私の愛は増すばかり
朝から隣のおじいさんと話した。
どうも、うちが建つ前、ここは山だったらしい。
見晴らしが良くて子供たちの遊び場だったそうだ。
同じ敷地に大きな建物が建っていたらしい。
そこに今は20数軒が建っているのだから、かなり広い敷地だ。
この土地の以前の持ち主は、やはり亡くなっていた。
地上げに合い、暴力団に建っていた建物を占拠され、大変な思いをなさったようだ。
そう言ういわく付きの土地だと、私達は知らなかった。
私達がこの土地を見に来たときには、もう、土地は分割され、10軒以上が建っている住宅地だったのだから・・・
岐阜の方が言われたことは、間違っていなかった。
(そうそう、岐阜の方は、最近、姉とであったときに、「妹さんはもう大丈夫よ」と言ってくださったらしい。)
長い年月、何を思ってその人の魂はここにいたのだろう?
私が岐阜の方に会うのを待っていたのだと、岐阜の方は言われたが・・・
親族の方はきちんと葬儀をなさり、祀られているのだろうに、それでは晴れない怨念があったのだろう。
後から住んだ私達に、どんなに悲しく辛い思いでここを出て行くことになったのか、訴えたかったのかもしれない。
死とは何か?
死後、自分はどうしたいのか?
現代は、死んで仏様になって極楽で暮らすと単純に信じている時代ではない。
だからこそ、生きている間に自分の魂の行く場所を考えておかなければ、死の時点での迷いや悩みや怨みに囚われて、どこにも行けなくなってしまう。
そのことは、母や、この地にいた人が示している。
日本人はなぜか死後の世界を語らないけれど、死後の世界が無いのならば、すべての宗教は存在意義が無い。
死後の世界を信じるがゆえに、魂の不滅を信じるがゆえに、宗教は成り立つのだ。
今の自分が死んでも終わらない。
死んだ後に、今どう生きているかが問われると思えば、何かを為さねばと言う気持ちになる。
自殺しても、リセットできないのだと知れば、何とかこの状況から抜け出そうとし始める。
死について語るのは、本当に大事なことだと思う。
ただ、自殺の方法は、絶対に語ってはいけない。
昔、窓の向こうに雪が舞う日、自習の教室で、ある人が語った自殺の方法。
その方法どおりに、3年後、一緒にそれを聞いた友人は自殺した。
彼女が死に囚われたのは、あの暖房の効いた部屋で、あの話を聞いた瞬間だったのではと、私は今でも後悔せずにいられない。
写真は南天の花。
なかなか可憐な花です。
この花がやがてあの真っ赤な南天の実に。
花言葉は「私の愛は増すばかり」ですって!
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