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今年の「#文学」
kenokano.blogspot.com
CPTSD(複雑性PTSD) について書かなくてはならなくなった。このところいろいろ予定が重なっている。 CPTSDの概念は Judith Herman に由来することは知られている。彼女は1992年の有名な著書「トラウマと回復」で「長期にわたる繰り返されるトラウマに続く障害にはそのための診断が必要である」と書いてある。(The syndrome that follows upon prolonged repeated trauma needs its own name. I propose to call it complex PTSD.) このCPTSDを正式な診断名としてDSMに入れるかについては、それ以来実にいろいろ議論されてきた。Van der Kolk さんはHerman さんとは盟友であり、彼自身はDESNOS(他に分類されない、極度のストレス障害)を提唱していたが、その趣旨
VDKさんの本がなかなか届かない。それをもとに依頼論文を書こうと思っていたのに。アマゾンなのになあ。来ない時は来ないんだ。そこで時間つなぎにいろいろ妄想を膨らませよう。DIDの成立の理論で少し脈がありそうなのが、1997年にパットナムが言い出した、いわゆる「離散行動モデルdiscrete behavioral model」 というやつだ。これをForrest 先生という人が数年を経て、眼窩前頭皮質 orbitofrontal cortex との絡みで論じた論文がある。(Forrest, K (2001) Toward an Etiology of Dissociative Identity Disorder: A Neurodevelopmental Approach. Consciousness and Cognition 10;259-293) といってもかなり前の論文だけどね。 簡単
さてここで精神療法を「精神分析的」と「それ以外」、と言う大雑把なわけ方をしましょう。こんな分類は意味がない、とおっしゃる方もいるかもしれない。しかしこの会場には少ないでしょう。なぜならここにいらっしゃる皆さんは精神分析の世界をお選びになっていると言うことだとおもいます。すると皆さんはどこかで正反対の二つのうちのどちらかを混乱せずに無事に選んでいらっしゃるわけです。ある方は、最初から精神療法とは精神分析的なものであるということを、批判する余裕もなく伝えられ、そのまま受け入れられたのかもしれません。またあるいは最初は混乱し、何かの理由でこちらのほうを選び、おそらくそうすることで、もうあまり矛盾した話を聞かなくてすむのではないだろうと安心なさったのかもしれませんね。きっと頼りになる先輩に相談して、最終的に精神分析を選んだのかもしれません。でもそこの中でやはり同じことが起きるわけです。無意識を重ん
精神療法における倫理を考える上で一つの参考になるのが、米国心理学会の動きである。米国においては精神分析に先駆けて1950年代にはethics code 倫理原則を作成する動きが生じていた。 これは第二次大戦で臨床に多く携わった結果として生じたことである。その結果であった倫理上のジレンマがその動因となった。現在では9回改訂されているという。 最近の倫理原則の設定には、治療原則に盲目的に従うことに対する戒めが加わっているのが興味深い。例えば米国心理協会の倫理則のIntroduction and Applicability には、 (1) allow professional judgment on the part of psychologists,専門家としての判断を許容する。(2) eliminate injustice or inequality that would occur wit
解離の治療論は、脳科学的な知見を得ることでどのように変わるのであろうか?これは臨床家にとっても重要な問題である。精神科の臨床医としての私はこの問題に大いに興味があるが、もちろん私自身が脳の研究を行なうという意味ではない。一人の人間が研究と臨床の両方に取り組むのにはあまりに時間が足りないのである。また私よりはるかに能力と熱意と時間とを持つ多くの研究者による脳の知見は続々と得られている。私にできるのは、優れた脳の研究者を導き手にしてそれを学び、一般の臨床家に伝えることである。 私が現在その導き手として仰ぎ見る何人かの研究者の一人として、アラン・ショアAllan Schore博士がいる。実は彼は、研究と臨床の両方を行うことは普通はできない、といった先ほどの言葉の例外である。彼はよほど「ふつう」でない力を持っていると考えざるを得ない。 ショア先生は大変な碩学である。彼は脳と臨床を結び付けて論じると
ここで虚心坦懐に、私たちがいたっている脳についての知識を総括してみよう。私たちは脳の大まかな構造をすでに知っている。それは大脳皮質と皮質下の様々な領域、つまり大脳辺縁系といわれる部分、そして脳幹、脊髄である。それぞれが何をやっているのかは詳しくはわかっていないが、いくつかのあらすじ、ないしはストーリーラインを知っている。 ① 情報処理をするシステム 大脳皮質は身体の五感を通して得られる。それらは視床という部位で統合され、前頭葉や辺縁系により情緒的な処理が行われる。この部分の仕組みはジョーゼフ・ルドゥの業績だ。そしてそれらの情報の一部は快感中枢を通して、快、不快の味付けが行われる。この情報処理というシステムが、意識の成立と不可分であるという主張をしているのが、ジュリオ・トノーニの統合情報理論である。そしてそこからあたかも幻想のように析出してくる意識の性質を説いているのが、前野隆の「受動意識仮
岡野憲一郎のブログ:気弱な精神科医 Ken Okano. A Blog of an insecure psychiatrist パトナム先生の教科書、PDFで持っていた! それと私が2009年に編集したリュミエール「解離性障害」も。早速情報を追加する。 解離性障害における幻聴に関しては、諸家が様々に論じている。Putnam (1989) は解離性幻聴の特徴として以下をあげている。それは患者をけなしたり、自己破壊的な行動を起こすよう命令する。あるいは患者を第三者的に語り、思考や行動にコメントしたり、自分たちの間で論争をしたりする。あるいは小さい子供や幼児の泣き声を聞くが、時には指示やアドバイスを与える。また頭の内部ではっきり聞こえ、その意味で「二次過程」的であり、統合失調症に特有のあいまいで「一次過程」的な幻聴と区別されると述べる。またDIDにおける幻視は幻覚と錯覚の混ざったものであり、しば
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