「最高の仕事」をしたと思った瞬間から、それは「最高」ではなくなっている。
2007年 08月 14日
スポーツで、「この一球にすべてをかける」「一球入魂」みたいなことを言ったりする。たとえば、ピッチャだったら、その一球にすべてをかけ、魂を込めて投げてしまったら、その一球で終わりではないか。誰も打てない剛速球を投げたとしても、ワン・ストライクしか取れない。その一球でゲームが終わるのであれば、やる価値があるかもしれないが、しかしその場合、そこに至るまでは、入魂せずに投げてこなければならない。「いや、一球一球すべてに魂を込めるのだ」と言われるかもしれないが、そんなに沢山魂があるのか? けっこう魂を安売りしているな、と思うわけである。少し前に、自分の編集者生活で「最高」の本を作った、と思えたときがありました。
この一作に自分の人生のすべてをかけたい、なんて真剣に考えたら、いつまで経っても作品は完成しない。もし完成したとしたら、それはその人間がそれ以上成長してないことの証明でもある。作品を完成させるごとに成長するわけだから、完成したとたんに、全力をかけたものではなくなるのが道理なのだ。
我ながら大げさですが、そこまでその本の編集には力を入れ、その時点ではまったく悔いのないものができました(しかも、売れ行き好調で順調に版を重ねています)。
けれど、時間がたつと思うのですね。ああ、今度はあれがスタート地点なんだなぁと。
あのときの僕の力では、たしかにあれが「最高」だったんでしょう。
でも、その本をつくったからには、その本をさらに超えるものを作らなければいけないし、また作れるはずだとも思うのです。
あの本の中でできたことは、(もちろんテーマにもよりますが)違う本のなかでも再現できる。
あの本でやれなかったことは、これからの本づくりで試すことができる。
「過去の最高の仕事」は、「未来の最高の仕事」を支える土台になります。
その土台をどんどん積み上げていけば、もっともっと高いところへいけるはず。
もちろん、編集という仕事の特性として、テーマが変われば本づくりも変わるし、出す本が毎回毎回、右肩上がりで売れていくというわけでもありません。
でも、「最高の仕事」をした経験は自分の中に貯金され、必要な時々に、引き落とすことができます。
最新刊こそ最高傑作でありたいのは、著者も編集者もきっと同じでしょう。
現実的に、それはかなり大変なことではありますが、そういう目標をもって働けるのも、悪い気分ではありません。