【調査会NEWS1433】(25.11.14)
以下第18回1万キロ現地調査(山口)の概略を報告します。あらためてご協力いただいた皆様に御礼申し上げます。
1 現地調査の目的
(1)現地調査により個々の事件及び北朝鮮による拉致・工作活動への認識を深める。
(2)広報啓発活動を通し今後の工作活動を抑止する。
(3)現地で特定失踪者家族・政府認定者家族他関係者から北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」のメッセージを収録する。
2 参加者
調査会:荒木・岡田・村尾・杉野・曽田・恵谷 計6名
特定失踪者家族:西村京子さん 父・西村 敏さん、母・西村育代さん。
国広富子さん妹・辻口文子さん。 計2家族 3名
(当初安村文夫さんのご家族も参加の予定だったが体調を崩し参加できなかった)
ゲスト参加者:李相哲(イ・サンチョル)氏 元朝鮮労働党作戦部海上処・元山連絡所所属戦闘員
地元支援者(救う会山口・UAゼンセン山口県支部の皆さん)
3 日程
平成25年11月8日(金)〜11月10日(日)
■ 11月8日(金)
〇 13:30 萩石見空港スタート
〇 14:30 山陰線宇田郷駅(支援者等と合流)
〇 阿武郡阿武町惣郷:国道191号線沿い駐車場にて河田君江さん失踪関連現場調査
〇 萩市 菊ヶ浜海岸地区:工作員尹孝同の脱出個所調査
〇 長門市 青海島:李相哲元工作員上陸地点調査
(青海島シーサイドホテル泊)
■ 11月9日(土)
〇 09:00 青海島シーサイドホテルスタート
〇 青海島:李相哲元工作員上陸関連現場調査・韓光煕設定接線ポイント(花津浦)調査
○ 長門市:只の浜海岸工作員潜入地点調査
〇 山口市:西村京子さん実家にて御両親から聞取り調査
〇 山口市:西村三男さん失踪関連現場調査
(山口市内泊)
■ 11月10日(日)
〇 09:00スタート
〇 山口市湯田温泉:西村京子さん失踪関連現場調査
〇 宇部市恩田町:国広富子さん失踪関連現場調査
(調査終了解散)
4 調査対象者及び調査結果
1、河田君江さん
氏名:河田君江(かわだ きみえ)
生年月日:1966(昭和41)年8月15日 (現:47歳)
当時身分:会社員
当時住所:山口県下関市豊浦町川棚6921-1
失踪日:1990(平成2)年2月7日
最終失踪関連地点:山口県下関市豊浦町大字川棚7273『村田石油』
(1) 失踪状況
退勤後自宅近くで買い物したのち不明に。
2月20日頃、本人の乗っていた車が萩市と島根県益田市の中間の国道沿いの駐車スペースに止まっているのが見つかる。免許証、通帳などはそのまま(その後預金の引き出しなし)。
実家へ来るはずが全く逆の方向へ行っている。
2月18日に本人の声で知人に架電して「ごめんね」と言っている。
車内(財布)にあったレシートなどによると次のように移動したことになる。
8日午後1時34分、島根県出雲市でパン等を購入。午後7時11分、長門市内のコンビニでおむすびを購入。同日午後7時36分、同市内でカミソリ、チョコレートを購入。同日午後7時37分、同市内弁当屋でのり弁1個を購入。
(2) 調査結果
ア 今回の現地調査に際して河田君江さんの兄・忠雄さんから当時の状況について新たな証言を得た。
君江さんの車両は失踪から13日後の2月20日、君江さんの捜索のため県内を走り回っていたお兄さんによって阿武郡阿武町惣郷の国道191号線沿いにある駐車場で偶然発見された。お兄さんは直ぐに所轄署の『小串警察署』に通報したが「何も触るな、何もするな、何かしたら逮捕する」と恫喝され、警察の捜査を待つしかなかった。
しかし警察は直ぐには動かず、車両発見から4日後の2月24日になって宇田郷駐在所の警察官が君江さんの車両を現認し、さらに3日後の2月27日に警察によって君江さんの車両であることが確認された。
イ 発見当時の車内の様子に異変があった。君江さんは運転する際は靴を脱いで裸足で運転するほど車内を綺麗にしていたが、発見時運転席側のフロアマットには泥や草(シダ類)が付着していた。君江さんの身長は約153cmで、運転姿勢は座席を極端に前方に寄せ、ハンドルを抱きかかえたような姿勢で運転していたが、車両発見時、座席は普通の状態にしてあり、後日、君江さんの伯父が警察署から車両を引き取って運転して帰った際も「座席は動かさないで普通に乗れた」と証言している。
ウ 君江さんがアマチュア無線局の開設を申請していた。
君江さんは、高校では家政科を専攻、卒業後は豊浦町の被服メーカーに就職し、更に技術を習得するため、失踪月の2月20日には会社を円満退職することとなっており、アマチュア無線との関連性が見当たらない。アマチュア無線の免許証は、君江さん失踪の約2ヵ月後、実家に届いた。
エ 君江さんの妹さんに不審電話があったことが判明。
君江さんの妹さんは、君江さんの失踪時神奈川県の川崎市に居住していたが、失踪後に結婚した後、転居を繰り返し、平成14年9月に初めて救う会全国協議会に君江さんの件を届けた際には電話番号も川崎市時代とは変わっており、ごく親しい人物だけしか新しい電話番号は知らなかったが、『救う会』への相談後、2〜3ヶ月後の夕刻に不審電話があった。妹さんが電話口に出ると「ヨボセヨ」と聞こえた。「えっ?」というと電話は切れた。相手の年齢はわからない。「たぶん女性の声だった」 とのこと。
オ 同行者・李相哲氏の意見
調査会代表・荒木から現場に同行していた元工作員・李相哲氏に河田君江さんの件と車が放置されていた状況を説明すると、車が放置されていた場所について「偽装ではないか?」旨の意見が寄せられた。
(3) 参考
今回の現地調査に含まれていた1987(昭和62)年12月に山口市湯田温泉から失踪した西村京子さん(小郡下郷在住)が中学時代まで家族と暮らしていた祖母の家が、河田君江さんの私有車が放置されていた阿武郡阿武町惣郷の国道191号線沿い駐車場とは数百メートルの位置にあったことが西村京子さんのご両親からの発言で判明した。
西村京子さんは祖母の家には成人後も度々訪れていたという。河田君江さんの失踪は2年2ヶ月後。
2、西村京子さん
氏名:西村京子 (にしむら きょうこ)
生年月日:1962(昭和37)年12月18日 (現:50歳)
当時身分:店員
当時住所:山口県山口市小郡下郷37-14
失踪日:1987(昭和62)年12月27日
最終失踪関連地点:山口県山口市湯田温泉1-11-31
(1) 失踪状況
失踪前日夜、職場の同僚の女性(Aさん)と2人だけの忘年会を市内で行い、近くの別の飲食店で2次会を行った。そこで男性(B氏)と知り合い、日付が変わった27日午前3時頃、Bさんの車に同乗するのをAさんが目撃したのを最後に2人とも失踪した。B氏も現在まで行方不明。車も見つかっていない。
(2) 調査結果
ア 西村京子さんと同僚が立寄った飲食店(2軒)の所在が確認(同一ビル内)された。
これまで西村京子さんとその同僚が12月26日の夜に最初に立寄った飲食店については判明していたが、最後に立寄ったとされる2軒目の飲食店の所在がこれまでの間、判明してこなかったが、UAゼンセン山口支部の協力の下、湯田温泉に詳しい女性を通じて2軒目の飲食店も同じビル内に所在していたことが確認された。現在、飲食店が入居していたビルはオーナーが替わっている。
イ 西村京子さん失踪当時の時の周辺情況について、聞取り調査に応じてくれた女性からは西村京子さん達が立寄った飲食店周辺について「あの周辺の店舗には呑みに行かないほうがよいと家族から言われていた」との証言もあった。
ウ 京子さん失踪後、ご両親はB氏の家族、及び京子さんと一緒にいた同僚女性とも連絡が取れていない状況であることが判明し、失踪当日の状況について詳細な情報を得られていないことが確認された。
3、西村三男さん
氏名:西村三男(にしむら みつお)
生年月日:1962(昭和37)年5月26日 (現:51歳)
当時身分:工員
当時住所:山口県山口市陶1134 『積水ハウス山口寮』
失踪日:1981(昭和56)年5月20日または28日
最終失踪関連地点:山口県山口市陶1134
(1) 失踪状況
ゴールデンウィーク後、実家の熊本から山口市にある会社に戻り、寮から工場へ移動中失踪。原付免許も寮に置いたまま、住民票もそのまま。失踪後6カ月程して無言電話あり。
(2) 調査結果
ア 西村三男さんは入社後1ヶ月という状況から当時は居住先の会社寮から徒歩で会社に通勤していたということで、現地状況を当時の住宅地図と比較しながら会社までの経路を確認した結果、現在は一部住宅地があるものの、全体として畑が多く、見通しの良い地域であること、出勤時には他の同僚も同じ経路を通勤に使用していたということで、人目に付く場所での強制的な拉致は考えにくく、拉致とするならば途中、別の場所に立寄るように仕向けられて通勤経路から離れた場所に向かった可能性があると判断された。
イ 上記の判断を踏まえ、西村三男さんが通勤経路上で立寄る可能性がある場所を検証した結果、会社に程近い場所に神社が所在するのが確認されたが詳細は不明である。
(3) 参考
ア 西村三男さんの失踪時期については、『積水ハウス山口工場』総務部に残されている資料に2つの日付がある。
(1) 5月20日。
(2) 5月28日。
イ 西村三男さんは1981(昭和56)年3月、熊本県の工業高校を卒業し、同年4月積水ハウス山口工場に入社した。入社した直後にゴールデンウィークを迎え熊本県に帰郷しているが、帰郷中に特異な発言も無く山口市に戻っている。
5、国広富子さん
氏名:国広富子 (くにひろ とみこ)
生年月日:1952(昭和27)年2月9日 (現61歳)
当時身分:看護師
当時住所:山口県宇部市笹山15区笹山アパート
失踪日:1976(昭和51)年8月2日
最終失踪関連地点:山口県宇部市笹山15区笹山アパート付近
(1) 失踪状況
失踪当日の午後8時半頃、母親にたばこを買いに行くのを頼まれ、自宅から数十メートル先のたばこ屋に、300円のみを持ってサンダル履きで家を出たまま行方不明となった。新しい病院に翌日から勤務する予定であった。平成16年1月29日、山口県宇部警察署に告発状提出。
(2) 調査結果
ア 当時の自宅前で妹・文子さんから状況の説明を受ける。
当日の夜、お母さんが富子さんの妹に煙草を買ってきてくれるように頼み、妹さんは一旦外に出たものの、何か買い物に行く気になれず、家に戻ってきたため、アイロンがけをしていた富子さんが代わりに煙草の代金300円を持って買い物に出かけたが何時まで経っても帰宅しないためお母さんが様子を見に外に出てみたが富子さんの姿は無く、何か電話連絡があるのでは?と一晩中電話の前で待っていたという。
イ 当時、煙草を購入する際に訪れていた店舗跡(現在は空き地)までの経路上で検証。
妹・文子さんの案内で当時の煙草屋跡まで案内を受けたが自宅から出て2〜3分で行き着く場所であり、極めて瞬間的な拉致が行われたと認識を新たにした。
当時の状況について妹・文子さんから「悲鳴や車のブレーキ音や急発進のような音を聞いたという情報は無い」との発言があったが、実際に現場で車両を使って拉致のシミュレーションを実施、音を立てなくても可能であることが明らかになった。また、現場に同行していた元工作員・李相哲氏も「口を塞ぐなどして音を立てないように出来る」旨の説明を行い、現場で充分に拉致できることを示唆した。
ウ 失踪現場となった笹山町の路上は当時、夜間は車の往来も少なく民家は在るものの静かな地域であっ
たといい、改めて狙われた拉致であったという判断となった。
(3) 参考
ア 新たな拉致未遂と思われる情報
当会が山口県の現地調査に入るのと入れ違いに拉致未遂と思われる情報提供の来簡があった。時期は国広富子さんが失踪した1ヶ月後で現場は国広富子さんの失踪現場から約7〜800mの位置であり、時期、現場の位置ともに非常に近い地域での情報であり、当会としては非常に関心を持つ情報であることから、精査の必要性を感じる内容である。
以下、情報提供の内容(抜粋)
昭和51年(1976年)当時、宇部市恩田町に住んでおりました。
9月中旬だと思いますが、午後10時前、恩田町にあります清水川バス停から歩いて自宅に帰っておりましたところ、後ろより2,3人の足音がきこえました。
付近は街灯もなく暗かったと思います。
そのうち、車の低速で近づく音がしました。
そのときです。
前方よりクラクションが数回鳴り、車のライトがハイビームとなりまぶしくなりました。
なんだか恐くなり全力で自宅に帰りました。
当時1人で暮らしていましたのでこのことは誰にも話していません。
その後会社も退社して住居も他市に移りました。
平成になり北朝鮮による拉致事件のことが報道されるようになり関心を持ちました。
宇部市恩田町バス停近くの国広富子さんのことが報道され、時期的に同じと知り、ことの重大さを知りました。
イ 北朝鮮での目撃情報
(1) 脱北女性による目撃情報
1993(平成5)年当時、平壌市内のアパートに居住していた女性が国広さんと思われる女性を目撃。
(2) 脱北男性による目撃情報
1994(平成6)年6月、平壌市内の党幹部宅でパーティが開催された折、後から差し入れに来た幹部とと同行してきた国広さんと思われる女性を目撃。
(3) 情報源秘匿 目撃情報
2002(平成14)年夏、北朝鮮国内で「宇部市に住んでいたという日本人女性と会った」との情報。
5 李相哲氏の証言
(1) 青海島
ア 元朝鮮労働党作戦部海上処・元山連絡所所属戦闘員 李相哲氏の潜入地点
1982(昭和57)年6月19日夜半、山口県長門市仙崎所在の青海島・牛崎の鼻(現地では半崎の鼻と呼ばれている)にゴムボートで上陸し、在日工作員と思われる男性1名を北朝鮮に連れ帰った状況について現地で説明を受けた。
1) 接線(接触)時刻
接線の時刻は午後10時となっており、牛崎の鼻沖合500mの位置から組長と2名でゴムボートに乗り手漕ぎで牛崎の鼻を目指した。
2) 接線(接触)状況
途中で組長がシュノーケルをつけて岸まで泳ぎ、異常がないことを確認した後、無線機のスイッチ音(プレストーク音)だけで合図を寄こし、ゴムボートを接岸させた後に組長が50メートル程離れた接線地点(海岸沿いの民家裏)に行き、石を打ち合わせる音と合い言葉で工作員と接触、李相哲が待機するゴムボートに乗せて帯同帰国した。
3) 日本潜入に際しての教育
目標地点の牛崎の鼻については、予め用意された地図のみで教育を受け、目標を確認していた。
4) 目標現認の状況
牛崎の鼻の岩が海上からでも確認でき、容易に目標地点に達することが出来た。
5) 元朝鮮総聯工作員・韓光熙設定の接線(接触)ポイント「花津浦」について(現場を視察して)
人気も無く、岩(波の浸食で穴が空いた岩)に特徴があるので接線(接触)のポイントとして使える。
6) その他
自分は1回しか潜入しなかったが、それ以前にも牛崎の鼻は使われていたと思う。日本側に発見されるまでは継続して使うはずである。
イ 当会の見解
青海島の牛崎の鼻、花津浦を李氏とともに廻ってみたが、釣り師以外は寄り付かないと思われる場所でなおかつ、周囲から見えない位置にポイントを設定してあったことが確認されたが、地域に詳しくなければ見つけられないようなポイントであり、地元協力者の影(存在)を改めて感じる場所であった。
(2) 只の浜海岸
ア 北朝鮮工作員・千葉仙吉こと高徳煥が1980(昭和55)年11月15日、只の浜海岸から潜入したとされる地点を調査。
1) 潜入地点の詳細は公表されていないため、当会では目標地点とし易い河口付近ではないかとの意見が出たが、同行者・李相哲氏は海岸南西地域(千畳敷)の位置を指し「人気も無く道路上から見えないので、自分であればそちらを選ぶ」と、潜入に適した位置を示した。
2) 只の浜海岸は遠浅であり、李氏が示した地域は隠れ根が点在するがこれについても李氏は「問題ない、潮の干満もあまり問題にならない」と、同地域からの潜入も容易であったことを伺わせる発言が寄せられた。
以上