせるものが多く、いや理解できないことが多く、そのため「男の物語」と感じてしまうのである。男性の読者であれば、もしかすると全ての面において頷くのかもしれない。

しかし、これを決して非難している訳ではない。タイトルを目にして、過大妄想をしてしまった私が良くなかったのである。と同時に今ここまで「男」の気持ちを前面に出したストーリーがあっただろうかと思ってしまう。一昔前よりもジェンダーレスになってきたとはいえ、人の内面など分からない。それをこの作品では仕事の在り方を男の心情という切り口から覗かせてくれており、それはとても新鮮に感じるのである。もしかしたら、世の男性の本音はこの主人公と同じなのかもしれない。それを投影してくれているのだとしたら、それは確かな「純文学」だと思った。

 

 

 ========文責 木村綾子

 


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KIMURA の読書ノート『昭和16年夏の敗戦』

2024年08月15日 | KIMURAの読書ノート

『昭和16年夏の敗戦』
猪瀬直樹 著 中央公論社 2020年

今月2日に放送されたNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』において、新潟県で判事をしている人物が「自分は総力戦研究所に勤務していながら、戦争を止めることができなかった」と涙ながらに語る場面があった。放送終了後、「総力戦研究所」という言葉がSNSのトレンドにすぐさまあがった。その多くが「総力戦研究所」という言葉を初めて聞いたというものだった。私自身、それなりに数多くの戦争に関係する本を読んできたが、まさに私もそうであった。そこで関連本がないか検索をかけるとたった1冊ヒットした。それが本書である。

本書によると、「総力戦研究所」とは、総力戦に関する綜合的研究調査をめざし、1941(昭和16)年4月1日にスタートした研究所で、「とくに『人間』教育に重点を置き、研究生が公的生活はもとより、私生活においても一体的精神を浸透させ、互に感化しあい敬愛しあい、全員の生活それ自体を総力戦体制に昂める、学問的研究においても、観念の遊戯や枝葉末節に走らず、総合的判断力、直感力、透徹力、断行力の涵養に主力を注ぎ、~略~ 従来の学校広義の形式を打破した人材養成の新方式として、その成果は刮目すべきものがあろう(p25、26)」というものであった。が、実のところ何をどう展開していいのか所長をはじめ所員も試行錯誤を繰り返していたというのが現状であったようである。その試行錯誤の中でたどり着いたのが「模擬内閣」。研究生が各閣僚になり、机上において対英米戦について閣議をし、その結論とそこに至る過程を本当の内閣の閣僚たちに研究発表するものであった。研究生たちは空想の世界で閣議を行うのではなく、これまでの職場などから持ち寄ったデータを駆使して、本格的に閣議を行っていく。それはまさに「研究」であった。そして導き出された結果が「日米戦日本必敗」。1941(昭和16)年8月のことであり、その発表の場には当時の首相、東條英機もいた。

この模擬内閣の発表を東条英機らは聞きながらもなぜ日本はそのまま戦争を続けていったのかということにも本書は言及している。しかしながら、それ以上に東條英機が当時何を思い、何を考えていたのかということが細かく記されており、当時首相を請け負った東條英機の苦悩や葛藤とその背景を初めて知った気がする。そしてそれらの要因となったのが明治政府が公布した大日本帝国憲法であることも知ることとなった。また、私自身第二次世界大戦は何が目的だったのかということがずっと心の中でくすぶっていたが、それに対しての答えもここに本書には記されており、とても腑に落ちた感覚を得ることができた。

本書は著者が30代の時に取材をし、1983(昭和58)年に世界文化社から刊行されたものが、2020年に中央公論新社から新版として出版されている。私の中で著者は作家であるということは知っていても、イメージ的には政治家という肩書であったということの方が印象深くなっていた。しかし、本書を読み、改めて著者の取材力と筆力に驚嘆している。彼が当時取材をしていなかったら、このことは一部の人のみが知っていたことでこのように広く世間に知られることはなかったであろう。なぜなら、関係者はすでに鬼籍に入ってしまっている世代だからである。前回取り上げた『五色の虹』の中で著者の上司の言葉「この手の話はあと5年で聞けなくなる」を想起させる。もちろん、このことを知っていた一部の人がこうしてドラマの中で取り上げてくれたことも大きな功績である。

蛇足ではあるが、本書はドラマが放送された8月2日、全国の書店(ネット書店も含む)で一斉に在庫がなくなるという出来事となった。その日の全国売り上げ上位にいきなり喰い込んでいる。私自身、仕事から帰宅して(13:00頃)ネット書店を確認したら、すでにどこも在庫なしになっており、市内の大型書店の幾つかに電話で問い合わせをし、ようやく1件在庫があるところ(しかも1冊)を見つけ出し、受け取りに行った。その後出版元から8月9日に重版決定がアナウンスされた。ドラマを観ていた多くの人をざわつかせた「総力戦研究所」。ここから学ぶべきものはたくさんある。

=======文責  木村綾子


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KIMURAの読書ノート『五色の虹』

2024年08月04日 | KIMURAの読書ノート

『五色の虹』
三浦英之 著 集英社 2015年

今回も三浦氏の著書をお届けする。前回取り上げた著書の内容について全く知らず、自分の無知さを痛感したのだが、今回もまた同様である。

1932(昭和7)年、日本は満州事変をきっかけに満州国を建国する。この時期の満州はすでに、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族など民族が入り混じり暮らしており、日本人は総人口の2%であった。そのため、政府は圧倒的に多民族が多いこの国で、日本人が創設したとは言え、日本人がこの国を支配することは困難であると判断し、新しい国づくりが必要と実践したのが「五族協和」であった。その一環として設立されたのが満州国最高学府「建国大学」である。ここでは、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から選び抜かれた学生が6年間共同生活をしながら学ぶ、日本初の「国際大学」であった。実際、戦況下でありながら、学内では言論の自由が保障され、学生たちは昼夜問わず、議論を重ねていた。事実、日本政府を公然と批判することも認めていたり、日本では発禁本となっている本も閲覧が許可されていた。しかし、本書の言葉を借りれば「同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、きわめて稀有な日本人でもあった(p23)」。この大学は1945(昭和20)年満州国崩壊(つまり、日本敗戦)と共に閉校となる(実際は、なし崩しになくなる)。そして同時に日本政府はこの大学に関する資料のほとんどを焼却してしまう。

この建国大学のことを知った著者は、卒業生の足取りを調査したものが本書である。国際大学だっただけに、その調査は国内だけでなく、中国(大連、長春)、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンと広い。ここで分かったことは、卒業生の出身国によって、自国に戻っていった時の扱いが様々であったということである。多くの国では敵国の日本が創立した大学で学んだということで「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府から厳しい糾弾や弾圧を受け、不遇な生活を送ることとなっていた。とりわけ、中国においてはこの調査が行われた時点でも、様々な妨害により、直前に取材がキャンセルになっている。その中で唯一卒業生ということで寛大な扱いで国家の中枢に組み込んだのが韓国であった。また日本人であっても、敗戦時にどこにいたかということで、その後の運命が大きく変わっていることが本章では記されている。

この記録を読んで、もし「建国大学」の創立が戦時中でなかったらと思わずにはいられないし、あの満州国だったからこそ、現代であれば誰もがうらやむような国際大学が創立したと思うととても皮肉なことだとも感じる。

本書は著者の個人的企画であったにも関わらず彼の上司が海外出張を許可してくれるようにあちこちに便宜をはかってくれている。それは「この手の話はあと5年で聞けなくなる」という理由であった。敗戦時に焼却された資料に及ばないまでも、「建国大学」という最高学府があったという記録を少しでも復元した本書を次の世代にも繋いで欲しいと切に願った。今年あれから79回目の夏を迎えた。

=====文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』

2024年07月18日 | KIMURAの読書ノート


『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』
三浦英之 著 集英社 2022年

「その不可解なメッセージが私の短文投稿サイト『ツイッター』に投稿されたのは2016年3月だった。〈朝日新聞では、1970年代コンゴでの日本企業の鉱山開発に伴い1000人以上の日本人男性が現地に赴任し、そこで生まれた日本人の子どもを、日本人医師と看護師が毒殺したことを報道したことはありますか?〉」(p8)

上記は本書の冒頭に記されていた文章である。著者は朝日新聞のアフリカ特派員で当時南アフリカのヨハネスブルクに駐在していた。その著者のツイッター(現エックス)のアカウントに直接送られてきたのが上記のメッセージである。このメッセージにはその情報ソースの動画が貼り付けてあり、著者がそれをクリックすると動画はフランスの国際ニュースチャンネル「フランス24」のニュース映像であることを知った。それは約10分半にも及び、日本人男性との間に生まれた子どもと思われる人や元鉱山労働者、そしてコンゴの国会議員など多数の人のインタビューが映し出されていた。しかも、すでに子どもたちは組織を作り、救済を求める活動に乗り出しているという。この動画の配信元はフランス政府が所有する国際放送統括会社の傘下にあるニュース専門チャンネルでかつ取材者の名前も表記されていることから、決して眉唾なものではないと思う反面、「信憑性」に関する疑問や「報道姿勢」に対する疑念が著者の中で浮かび上がってくる。このことがきっかけとなり著者はこの事件について本格的に取材することとなった。

コンゴには「日本カタンガ協会」という団体が存在。活動しているのが日本人である田邊好美ということを知り通訳をお願いする。そしてコンゴに渡った著者は田邊の口から日本人残留児(日本人男性との間に生まれた子)が数十人から数百人実在するところまでは事実であることを知らされる。田邊は子ども達が立ち上げた団体のサポートもしていた。田邊の紹介で子どもたち(以下、日本人残留児)にあった著者は一目で彼ら・彼女らがコンゴ人とは異なる容貌をしていることを理解する。田邊たちの話によると、「フランス24」が報道する3年前に日本大使館に日本人残留児のリストと要望者を持って出向いたということであった。そしてその時の大使館側の回答が「東京に問い合わせてみたところ、この件は民事事案なので政府としては対応できません」というものであったという。また著者以外にもかつて日本人のフリーカメラマンやテレビクルーが取材に来たことがあるが、カメラマンは子ども達や母親の写真を撮ってそれっきり。テレビクルーの番組は子ども達のことには触れない酷い内容で日本のBPOに審査の申し立てをしている状況であるという。結果的にこの一連のことが日本では表舞台に出てきていないということになる。

結論を述べれば、日本人残留児に関して言えば事実であり、「嬰児殺し」に関しては誤った情報であると言える。実際に2022年に「フランス24」の映像は削除されている。しかし、それ以外のことは何も解決しないままである。つまり、日本人残留児は今尚コンゴで不遇な生活を続け、何も支援が入っていない状態なのである。そして、なぜこのような悲劇が起きたのか。これが最大の問題であり、日本の闇の部分であると言える。当時コンゴに鉱山を持っていた日本鉱業の労働者の宿舎は劣悪なものだったという。そのため日本人労働者の多くが性病にかかっており、かつこの時の指導の1つが「現地人と性行為をした後は力いっぱい小便を一気に出すようにしたら、病原菌も一緒に流れ出る」というものであったようである。これも一つの要因になったという。しかし、相手のコンゴの女性の多くはまだ13~14歳のいわゆる「女の子」であったということもここに付け加えておく。

1970年代と言えば、高度成長で日本はあの戦後から立ち直り、先進国の仲間入りをしたと言われた時代である。この出来事だけでも果たして日本は先進国の仲間入りをしたと云えていたのであろうか。著者は取材を始めてから出版まで6年の時間を要している。それだけ取材は困難を極めたともいえる。そして、かつ朝日新聞の社員でありながら、個人的な取材をすることで社内ではペナルティも与えられている。そのような中で本書が書店に並んだことは奇跡に近いのではないかとも思う。著者はこの本が世に出ることで子ども達の存在が社会に知れ渡り、救済の光が当たることを望んでいる。是非一人でも多くこの本を手にして欲しいと願う。そして、最後に当時のコンゴ日本大使館は大使館としては子ども達に何も出来なかったが、あまりにも不遇な立場に追い込まれた子ども達に個人的に支援していたこともここに付け加えておく。

======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『お寺の掲示板 諸法無我』

2024年07月03日 | KIMURAの読書ノート

『お寺の掲示板 諸法無我』
江田智昭 著 新潮社 2021年

お寺の門前にある掲示板が急に気になり始めたのは今から遡ること3年前、2021年のことである。プロ野球広島東洋カープのファンの面々がSNSでお寺の掲示板に貼られた言葉を投稿したのである。次から次へと流れてくるタイムラインでその言葉は埋め尽くされた。それが、「カープのファンでいることは、修行である」。広島市内にある超覚寺の住職が掲示板に張り出した言葉であった。当然私もこの世に生を受けて以来カープファンであるので、住職が言わんとする深い意味を理解することができ、そして爆笑させてもらった。と同時にそれまでお寺の掲示板に書かれている言葉というのは「仏陀の言葉」もしくは「御仏の言葉」と思っていたため、このように仏陀が語った言葉でなくても構わないのかということに初めて知ったのである。それ以来お寺の掲示板を目にすると、思いのほか自由にかつ端的に書かれていることに気付いた。

そして、このお寺の掲示板の言葉を集めたものが本書という訳である。本書を書店の書棚で目にした時思わず「あるんだー」とまさにつぶやいてしまったが、ただこれは掲示板の言葉を集めただけに収まっているものではない。ここに掲載された言葉の背後にはどのように仏教との関りがあるのかというところを著者は説いているのである。例えば、鹿児島県の東本願寺鹿児島別院の掲示板「今月のことば 老いることも 死ぬことも 人間という 儚い生き物の美しさだ 鬼滅の刃 煉獄杏寿郎」(p11)。人気を誇るマンガの登場人物の台詞をそのまま掲示板に載せている。この言葉を踏まえて著者はお釈迦様も「老」や「死」の問題に関して深刻に悩んでいたと記し、そこからお釈迦様がこの問題に対してどのようにして向き合っていったかということが綴られている。

東京の妙円寺の掲示板は「お釈迦様を嫌いな人もいた 『誰にも嫌われたくない』なんて思わなくていい」(p36)と言う言葉を掲示している。実際に初期仏教の記録によるとお釈迦様やそのグループが迫害された歴史が残っているらしい。ここから著者はお釈迦様が『法句経』の中に残した言葉を紹介し、掲示板の言葉について論じている。

本書に取り上げられている掲示板の言葉だけをここに幾つか列挙するが、これら全てが仏教と通じるところがあるというのが不思議でもある。
・「隣のレジは、早い。」延立寺(東京都)
・「ボーッと生きてもいいんだよ」恩栄寺(石川県)
・「ご先祖になるまでが人生です!!」龍岸寺(京都府)
・「拍手されるより 拍手した方が ずっと心が豊かになる 高倉健」鳳林寺(静岡県)
・「セカンド7番で死んでいく。 芸人オードリー若林」超覚寺(広島県)
など。
 
最後の言葉は最初に紹介した「カープ」に関する言葉を記した超覚寺である。本書でも取り上げられていたのかと思わず突っ込んでしまったが、この掲示板界隈で有名なお寺であることを本書で知った。因みにこの超覚寺の他のカープネタには、「つまづいたっていいじゃないか カープだもの」。というのもある。かなりファン心理をついた言葉である。そして、我が家にいちばん近いお寺の本日の掲示板「かみそめまみれの日常」。こちらはアニメ『SPY×FAMILY』オープニングテーマ曲の一節である。

お寺は「仏教」という戒律の厳しい世界のように思っていたが、これらの掲示板から想像以上に自由で弾けている世界であると感じた。そして、その掲示板から発せられる言葉を見ていると、殺伐とした世の中になっているようで、実は掲示板を通してお寺がとても温かい目で見守ってくれているということを感じるのであった。

 

文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『空飛ぶ山岳救助隊』

2024年06月16日 | KIMURAの読書ノート


『空飛ぶ山岳救助隊』
羽根田治 著 山と渓谷社 1998年

「登拝」という形で私が山に入るようになって2年が過ぎた。最初は「山に入る」ということが全く分からず、登山道(参道)に足を踏み入れようとした瞬間にその場にいたトレッカーから止められるという経験もした(山に入るには軽装すぎた)。今ではそこそこ「山に入る」ということが分かり始め、「登山」をしているという意識は未だにないが、山岳保険にも加入し、山の情報が常に入るようにしている。そのような中で「山岳救助」に関しておススメする本として紹介されていたのが本書である。

本書は山岳救助に民間のヘリコプターを活用しレスキューに命を懸けた篠原秋彦の半生を綴ったものである。彼がレスキューにヘリコプターを活用するまでは、民間のヘリコプターの役割は林業や山小屋で仕事をする人のための物資などの運搬や山に建設する送電線やパラボラアンテナの工事や、整備事業にそれを使っていた。篠原が当初入社した東邦航空も例に漏れずそのような仕事を請け負っていた。篠原は長野県で生まれ育ち、幼い頃から家業の手伝いとして山に入り、高校生の時には学校の規則を破り八ヶ岳を縦走。山が身近な存在であり、一般の人よりは山を熟知していた。東邦航空に入社し、しばらく経ってから年に2,3件山小屋への荷揚げのついでに、山小屋にいる病人やケガ人を下ろすようになっていた。ある日のこと、とある山小屋に一般登山者から登山者が滑落したという情報が入り、山小屋のスタッフが遭難現場に向かう。遭難者を発見し、警察に連絡、ヘリコプターを要請。この時東邦航空のヘリコプターが初めて遭難現場に出動、搭乗していたのが篠原であった。この当時(1970年代)の山岳遭難事故が発生した場合、一報は所轄警察署に届けられるものの、捜索にヘリコプターを使う場合、民間のヘリコプター会社に依頼するしかなく、警察所有のヘリコプターは導入されていなかった。しかし、このような場合の民間のヘリコプター出動は「仕事外のボランティア」であり、会社からしてみれば、本来の業務でない危険を伴うレスキューには後ろ向きであった。これをきちんとした仕事として確立していったのが篠原なのである。

本書の半分は篠原が関わった遭難事故に関するものであるが、やはり読み応えがあるのは、篠原が確立していったヘリコプターによるレスキューの歴史であろう。もともと山ヤだった篠原が地盤を築き、彼と同じレベルの山ヤや有能なヘリコプターの操縦士をパートナーにし、遭難者を救うことでレスキューをすることの意味に説得力を持たせ、会社をはじめとする関係者を納得させる過程は半端なものではない。そして、今では警察も山岳救助に対するヘリコプターを導入し、民間の会社と協力体制を敷いて、現在も二人三脚で山岳救助をおこなっている。本書の最後では1998年に行われた冬季長野オリンピックにおいて、レスキュー用のヘリコプターをスタンバイさせていたことにも触れている。
 

近年、登山者が増え、それ故に遭難者も増加。無事に命を救ってもらえるのは、篠原が築き上げた山岳救助における歴史の積み重ねがあるお陰である。しかし、私自身実際に山に入って分かったことがある。いくら万全に装備し、注意を払いながら山に入っていっても、遭難する時にはしてしまうのである。遭難した全ての人が軽率な行動によるものではないことだけは伝えたい。それだけ「山」は危険な場所なのである。古代先人たちは山を「神」の住まうところと崇め、修験者は修行のために山に入っていくのは、やはり危険な場所だからに他ならない。そのような場所に私が入っていくのは、先人たちの足跡をただただ辿ってみたいからである。本書を読み改めて気を引き締めながら週末は山に入る私である。

=======文責 木村綾子


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