特定失踪者問題調査会特別調査班
今回は21日のYouTubeライブに合わせ、兵庫県内で生起した密出入国事件の中で昭和49(1974)年9月に城崎郡・切浜海岸(現・豊岡市)から密出国しようとしていた工作員と、その工作員を北朝鮮本国から迎えに来た案内員が逮捕された「切浜事件」について紹介します。
政府認定拉致被害者の中で兵庫県関連は有本恵子さんと田中実さんですが、田中さんの情報と共に生存情報を北朝鮮が日本政府に提供していた特定失踪者金田竜光さんを始め、調査会と警察発表の特定失踪者は約30名にのぼります。
兵庫県の日本海側では昭和34(1959)年7月から昭和55(1980)年6月までの21年間で北朝鮮による工作員の密出入国や工作船と思われる不審船事案が、明らかになっているだけで16件にも及んでいます。昭和44(1969)年12月27日付の読売新聞記事によれば日本海沿岸に不審船、いわゆる「白い高速艇」とか「日本海特急」と呼ばれた北朝鮮の工作船が現れ始めたのは昭和43(1968)年の春頃からとされています。この年は石川県羽咋郡志賀町の赤崎海岸沖や同県輪島市の沖合に現れたほか、11月に兵庫県美方郡の浜坂町(現・新温泉町)の沖合にも現れました。
翌昭和44(1969)年3月には青森県の深浦町、同月下旬と5月には山形県の鶴岡市沖、7月には兵庫県城崎郡の香住町(現・美方郡香美町)沖、10月には能登半島沖、11月には兵庫県城崎郡竹野町(現・豊岡市)沖、同月中旬には青森県西津軽郡の岩崎村(現・西津軽郡深浦町)沖など発見されただけで計7回も出現したとされています。
言うまでもなくこれは発見されたものだけです。もしこれが北朝鮮の派遣した工作船の全てないし高い比率であれば、北朝鮮はその後工作船を送ることを躊躇するでしょう。その後も続いたということは、発見されたものがごく一部であり、大部分の密出入国は成功したということだと思われます。
さて、切浜事件ですが、逮捕された工作員・李庸煥(当時22歳)は、日本で生まれ育った在日韓国人で、長崎県下の高校を卒業後、埼玉県所在の自動車整備技術学校に進学しました。昭和45(1970)年の7月頃、北朝鮮から派遣された工作員の李起宅に獲得され昭和47(1972)年4月、李起宅とともに秋田県象潟町(現・にかほ市)の海岸から密出国し、北朝鮮で2年間にわたり革命理論、暗号解読要領等のスパイ訓練を受けた後、韓国から来日する船員、技術修習生、密入国者等の獲得工作などの任務を指示され昭和49(1974)年5月、兵庫県の某海岸から密入国しました。
密入国後、李は大阪市内を拠点に北朝鮮からの暗号指令を受けて活動していましたが、わずか4カ月後の9月、北朝鮮側への帰還を指示されます。この間に何か失策があったのか詳細は不明ですが2年間もの間、スパイ教育や訓練を行い、いわば準備万端で日本に送り返したのでしょうに、わずか4カ月で帰還命令を出したのは何だったのでしょう。
ともかく、帰還の指示に従い李は兵庫県の城崎郡の切浜海岸に向かいました。一方、李を帯同して北朝鮮に連れて帰る任務を受けた案内員・咸国上(当時28歳)は9月19日、船外機付きのゴムボートで但馬海岸の切浜に上陸したところを兵庫県警員によって逮捕されました。
李については咸国上逮捕の翌日に逮捕された模様ですが、逮捕時の状況に関する報道記事が見つからないため詳細は不明です。逮捕された案内員・咸国上は「探索船実習生」と身分を偽っていたようですが、逮捕から1週間後の新聞記事には李とともに「朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の工作員と断定した」と記載がありますから、身分は暴露されたのでしょう。
咸国上については昭和50(1975)年6月19日、神戸地方裁判所において、出入国管理令違反で懲役1年、執行猶予3年の判決を受け、李庸煥については翌昭和51(1976)年2月16日、神戸地方裁判所において、出入国管理令違反で懲役1年2月の判決を受けたとなっています。
以上が「切浜事件」に関する内容ですが、咸国上が逮捕されたのはたぶん夜間だったでしょう。兵庫県警は9月19日の夜間に「密出国」があること、密出国者を誰かが「迎えに来ること」を事前に知って捜査員を張り込ませていたと思われますが、咸国上が船外機付きのゴムボートで上陸してきたということは、沖合には当然、工作母船が待機していたと思われます。この母船(不審船)については報道や「切浜事件」を扱った書籍にも何も書かれていません。
治安当局が事前に無線などのやり取りを傍受して察知していたのなら当然工作船が来ることも分かっていたはずですから、海上保安庁などと協力し合って補足できたのではないかと推測します。なぜそれが明らかになっていないのかは謎ですが、YouTubeライブでは可能な限りの表に出ていなかった情報を明らかにする予定です。ぜひご覧下さい。
なお、本稿については『戦後の外事事件』(外事事件研究会編著・東京法令出版)・『対日謀略白書』(恵谷治著・小学館)、報道記事など参考にしました。
(以下の部分はこのブログのみの掲載です)
◆◆◆ 参考資料 ◆◆◆
1,新聞記事
■昭和44(1969)年12月27日読売新聞記事「白い快速スパイ船を終え-北朝鮮工作員を運ぶ-巡視船を振り切り出没」
さる11日に、大韓航空YS11機乗っ取り事件が起こるなど、依然として朝鮮半島の緊張が続いているが、わが国に向けて日本海に出没する「北朝鮮工作船」の動きが最近、いっそう活発になっていることが確認され、警察庁警備局は26日、同沿岸の各道府県警に対し、あらためて警戒体制の強化を指示した。
この工作船は、白い船体に2本マスト、漁船を装っているものの、性能は抜群で、飛行機のエンジンにスクリュー2-3基を備え、時速40ノット(約70キロ)以上といわれる高速ぶり。
治安当局の関係者の間では“日本海特急船”の異名をとっている。
在日朝鮮人を迎えに来て、北朝鮮でスパイ教育のうえ、再び日本経由で韓国内の地下活動に潜入させるのが同船の目的と当局は見ているが、海上保安庁の巡視船もたちまち振り切られてしまう高速のため、なお高速船のくわしい実態がつかめないでいる。
◆“日本海特急船”の異名も
警察庁の調べによると、問題の白い特急船が日本海沿岸に出没し始めたのは昨年春ごろからで、同年5月石川・能登半島赤崎沖、6月同輪島沖、11月兵庫・浜坂町沖の3回を数えた。
だが、今年に入って、まず3月16日に青森・深浦町沖、同24日山形・鶴岡市沖で確認されたのをはじめ、その動きは目立って活発になった。
さる5月再び鶴岡市沖、7月兵庫・香住町沖、10月能登半島門前町沖と続き、11月になると11日に兵庫・竹野町沖に現れたあと、同13日には青森・岩崎村沖と、年間を通じて7回も確認された。
これら一連の工作船の特徴は、白い船体のほか①船尾甲板が角形で、2本マストにアンテナをつけている②国籍、船籍番号を明示していない③30-40トンぐらいで鮮魚運搬船に見える④この種の船にしては非常に高速であるーなど。
夜間、船灯を消したまま500メートル前後の沖合に接近してくるがエンジン音が普通の漁船とはまったく違っており、海上保安庁の巡視艇ではとても追跡しきれない。
先月末から今月初めにかけて、青森、秋田両県警が検挙した工作員グループ8人は、取り調べの結果、この特急船で潜入したことが分かったが、同時に、このスパイ航路作戦の一部が明らかになった。
それによると、まず北朝鮮に送り返す養成員は、正規の外国人登録証を持つ在日朝鮮人をはじめ韓国からの留学・研修生、密入国者の3グループから適格者が選ばれる。
この養成員は北朝鮮からのラジオ放送に仕組まれている暗号によって、特急船の到着日時、場所を知り、海岸に待機する。
特急船が近づくと火をたくなどして合図、降ろされたゴムボートを使って乗船、北朝鮮に向かうのが密出国までの段取り。
北朝鮮での教育機関は3か月、再び特急船で日本に密入国する。
その後、正規の出国ルートで韓国に入り、また、もともと密入国者の場合は、わざと出入国管理事務所に自首し、韓国への強制送還の形をとって、韓国に潜入するのだという。
現在、わが国内でこういった養成員の物色や韓国への送り込みなどに当たっている北朝鮮工作員は約150人にのぼるとみられている。
これまで北朝鮮工作員の活動は、日米韓3国の外交関係、在日米軍・自衛隊の軍事情報、それに産業経済、科学技術情報の収集が中心とみられていた。
だが、最近の「南北統一は70年代の前半でー」といった北朝鮮側の主張を反映して工作活動も方向を転換、工作員を韓国内に送り込み、治安かく乱などをねらう積極策が、特急船の登場につながったと当局は見ている。
経由地に日本が選ばれたウラには、韓国側が国境警備を厳重にしていることや、活発な日韓交流の利用といった判断も働いていると分析している。
いずれにせよ、実態のつかみにくい工作員の摘発には、密入国時に抑える“水際作戦”が有力な端緒となるわけで、警察庁では海上保安庁とも協力、ナゾの特急船を追って、日本海の波間に目を光らせる体制の強化を図る方針。
■昭和49(1974)年9月26日読売新聞記事「北朝鮮工作員と断定-但馬海岸の密出入国」
【神戸】
さる19日、兵庫県但馬海岸で起きた密出入国事件を捜査中の兵庫県警外事課は25日午後、既に逮捕した大阪市阿倍野区西田辺1、李庸煥(22)、朝鮮咸鏡北道羅津市、自称探索船実習生・咸国上(28)の2人を「朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の工作員と断定した」と発表した。
2,書籍
• 東京法令出版戦後の外事事件
■切浜事件 1974(昭和49)年9月19日 兵庫県警察検挙
この事件は、北朝鮮工作員 Aが、北朝鮮に密出国してスパイ訓練を受けていったん密入国した後、北朝鮮工作員 咸国上(当時28歳)の案内で再び兵庫県下の海岸から北朝鮮に密出国しようとしていたスパイ事件である。
Aは、日本で生まれ、長崎県下の高校を卒業した在日韓国人であるが、埼玉県下の自動車整備技術学校に入校中の昭和45年7月ころ、北朝鮮から派遣された工作員Bに獲得され、昭和47年4月、Bとともに秋田県下の海岸から北朝鮮に密出国し、約2年間にわたり、革命理論、暗号解読要領等スパイ訓練を受け、韓国から来日する船員、技術修習生、密入国者等の獲得工作などの任務を指示され、昭和49年5月、兵庫県下の海岸から密入国した。
Aは、北朝鮮からの暗号指令を受けて、活動していたが、昭和49年9月19日、帰還指令を受けて兵庫県切浜海岸から密出国しようとしていた。
一方、咸国上は、
o 北朝鮮工作員の日本送り込み
o 獲得された工作員の目本から北朝鮮への密出国
の案内を任務とし、昭和49年9月19日、Aを北朝鮮に密出国させるため、船外教付ゴムボートで兵庫県切浜海岸から密入国した。
兵庫県警察は、昭和49年9月19日、兵庫県切浜海岸において、密入国直後咸国土と密出国しようとしていたAを逮捕し、乱数表、暗号表等を押収した。
Aは、昭和51年2月16日、神戸地方裁判所において、出入国管現今違反で懲役1年2月の判決を受け、咸国上は、昭和50年6月19日、神戸地方裁判所において、出入国管理令違反で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。
• 恵谷修「対日謀略白書」
■切浜事件(城崎事件)1974(昭和49)年9月19日
李斗煥(仮名・在日韓国人)は長崎県の高校を卒業したのち、埼玉県の自動車整備技術学校に在学中だった1970(昭和45)年7月、北朝鮮から派遣された工作員の李起宅に包摂され、72(昭和47)年4月、李起宅とともに秋田県の海岸から密出国し、北朝鮮で2年間のスパイ教育・訓練を受けた。
74(昭和49)年5月、兵庫県の海岸から密入国した李斗煥は、韓国人船員や技術研修生、密入国者などを工作員として獲得する活動をしていたが、北朝鮮から復帰命令を受け、兵庫県の切浜海岸から再度密出国するため工作船を待っていた。
帯同復帰が任務の案内員である咸国上(当時28歳)は、船外機付きのゴムボートで切浜海岸から上陸したところを逮捕され、翌日には李斗煥も逮捕された。
咸国上は出入国管理令違反で、懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた(神戸地裁、75(昭和50)年6月19日)。
咸国上は75(昭和50)年に北朝鮮に帰国した。
李斗煥は出入国管理令違反で、懲役1年2カ月の判決を受けた(神戸地裁、76(昭和51)年2月16日)。
3,兵庫県下の事件概要及び失踪者等
■昭和34(1959)年7月29日 「浜坂事件」(S35.9.29兵庫県警検挙)の河上崇弘こと金俊英が兵庫県美方郡浜坂町の浜坂港から密入国。
■昭和35(1960)年9月26日 「浜坂事件」(S35.9.29兵庫県警検挙)の河上崇弘こと金俊英が工作員として獲得した在日朝鮮人Aとともに兵庫県浜坂町付近の海岸から北朝鮮に向けて密出国しようとしたが、迎えの工作船と接触できず、東京に向かう。
■昭和35(1960)年9月29日 浜坂事件」(S35.9.29兵庫県警検挙)の河上崇弘こと金俊英(当時44歳)が兵庫県の浜坂町の海岸から密出国に失敗し、在日朝鮮人Aとともに東京に帰る途中で兵庫県警に逮捕される。
〇昭和35(1960)年11月3日 特定失踪者・尾崎隆生さんが神戸市の自宅から外出して失踪
〇昭和37(1962)年1月 特定失踪者・金姫順(金村英子)さんが神戸市の自宅を出た後、新潟県もしくは富山県で失踪
■昭和37(1962)年10月16日 「寝屋川事件」(S39.10.31大阪府警検挙)の清水勇こと朴基華が兵庫県城崎郡香住町の余部海岸から密入国。 事後、大阪府下の会社社長Aを獲得後2度にわたって日本人女性と同居しながら日本人女性の姓を使って活動する。
■昭和38(1963)年7月中旬 「長田事件」(S40.8.30兵庫県警検挙)の山本一郎こと崔俊洽が京都府竹野郡丹後町の経ヶ岬から密入国。事後、姪にあたる神戸市内居住の在日朝鮮人宅を拠点に「土工」として働きながら神戸港や佐世保港における米海軍航空母艦や潜水艦の入港状況、造船所などの調査、自衛隊航空基地の調査などの活動を行う。
■昭和39(1964)年9月 工作員・Kが神戸港から密入国
■昭和40(1965)年1月上旬 工作員・Tが神戸港から密入国
■昭和41(1966)年4月中旬 工作員・Rが美方郡・浜坂町の海岸から密出国を図る
〇昭和41(1966)年5月 警察発表・津曲俊直さんが神戸市内の会社に退職を申し出た後失踪
〇昭和42(1967)年5月21日 特定失踪者・非公開男性が社員旅行先の赤穂市で失踪
■昭和43(1968)年11月 美方郡・浜坂町沖に不審船(白い特急船)が現れる(1969.12.27読売新聞「白い快速スパイ船を追え」記事抜粋
〇昭和44(1969)年1月20日 警察発表・牧園典夫さんが尼崎市の勤務先寮から失踪
■昭和44(1969)年7月 城崎郡・香住町沖に不審船(白い特急船)が現れる(1969.12.27読売新聞「白い快速スパイ船を追え」記事抜粋
〇昭和44(1969)年8月2日 特定失踪者・仲村克己さんが西宮市の間借り先から失踪
■昭和44(1969)年11月11日 城崎郡・竹野町沖に不審船(白い特急船)が現れる(1969.12.27読売新聞「白い快速スパイ船を追え」記事抜粋
〇昭和45(1970)年2月 特定失踪者・古川文夫さんが尼崎市の自宅から北陸方面に出かけ失踪
■昭和45(1970)年4月14日 「兵庫県城崎郡竹野町切浜沖不審船」事案。 巡視船が兵庫県城崎郡竹野町(猫崎沖合)切浜沖約500mにて無灯火の不審船を発見、停船を命じると巡視艇「あさぎり」に対し銃撃。追跡するも停船させるに至らず。
〇昭和45(1970)年9月5日 警察発表・下寺弘さんが尼崎市内の会社を退職した後失踪
〇昭和46(1971)年4月1日 特定失踪者・非公開男性が神戸市から失踪
〇昭和47(1972)年 警察発表・浜野(三浦)洋一さんが伊丹市の勤務先から失踪
〇昭和48(1973)年3月 警察発表・山下千恵子さんがJR姫路駅で母親と別れた後失踪
■昭和48(1973)年4月 「切浜事件」(S49.9.19兵庫県警検挙)の工作員Aが北朝鮮で約2年間のスパイ訓練を終えて兵庫県下の海岸から密入国
〇昭和49(1974)年2月 特定失踪者・島脇文内さんが神戸市垂水区の会社寮から外出した後失踪
■昭和49(1974)年5月 「切浜(城崎)事件」(S49.9.19兵庫県警検挙)の北朝鮮工作員・李庸煥が兵庫県城崎郡の切浜海岸から密入国。 事後、北朝鮮からの暗号指令を受けて活動する。
〇昭和49(1974)年6月14日 特定失踪者(拉致濃厚)・清崎公正さんが尼崎市の自宅から出勤途中に失踪
■昭和49(1974)年9月19日 城崎郡・切浜海岸から工作員・李庸煥(22)が密出国を図り、李を迎えに来た案内員・咸国上(28)の2人が検挙される(切浜事件)
〇昭和49(1974)年9月27日 特定失踪者・竹屋恵美子さんが加古川市の自宅を出た後失踪
〇昭和50(1975)年4月4日 特定失踪者(拉致濃厚)・萩本喜彦さんが高砂市の自宅から出勤途中に失踪
〇昭和50(1975)年9月 警察発表・桑村一二三さん(姫路市)が勤務先を出た後失踪
〇昭和52(1977)年3月 警察発表・懸樋友重さんが美方郡浜坂町(現:新温泉町)の自宅を早朝出たまま、失踪
〇昭和53(1978)年6月 政府認定・田中実さん(神戸市東灘区)が勤務先であった神戸市東灘区の中華料理店「来大」の店主・韓龍大に騙されてオーストリア・ウィーンに行き、そこから北朝鮮に拉致された。
〇昭和54(1979)年3月 警察発表・稲田周二さん(明石市)が勤務先から帰宅途中に失踪
〇昭和54(1979)年3月15日 特定失踪者・非公開男性が外国に技術指導で派遣される前夜、壮行会後の帰り道で失踪
〇昭和54(1979)年10月 警察発表・濱野喬一さん(神戸市)が熊本市内で兄に「福岡に行く」と言って別れた後、失踪
〇昭和54(1979)年11月 金田龍光さん(神戸市東灘区)が同僚だった拉致被害者・田中実さん(差出人名)からの国際郵便を受け取り、その後家族に「今から東京に行く」と電話をかけた後失踪、2014年に北朝鮮側から非公式に田中さんと金田さんが平壌で生存している情報が日本政府にもたらされるが、日本政府は2019年末まで公開せず。
■昭和55(1980)年6月11日 「兵庫県城崎郡香住町余部埼沖不審船」事案。 巡視船が兵庫県城崎郡香住町余部埼沖約12.5海里(約23km)にて白灯を点じた漁船型の不審船及び余部埼沖約9.4海里(約17km)にて無灯火小型船を発見、巡視船艇・航空機により追跡するも当該不審船はレーダー映像上で無灯火小型船と重なった後、逃走。
■昭和55(1980)年6月12日 「磯の松島事件」(S55.6.12兵庫県警検挙)の兵庫県出生の北朝鮮工作員黄博及び広島県出生の在日朝鮮人(北朝鮮工作員)「岩本清こと李基吾」が北朝鮮でスパイ訓練を受けるため在日朝鮮人(北朝鮮工作員)「須藤博こと黄博」の案内で兵庫県城崎郡香住町の香住海岸から北朝鮮に向けて密出国しようとして工作船を待っていたところを兵庫県警によって逮捕された。
〇昭和55(1980)年12月5日 特定失踪者・非公開女性(洲本市)が失踪
〇昭和56(1981)年1月 警察発表・住本豊成さん(姫路市)が車で自宅を出たまま失踪
〇昭和58(1983)年7月頃 有本恵子さん(神戸市)が欧州で拉致される
〇昭和59(1984)年7月21日 特定失踪者・広田公一さんが尼崎市の自宅から鳥取県の大山に車で向かい車を残して失踪
〇昭和60(1985)年12月4日 特定失踪者(拉致濃厚)・秋田美輪さんが神戸市の大学正門前で友人と別れた後失踪、後日弁天浜で美輪さんのバッグが発見される
〇昭和62(1987)年3月15日 特定失踪者拉致濃厚)・西安義行さん(氷上郡)が京都方面へドライブ中、JR綾部駅前で友人と別れた後失踪
〇昭和62(1987)年11月 警察発表・秋教元さん(尼崎市)が知人と居酒屋で飲食し、店を出た後失踪
〇平成3(1991)年9月22日 特定失踪者(拉致濃厚)・森本規容子さんが西宮市の自宅から外出した後失踪
〇平成9(1997)年8月18日 特定失踪者(拉致濃厚)・加藤小百合さんが神戸市の自宅から外出した後失踪
〇平成15(2003)年10月5日 特定失踪者・高見到さんが尼崎市のアパートから失踪
〇平成16(2004)年4月24日 特定失踪者・非公開男性が神戸市の自宅からバイクで外出後失踪、後日バイクが河原で発見される。