北村透谷の文学論を「詩を想う」で考えました。その熱く強い語り口は、長編の劇詩
「蓬莱曲」にも息づいています。
透谷はその一方で、小さな生きものたち、みみず、蛍、蝶たちをみつめ、平家蟹から馬まで様々な生きものを通して、いのちを想いうたう、短い詩も書きました。それらの詩から流れ出る調べは、透谷の感情、空(くう)、はかなさ、さびしさ、悲しみが染み込んだ清澄な響きです。
わたしの詩の好みから好きな3篇をここに咲かせます。
「みどりご」は七五調のやわらかなうた。
島崎藤村の『若菜集』に手渡されていくような調べ。
「眠れる蝶」には、生きものに満ち、移りゆく時の流れに、いのちのはかなさがふるえていて、
調べも自然で変化に富む語数韻、自由律の美しい詩だと感じます。
「露のいのち」は透谷の心が砕けこぼれ落ちてゆくような、ちからなく悲しい絶筆、のように感じます。
同時に、この優しくやわらかな3篇は、透谷の心の豊かさのある部分のあらわれであり、透谷には評論での新しい時代に先頭を駆け。恋愛、平和を誇らかに謳いあげた知性・意思・勇気・行動力があったこと、新体詩を経て初めての文語自由律の長編詩
「楚囚之詩」を創り上げた芸術力があったことを、忘れてはならないと思います。
詩人ならその心は海、言葉は波のようにゆたかな変化する表情をした潮騒の調べになる、と私は思います。
詩句中の( )は送り仮名です。
みどりごゆたかにねむるみどりごは、
うきよの外(そと)の夢を見て、
母のひざをば極樂の、
たまのうてなと思ふらむ。
ひろき世界も世の人の、
心の中(うち)にはいとせまし。
ねむれみどりごいつまでも、
刺なくひろきひざの上に。
眠れる蝶けさ立ちそめし秋風に、
「自然」のいろはかはりけり。
高梢(たかえ)に蝉の聲細く、
茂草(しげみ)に蟲の歌悲し。
林には、
鵯(ひよ)のこゑさへうらがれて、
野面には、
千草の花もうれひあり。
あはれ、あはれ、蝶一羽、
破れし花に眠れるよ。
早やも來ぬ、早やも來ぬ秋、
萬物(ものみな)となりにけり。
蟻はおどろきて穴(あな)索(もと)め、
蛇はうなづきて洞(ほら)に入る。
田つくりは、
あしたの星に稻を刈り、
山樵(やまがつ)は、
月に嘯むきて冬に備ふ。
蝶よ、いましのみ、蝶よ、
破れし花に眠るはいかに。
破れし花も宿假(か)れば、
運命(かみ)のそなへし床(とこ)なるを。
春のはじめに迷ひ出で、
秋の今日まで醉ひ醉ひて、
あしたには、
千よろづの花の露に厭き、
ゆふべには、
夢なき夢の數を經ぬ。
只だ此のまゝに『寂(じやく)』として、
花もろともに滅(き)えばやな。
露のいのち待ちやれ待ちやれ、その手は元へもどしやんせ。無殘な事をなされまい。その手の指の先にても、これこの露にさはるなら、たちまち零(お)ちて消えますぞえ。
吹けば散る、散るこそ花の生命とは悟つたやうな人の言ひごと。この露は何とせう。咲きもせず散りもせず。ゆふべむすんでけさは消る。
草の葉末に唯だひとよ。かりのふしどをたのみても。さて美(あま)い夢一つ、見るでもなし。野ざらしの風颯々と。吹きわたるなかに何がたのしくて。
結びし前はいかなりし。消えての後はいかならむ。ゆふべとけさのこの間(ひま)も。うれひの種となりしかや。待ちやれと言つたはあやまち。とくとく消してたまはれや。
青空文庫(
http://www.aozora.gr.jp/)(入力:鈴木厚司、校正:土屋隆)を利用しました。
底本:「透谷全集 第一卷」岩波書店、1950年
初出:みどりご「平和 第八號」1892(明治25)年11月26日。眠れる蝶「文學界 第九號」1893(明治26)年9月30日。露のいのち「文學界 第十一號」1893(明治26)年11月30日。
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