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2006年4月

荻窪3丁目の商店街

荻窪3丁目は、基本的には1種低層住宅専用地域で、店舗を開くことができません。しかし、その周囲の道路に関しては、昔からいくつかの商店街が存在しています。

1.西田商店会

Rimg0332_1  3丁目の西側。2丁目との境界。美容院、八百屋がある。道の反対側の2丁目側(都営住宅側)にはそば屋、パン屋、豆腐屋、肉屋、飲み屋、酒屋などがある。かなり衰退し、店舗の閉鎖が相次ぐ。

2.団地南側

Rimg0329_1  西田端橋から団地南東の角まで。3丁目側では西田端橋と交番の間にクリーニング屋、パン屋(Zermatt。後日詳しく紹介予定)がある。道の反対側(1丁目側)には、コンビニ、小型食品スーパー、惣菜屋、クリーニング屋、薬屋、喫茶店、床屋、そば屋(タクシー運転手御用達)、そして先日紹介したタータン珈琲。パン屋、小型食品スーパー、そば屋、タータン(但し来客は少ない)、床屋はそれなりに繁盛。この商店街は日曜日休業。小型食品スーパーの日曜休業は、近所には「不便」と評判悪い。団地建替による住民減の影響を受けているのではないか。団地の立替計画の中で、この商店街を活性化させることを目標としているような記載があるが、具体的には全く不明。1丁目側は、杉並南部土地区画整理事業施行区域に指定されています。

http://www2.city.suginami.tokyo.jp/library/library.asp?genre=431111

3.成宗商店街

Rimg0328_1  昔からある田端村と成宗村の境界道路にある商店街。3丁目側には、八百屋、豆腐屋、肉屋、米屋がある。反対側(成田東5丁目側)には、美容院、パン屋がある。これも非常に寂れた商店街ではあるが、商品はそれなりにそろっている。近所で便利なので、特徴(こだわり)を出して、もう少し活気が出てほしい商店街である。

4.青梅街道、旧青梅街道沿い

 ここは、コンビニや飲食店(牛丼屋)、変り種では米軍使用品の店などが存在する。3丁目ではあるが、他とはかなり雰囲気が異なり、駅前の延長である。

5.その他

 その他に商店街はないが、飲食店や旅館が存在する。旅館は言うまでもなく西郊旅館。飲食店は、西郊旅館の向かい側の4丁目に、自然食の飲食店が2つ並んでいる。1つは荻窪でも有名な「すみれや」、もう一つが、前にも紹介した有機野菜発芽玄米の「Chant(チャント)」である。どちらも自然食レストランガイドに登場するが、性格は正反対らしい。こんなところに2件並んでいるなど、さすが荻窪である。

 さて、思わぬ穴場が図書館内の食堂である。周囲道路以外の飲食店は、これだけである。また、医者が点在する。荻窪団地東側にある小児科、北側にある内科、歯科、西郊旅館の近くにある皮膚科、内科である。銭湯は青梅街道近くの荻窪湯。

6.自動販売機

 自動販売機の設置台数の少なさも特筆すべきである。青梅街道沿いを除けば、団地の北側駐車場に数台、東側アパート前に1台、大田黒公園東側地区のかなり奥まったところにポツポツと数台あるだけであり、探すのに大変苦労する。商店街にある自動販売機もなぜか3丁目側ではなく、反対側にある。

7.コンビニ

 青梅街道沿いにしかない。100円ローソンとファミマ。以前は西田商店会にファミマがあったが、昨年夏に閉鎖。南の方は1丁目の西田端橋付近ファミマしかないという、コンビニ空白地域である。

 このように、3丁目自体にはほとんど買い物ができるところがない。駅前か環八沿いのOKストアー、車があれば高井戸のサミットやオリムピックに行くことになるでしょう。また、場所によっては南阿佐ヶ谷もしくはパールセンターも良いかもしれない。移動手段をもたないお年寄りには少々厳しいかもしれません。周辺商店街の活性化を望みたいものです。

 なお、団地建替えの際に、何らかの商業設備をという意見も出されているようですが、道路のことを考えるとあまり期待できません。

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荻窪の隠れ銘店、池袋西武に

今日は、荻窪3丁目から道路1つ隔てた反対側(荻窪1丁目)のお店のお話。

荻窪団地の南東の角の交差点の前に「タータン珈琲」というコーヒー豆屋さんがあります。外見は寂れたパン屋なのですが、実は、知る人ぞ知る有名店で、全国にも大勢のファンがいる豆屋なのです。テレビなどで何度も紹介されていますし、芸能人のお得意様もいるようです。そのタータン珈琲が池袋の西武百貨店の大催事場に今年も出展しています(5/3まで)。

タータン珈琲の名物は薫り豊かなコーヒー豆であるのはもちろんですが、有名なのが水出しのアイスコーヒー(ダッチコーヒー)。ブラックでもよし、牛乳で割ってもよし。そして、百貨店の催事でのみ食べられるのが、新鮮な豆を使った「かうひいソフト(モカコーヒーソフトクリーム)」。毎年恒例のこの季節の西武での催事では、いつも行列ができる人気商品です。

タータン珈琲は、全国の百貨店の催事の常連です。東京では新宿高島屋にも登場しています。それで、全国から注文が殺到しているようです。

まさに、荻窪の隠れた銘店といえるでしょう。是非一度お試しあれ。

http://www.tartan-coffee.com/

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荻窪3丁目で人気のスポットは?

荻窪3丁目には、大田黒公園とか西郊旅館とかいう観光名所がありますが、今最も注目されているのは、意外にも荻窪団地。あと1年程で取り壊される古い団地の風景をカメラに収めようと、人々がやってくるようです。インターネットを調べてみても、荻窪団地の写真集はとても多くて、しかもどれもきれいなものばかり。夕暮れの風景、紅葉、そして桜。地元の人には極めて不評な廃墟も、団地マニアにとってはたまらない魅力のようです。

例えば、こんなのがあります。

http://danchi100k.com/file0060/index.html

http://jibun.org/danchi/ogikubo/ogikubo_011.html

http://naka54ori56zang66.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_a84c.html

http://igukun.exblog.jp/m2006-03-01/#4250371

実物と比べるとなんとも素敵でしょう!

さて、荻窪団地内にはこれもまたマニアに人気のスポットがあります。それは、関東バスの折り返し風景です。荻窪団地口から団地までの狭い道路を走るバス、そして誘導員付で折り返すバス。これがたまらない魅力だというのです。

これもこんなページがあります。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~am0604/terminal/ogi-danchi.html

http://toshipiro.sakura.ne.jp/yamatetsu/bus/zukan/ogi51/ogi51.html

地元民には迷惑そのもののものでも、中央線的好奇心の餌食になってしまうと「名所」に変身してしまう。荻窪は中央線の他の街と比較するととても地味ですが、地味で何気ないものの中にさえ、魅力を感じさせ、人を惹きつけてしまう不思議な街。荻窪3丁目。南荻窪には決して真似できない魔力がそこには潜んでいる。

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荻窪3丁目の古地図

なんちゃって3丁目の歴史を学ぶ上では、古い地図の研究が不可欠です。そして、3丁目には区内有数の古地図の宝庫があります。それこそ、中央図書館2階にある杉並資料室です。明治初期から現代までの杉並区の地図が豊富にそろっています。さすがに江戸時代のものはありません。古いものを見ると「田端村」「下荻窪村」の記載があります。また、杉並町時代もあります。旧田端村は杉並町、下荻窪村は井荻村になっています。「田端本村」は、今の団地を含む3丁目の南半分です。ついでですが、今の成田東4,5丁目は「杉並町杉並」と呼ばれ、まさに杉並区の由来になっているようです。その後、西田町1丁目時代が長く続きます。今は2丁目になっている荻外荘も当時は同じ西田町1丁目でした。そして、昭和33年ごろ荻窪団地が登場、都電の廃止(天沼、成宗駅の廃止)、天沼陸橋の完成、などを経て、現在の荻窪3丁目へと至るわけです。

残念なのは、他の村に比べて、田端村の歴史について触れた文献があまりに少ないこと。それと、驚きは、荻窪団地建設当時の資料がないということです。というのも、図書館ができるはるか前の出来事だから、とのことです。

3丁目関係としては、大田黒公園の近くの地区計画に関する資料が見られたのが良かったです。

まだまだ探せばあるのかもしれませんが、ここ100年ほどの動きとしては、この程度の資料をみれば十分かなと思います。興味のある方は是非中央図書館に!

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東本村 支 続報

Higashihonmura 「東本村 支」に魅せられた私は、荻窪3丁目内の電信柱を徹底的に調査することにしました。その結果、現在までのところ、「東本村 支」のほかに以下のような標識があることがわかりました。

「西荻」:西郊旅館の近く。かん芸館、図書館、読書の森公園を含む地域

「東荻」:大田黒公園の近く。4丁目も含む

「田端」:大田黒公園の南側の帯状の地域、西側、団地の北側の高台付近、善福寺川を渡った西田商店会・西田端橋バス停付近、さらに2丁目の荻外荘及び道路を越えて4丁目まで至る広大な地域。言い方をかえれば、3丁目の南半分の団地と東本村を除いたすべてといってもいいでしょうか。

「団地」:荻窪団地、団地内の「A」、北側の「B」がある。

「松渓」:団地南側バス通り周辺。団地東側の3丁目にも一部ある。主として1丁目

「東幹」:旧青梅街道、天沼陸橋交差点付近青梅街道沿い、成田東5丁目との境(北側)

「東本村」は、田端村と成宗村の境付近で青梅街道の近くを除いた地域。荻窪1丁目の方まで続きます。

「西荻」というのが意味不明です。「東が西武で西東武」という歌がありますが、まさにその状態。「東荻」とつけるのを間違ったとしか思えません。一度つけてしまったのでその後もずっと「西荻」とせざるを得なかったのでは、と想像するのですが。

また、隣接する地域としては4丁目の旧電話局からChantにかけての「局前」、団地の南東のゆう杉並を中心とした「敬老」(おそらく「ゆうゆう西田館」にちなんだもの)、荻外荘付近の「荻外荘」があるようです。

ちなみに、これはあくまでNTT東の「電信柱」の標識です。東電の電柱は「荻窪3」となっています。団地付近は、東電とNTTが電柱を共同利用しているのですが、他の多くの地域では道が狭いにもかかわらず、それぞれ別々になっていて、電柱の本数も多く、交通の障害になるばかりか、美観的にもあまりよろしくありません。何とか調整できないものでしょうか。

こうやって調査を進めている中で、ついにすずめを発見しました。数はさほど多くないようですが。カメラを向けたら恥ずかしがって逃げてしまいました。

 

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未来都市荻窪団地

いまでこそ荻窪団地は廃墟のようにいわれ、荻窪3丁目のイメージを悪くしている感がありますが、昭和33年に出来た当時は、まさに戦後日本の復興を象徴する未来都市、今で言えば、六本木ヒルズのような憧れの地であったに違いありません。

最新の設備(厨房機器や水洗トイレ等)、そして、「団地電話」といわれる通信環境は、当時の日本では画期的なことであったと思います。さらに、10世帯に1台の割合で車を保有又は駐車できるスペースを確保。これも自家用車などほとんど存在しなかった当時の日本においては異例のこと。

また、デザインも当時としては斬新なもの。このあたりでは鉄筋コンクリートの建物自体が珍しかったでしょうから、本当に「未来都市」のように見えたでしょうね。とはいえ、もともと住んでいる人にとっては、所詮は田んぼの埋立地。

さて、建替え事業でこの町は、以前のように未来都市へと変貌を遂げるのでしょうか?多くの人があこがれ、住みたくなるような町になるのでしょうか?窪地にあるので「荻窪ヒルズ」というわけには行きませんが、是非、素敵な町に生まれ変わってもらいたいものです。

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荻窪団地建替事業

いま、荻窪3丁目で最もホットな話題といえば、やはり荻窪団地の建替事業でしょう。

すでに、北西側の棟の住人が東側の棟に引っ越して、いつでも取り壊しができる状態になっています。また、2月始めには近隣住民への計画に関するパンフレットが配布され、アンケートが実施されました。その意見を元に最終的に平成18年度で計画を確定し、19年度から23年度にかけて少しずつ建替えすることになります。

今の計画によれば、西側と南側に6階建ての集合住宅、18号~21号棟付近は補助215号線用地の代替地として一戸建て地域になります。また、北側は公益施設が予定されています。東側から西側にかけての中央部には防災公園も兼ねたような公園ができるようです。

団地西側の道路は、拡張し、補助215号となります。その両側の桜はそのまま残る予定です。弓形道路もやや拡張されるものの、そのまま残ります。ただ、桜以外の木は結構伐採されてしまうのではないかと思います。いい梅の木とか結構あるのですが、そういうのがなくなってしまい、今風の西洋の木とか芝生だけというのはとても寂しいです。団地の東側は住宅が密集していて、あまり緑がないこともあって、何とか団地の緑を少しでも残してほしいのですが。

心配なのは、工事用車両が一体どこを通るのだろうかということ。松渓中学校前の道路は、関東バスとすれ違うことができないし。

計画に関して一番要望したいことは、水害対策です。荻窪団地の地下を遊水地にするとか、善福寺川があふれて雨水が処理しきれなくなったときに、周りが被害を受けないようにするなど、考えていただく必要があります。皆さんも考えてみてください。また情報が入り次第お伝えします。

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音楽関係

3307841_3109305724荻窪3丁目といえば、図書館、読書の森公園、体育館、かん芸館、そして大田黒公園。かん芸館と大田黒公園はいうまでもなくクラシック音楽ゆかりの建物。大田黒公園は音楽評論家の大田黒元雄氏の居宅で、100年以上前のスタインウェイのピアノがあり、時々コンサートもやっているようですね。ただ、残念ながら、楽器の保存状態が余りよくない。お金を出して修復すればいいのに、と見るたびに思います。100年といえばとても古いもののように感じますが、楽器の世界では決してそうではありません。ヴァイオリンでは300年以上前の楽器が現役でがんばっていますし、ずっと手入れして使っていれば結構もつものです。

Rimg0320 かん芸館のピアノは、「プレイエル」というショパンが愛したピアノの現代版です。正確には、現代のプレイエル社がショパン当時の仕様に合わせてリバイバルした楽器、という感じでしょうか。いわゆる古楽器というジャンルです。古楽器といえば、モーツァルト以前の楽器を想像しますが、ショパンの時代のピアノはまだまだ発展途上で、現代のものとは異なっており、音色、タッチは軽く、ショパンが要求する現代のピアノでは難しい表現も自然と出来てしまうそうです。私もピアノではありませんが古楽器を演奏しますので、その感覚は非常によくわかります。

さて、荻窪3丁目及びその周辺には、音楽関係の方がそこそこ住んでいらっしゃるようですが、まだ、そういう方には残念ながら出会うことが出来ません。また、街を歩いていて、意外と楽器の音が聞こえてこないのですね。皆さん、防音室で演奏しているのでしょうか。あとはかん芸館のマダムと例の発芽玄米の店Chant(4丁目西郊旅館前)でお会いするくらいでしょうか。そのかん芸館には、展示では時々行くのですが、コンサートはいつも予定が合わず、いまだに行けずじまい。いずれ、自分もそこでコンサートをやってみたいとは思っているのですが。

このブログを読まれる方はあまりに少ないので、恐らく音楽関係者の方はいらっしゃらないと思いますが、もし、いらっしゃったらお声をおかけください。

ついでですが、すずめは全くいないわけではなさそうです。ただ、電線にとまっていないし、数は少なそうです。

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すずめ

荻窪3丁目は比較的様々な小鳥が生息していると思われますが、なぜか、すずめの姿はあまり見かけません。電線にとまっている姿もあまり見ません。杉並区でも、馬橋地区には多くのすずめが生息しているといわれますが、なぜ、ここは少ないのでしょう? 他の小鳥が多いから?カラスが多いから?巣になるような場所が少ないから?

こんな謎を解明すべく、まずは、すずめを求め、さ迷い歩くこと、そして、小鳥博士に調査を依頼すること、この2つを公約として掲げたいと思います。小鳥は、朝の空腹時が最も活動的であるという小鳥博士の教えに従い、早起きは三文の得、の精神でチャレンジしてみるつもりです。

さて、タヌキですが、調べてみると、最近杉並区内でも目撃情報がいくつかあるようです。平成15年の第4次杉並区自然環境調査報告書でも、タヌキに関する情報が寄せられており、どうやら少なからず生息しているようです。こちらは夜しか活動しないので、なかなか発見が難しいですが、いつか生きているタヌキを見たいと思います。

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タヌキひき逃げ事件?

日本時間6日朝方、荻窪3丁目大田黒公園前の道路に、体長50~70センチくらいのこげ茶色の動物が倒れていたのをたまたま通りかかった近所の住人が発見し、そのまま通り過ぎた。この動物は、ネコにしては大きく、イヌにしてはふっくらしていた。通行人の話では、タヌキのような動物とのこと。いかに、荻窪3丁目が田舎とはいえ、タヌキの類が生息しているとは考えにくい。どこかの家で飼っていたものが逃げ出したのか、それとも大田黒公園か荻外荘あたりに住んでいる野生かは不明である。

ちなみに、夜通りかかったときには、すでに動物の姿はなかった。警察でひき逃げ事件と見て捜査をしているかは知る由もない。

この動物の正体、そして犯人は?

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東本村 支

「東本村 支」って見たことありますか?

3丁目にあるNTTの電信柱にある標識の表示です。「一体どういう意味だろう?」とずっと思っていたのですが、どうやらこの辺は本村または田端本村と呼ばれていた時代があるらしい。たぶんその東部という意味なのでしょう。阿佐谷北や高円寺、本天沼付近も本村という地名があるようですが、たぶん、その辺の村の中心ということなのではないでしょうか。ちなみに、有名なそば屋の「本むら庵」はもともと「本村庵」で、あの辺の本村という地名から命名したらしいです。南口バス通りにある「本村庵支店」は、そこからのれん分けされたようで、店名は当時の表記を踏襲しています。町会の掲示板と電信柱をみると街の歴史がわかります。

今日、八重洲ブックセンターの本店で古地図をいくつかみてきましたが、3丁目は、西郊旅館から大田黒公園、旭化成寮あたりまでは旧下荻窪村(その後井荻村)、それ以外は田端村のようです。やはり歴史的には補助215号を境に荻窪と田端に分かれる運命なのでしょうか。荻外荘は2丁目ですが田端です。でも、成田東とも歴史上完全に分かれていて、あそこは成宗ですから、阿佐ヶ谷地区に入るのも歴史的に受け入れがたいということになります。成田東5丁目、成田西4丁目と荻窪3丁目の境界というのは全然変わっていないようです。

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昭和初期の別荘地

前回書いたように、荻窪3丁目は非常に複雑な地形をしており、また、あたかも海辺であるが如き雰囲気をかもし出しています。そのため、多くの人々がこの地を別荘地に選びました。近衛卿もその一人でしょう。荻外荘の高台から当時水田だった荻窪団地を見下ろすと、まるで、鎌倉の海岸沿いにいるような感じだったのでしょう。実際、善福寺川があふれると、水田一面がまるで海のようになったようです。それが土を肥やし、さらに下流の水害を防ぐことにもなっていたようです。それが団地になってしまったがために、水害による被害が拡大するようになったとも言えるのではないでしょうか。この点は後日書こうと思います。

また、大田黒公園というのも、荻窪3丁目の複雑な地形を上手く生かしたつくりをしています。書斎跡から池を見下ろすとかなり低くなっていることがわかります。

いまでは、団地になり、又は住宅が密集している低地帯ですが、水田だった頃は今以上にのどかで景色のいい場所だったのでしょう。区画整理された南荻窪より、自然の地形がそのまま残る西田町に本当の豪邸が多いというのは、そういう地形が関係あるのではないかと思っているのですが。

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地理的構造

荻窪3丁目は、非常に複雑な地形を持っています。つまり、あたかも入り江が内陸まで入り込んでいるという感じです。荻窪団地を海(湾)にたとえれば、そこから大田黒公園南東から読書の森公園に至るまで海が入り込んでいるような感じです。一方、1番地から田端神社方面に善福寺川に向かって岬が突き出しているといえます。この岬に相当する部分が「矢倉山」とか「矢倉台」と呼ばれるらしく、鎌倉時代には櫓があったようです。古墳時代の遺跡もあります。善福寺川に屋倉橋というのがありますが、これは当時の名残といわれています。高いところは標高47メートル程度。一番低い西田端橋付近で40メートルとなっており、高低差は7メートルあります。

大田黒公園と荻窪団地を中心に大きく7つの地域に分かれると思われます。

1.荻窪団地及び周辺地域

 荻窪団地及び西側で隣接するマンション、西田商店街。昨年9月の洪水で浸水。

2.善福寺川西岸地区:団地付近の川の西側にほんの少しだけ張り出しています

3.大田黒公園南西地区:荻窪2丁目に隣接する高台地域。一部は東荻町に所属

 高級住宅街。学者や文化人在住

4.図書館周辺地域:図書館付近から荻窪団地に向かって南下した高台地域

 最近、敷地の細分化が進んでるが、比較的広い家が多い

5.荻窪団地東地区:矢倉山の西斜面、団地の東側

 敷地の細分化、住宅の密集化とアパート化が進んだ成田東5丁目風の地域。東は成田西4丁目の共立女子大。この地域は、人工的に削られて団地に向かってのなだらかな斜面になっている。団地東側の道路には田んぼ時代の用水路が地下に眠るが、それがあふれると一気に道路に水がたまる。

6.入り江地区

 荻窪団地と読書の森公園を結ぶ大田黒公園南西地区と図書館周辺地域の間の低地帯。都道補助215号のルートにあたる。大田黒公園東半分、大田黒公園から団地の間。南部は昨年9月の洪水で浸水。

7.西郊旅館付近

 読書の森公園をはさんで図書館の反対側、4丁目に接する地域。西郊旅館、かん芸館などがある。

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荻窪3丁目は荻窪ではない

荻窪3丁目の歴史をたどってみると、荻窪3丁目が有史以来昭和40年代に現在の形になるまで、一度も荻窪であった例がない、いわゆる「なんちゃって荻窪」であることがわかります。つまり、上荻窪村でも下荻窪村でもない、田端村なのです。田端神社とか西田端橋といったところに名残があります。但し、西郊旅館の一角や大田黒公園南交差点の当たりは下荻窪村であったらしい。また、その後、現在のような状態になるまで、西田町1丁目と呼ばれていたようですが、旧下荻窪村だったところは「東荻町」と呼ばれていたようです。いずれも古い家の表札には「西田町」とか「東荻町」といった表示を見ることが出来ます。また、町会の名前(掲示板を見ればわかりますが)に「西田」とか「東荻」という当時の名残がいまだに残っています。また、西田小学校というのもその当時の名残です。西田町1丁目は、現在の成田西も含んでいます。ちなみに、「成田」とは「成宗」と「田端」から採ったもの。杉並の名前の由来にもなっている杉並木があった二つの村です。

いまでこそ、荻窪体育館とか荻窪団地とか「荻窪」という地名のついたものも出来ていますが、もともとは違うのですね。

実は、荻窪団地建替えの際に補助215号線という道路が出来ますが、杉並区の様々な資料を見ても、、この道路ができると道路から東側は「阿佐ヶ谷地区」という扱いになってしまうようです。つまり、荻窪3丁目が分断され、大田黒公園から西は荻窪、そこから東は成田東と一緒にされて阿佐ヶ谷になってしまうのです。郵便局、税務署などは荻窪郵便局、荻窪税務署より杉並郵便局、杉並税務署の方が近いので便利にはなりますが、阿佐ヶ谷と荻窪ではずいぶんイメージが違いますし、防災地図の扱いも成田東と一緒になると、一気に危険地帯扱いになってしまいます。

「なんちゃって荻窪」も風前の灯なのでしょうか。

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るるぶ杉並区

るるぶ杉並区版が発売されました。早速買いましたが、まあ良くここまで調べたな、と言う感じです。また、杉並案内の定番のお店とかが紹介されていなかったりと、時代の流れと言うのか、人の見方も変わってきているのかな、と言う気がしています。例えば、荻窪で言えば、4丁目の自然食のすみれやとか名曲喫茶のミニヨン、西荻では長本兄弟商会とかが掲載されていません。それぞれ、街の象徴のような存在なのに。。。

Rimg0218一方で、新しいお店も色々紹介されています。例えば、LOHASコーナーで紹介されている西郊旅館の向かい側の角の自然食定食屋Chant(チャント)などという有機野菜、発芽玄米の店などは、開店してから1年半ほどしかたっていません。写真左がおなじみ西郊旅館、右がChantです。このアングル、いま、ライオンズマンションの荻窪駅に貼ってある広告に使われているのと同じです。

今日は、荻窪3丁目から2丁目、1丁目、成田西の善福寺川緑地と、旧西田町、さらにさかのぼって旧田端村、一部成宗村の一定規模より大きい桜をすべてみて、カメラに収めようと、一日中自転車で駆けずり回っていました。80枚近くあるので、少しずつ紹介したいと思います。3丁目では中央図書館前、荻窪団地(実は川沿いは善福寺川緑地という扱い)が有名で、今日も多くのカメラマンが訪れていましたが、それ以外にも、あちこちの民家に立派な桜があるのですね。こんなに桜の多い町も珍しいのでは。

そう、いきなり本題から入りましたが、このブログでは、地元荻窪3丁目を中心とした旧西田町または旧田端村西部のどうでもいい話をつれづれなるままに書きます。更新頻度は「気まぐれ」です。

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