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2006.07.02

「国家の品格」を読んで

旅行中に藤原正彦著「国家の品格」を読んだ。
外国でこの書を読むことには、意義があったと思う。

アメリカは戦時中、ハワイの空港では靴まで脱がされた。
鉛の袋に入れた私の使い捨てカメラは、どこかに持っていかれて検査された。
帽子をかぶってゲートをくぐった同行の女性はその帽子が引っかかって、身体検査をされていた。
自由の国アメリカは、今や、その自由をかなぐり捨てて、わが身を護らざるを得ない状況になっている。
そんな経験の後で読んだのも、何かの縁なのだろう。
 
 

で、「国家の品格」を読んでの感じたことはといえば・・・・

私はこの今の日本の状況は、明治以来の戦争続きによる戦争への嫌悪感とそれを進めた権力者への不信が、アメリカの押し付けた民主主義を歓待したところから始まるのだと思う。

確かに日本は品格のある国だったかもしれないが、階級がしっかりと定められた国でもあった。
明治維新で士農工商は崩れても、誰もが機会均等、願えば適うという国ではなかった。
実際、第二次大戦敗戦までは、一握りの権力者がこの国を牛耳っていた。
多くの農民は小作人だったし、商人といえども丁稚から始めたのは江戸時代から変わらなかった。
そして、政治の中枢にいたのは貴族たちだった。

そのような社会では、見知らぬ誰かに出会ったときに、相手の階級を探るということがまず重要で、そのために誰に対しても、礼儀を持って対処する必要があった。
つまり、彼らの品格とは、格差社会を生きるための処世術だったのだ。

しかし、敗戦によって、貴族はその特権を失い(のように庶民には思えた)、神ですら一人間になった。

それは、社会の底辺で常に虐げられているという実感をを持っていた人間たちには喜んで迎えられたのではないか?
アメリカが押し付けた憲法を、喜んで受け入れ、さらに拡大解釈した国民がいたとしてもおかしくは無い。
現に天皇の神格を否定したのはアメリカ民主主義だが、それを推し進めたのは日教組(社会主義)に牛耳られている教育だった。
今でも社会主義者たちは、最大の敵であるはずのアメリカが押し付けた憲法を護ろうと努力している。


これは江戸時代以降の階級社会の終焉であり、決して、アメリカによる日本の品格の破壊とは言えない。
日本の旧来の「品格」は外からは美しく見えたかもしれないが、それを押し付けられた人間には苦痛でしかなかったのだ。


箍(たが)を外された日本人は、圧倒的なアメリカとの国力の差(国民の生活の差)を知った。

私は戦後が終わってから生まれた人間だが、子供時代のテレビ番組といえば、「奥様は魔女」を代表とするアメリカのホームドラマ、「宇宙家族ロビンソン」などのスペース・オペラなど、どれも、自分の生活の中では考えられない話だった。

奥様はさほど豪邸とはいえないが、小奇麗な郊外の一戸建てに住んでいる。
彼女は、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、などハイテク機器(?)に囲まれ、優雅な生活をしている。
ダーリンはスーツを着て自家用車で出勤し、会社では書類を触っているだけ。
そんな生活を子供時代に刷り込まれた我々世代は、今、ほとんどそれと変わらない生活をしている。
つまり、憧れを手に入れたのだ。

だが、子供たちは違う。
彼らはその過程の記憶を持たない。
棚からぼた餅のように手に入れた「自由」の「意味と義務」を語る言葉を、戦後の世代は持たなかった。
自由の意味や意義を教えるべき子供たちを野放図な自由で育ててしまった。

今の日本は、「幾層ものまるで世界観が違う人員」で構成されているが、その世代を繋ぐ言葉が失われている。

初めに「言葉ありき」
「国家の品格」の著者も述べておられるが、まず、日本語を日本人の共通の言葉にするべく努力することが大事なのだ。
「心」は言葉で規定され、外と繋がるのだから。

文明は花開いては消えていく。
ジャングルの中、砂漠の中に、素晴らしい建造物を残して・・・
そして、その文明とは程遠い生活をしている民が、その遺跡の周りに住んでいる。
それは、彼らが世代間の言葉を繋ぐことが出来なかったからだと私は思う。

文明の享受者はその成立のために必要な知識を受け継ぐ努力を怠る。
今の日本はその道を進もうとしている。

まず、物事の成り立ちを、この国の言葉で次の世代に繋ぐことが大事なのだ。

この国の言葉にはこの国の美しさが詰まっている。
多くの先人たちの研ぎ澄まされた感覚が篭っている。


今、自らが捨ててしまった旧来の品格ではなく、新しい「国家の品格」を構築する時期が来ているのだと思う。
それに気づいた人々が、次第に声を上げている。
この「国家の品格」が昭和40年代に出版されただろうか?

日本国民は無意識に自分たちの依って立つ場所を求めている。
だから、ホリエモンのように、派手派手しく現れる何かをしそうな人物に期待してしまう。
実は誰かに頼らずとも、その改革は自分ひとりから出来るものだということに気づかない

周りの誰をも尊重し、大事に扱う。
そんな単純なことでよいのだ。
すべての国民がそれに気づけば、その総和の国家は素晴らしい品格を備える。
なのに、誰かに変えてもらうことしか望まないのは、棚からぼた餅の平和を手に入れてしまった国民の悲劇なのかもしれない。


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