過去と未来
最近、よく思うのが「私たちの存在とは何なのだろうか」ということです。
日本は、今この国に生きている私たちだけのものではありません。何千年、何万年もの間、この国(国と言う概念のなかったころも含め)を作ってくれた先人、そしてこれからこの国に生れてくる未来の国民と、私たち皆のものです。
そう考えれば、私たちはほんのちっぽけな存在であり、過去と未来の中継ぎの役割を果たしているに過ぎません。したがって私たちの代で過去の遺産を食いつぶすことも許されませんし、未来に残すべきものを消費し尽くしてしまうことも許されないと思います。中継ぎをしているものとして、過去を大切にし、自分たちの代の犠牲の上に次の代にこの国を渡していくことが必要なのではないでしょうか。
たとえば、特定失踪者問題調査会の活動について、「本来は国がやるべきことなのに…」と言ってくださる方がたびたびおられます。評価いただいてのことなので、ありがたいのですが、その認識も必ずしも正確ではないように思います。やはり、民間人にとっても救出の責任はあるはずです。
私たちも政府機関を批判したり、注文をつけたりすることはありますが、それぞれの機関に熱意を持った人はいても、組織の論理に縛られて動けないことは少なくありません。ある意味外部から方向性を作った方がやりやすい場合はありますし、そもそも組織上の欠陥が存在することはこれまでもあちこちで指摘していたところです。その部分は「官」にいる人も自分の職責を外れて動いてもらわなければなりませんし、私たちも、民間にあって「公」を担うための努力をしなければいけないということです。いうまでもなく、私たち自身も自らの行動に責任を負わねばなりませんし、来年は現実にそうなるときも来るかも知れません。
しかし、拉致問題にかぎらず、政治でも社会でも文化でも何でも、様々な分野で、この点にはそう違いはないと思います。そもそもジャーナリストを含めた民間人でも、議員でも、あるいは役人でも、結局は本人の情熱と、一種の「職人芸」がものごとを動かしているのであり、そこで道筋が出来てから全体が動いていくというのがこの国の一つのパターンであるように思います。最近、デジタル的思考が主流になって、この部分が過小評価されていますが、数値だけでは測れない部分、日本的な発想はもっと見直されていいと思います。
その意味で、日本が、今生きている私たちだけのものではないことを再認識することは、デジタル的な発想から離れて、自分たちの行動にも新しい視点を与えてくれます。私は大学の授業中にも、学生を見ていてふと「この連中の世代から、『あの世代がいい加減だったからこんな日本になってしまった』とは言わせたくない」と思うことがありますが、過去に対しても、未来に対しても誇れる(それはおそらく物質的なものというより、精神的なものでしょう)日本を残し得るか、この時代に生きるものとしての責任が問われています。
あと6時間程で始まる平成18年はどういう年になるでしょう。自分自身にとっては「人生50年」なら、最後の年になる来年、先人に対しても、次の世代に対しても、恥ずかしくない生き方をしたいと思います。
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