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2005年12月26日

過去と未来

 最近、よく思うのが「私たちの存在とは何なのだろうか」ということです。

 日本は、今この国に生きている私たちだけのものではありません。何千年、何万年もの間、この国(国と言う概念のなかったころも含め)を作ってくれた先人、そしてこれからこの国に生れてくる未来の国民と、私たち皆のものです。

 そう考えれば、私たちはほんのちっぽけな存在であり、過去と未来の中継ぎの役割を果たしているに過ぎません。したがって私たちの代で過去の遺産を食いつぶすことも許されませんし、未来に残すべきものを消費し尽くしてしまうことも許されないと思います。中継ぎをしているものとして、過去を大切にし、自分たちの代の犠牲の上に次の代にこの国を渡していくことが必要なのではないでしょうか。

 たとえば、特定失踪者問題調査会の活動について、「本来は国がやるべきことなのに…」と言ってくださる方がたびたびおられます。評価いただいてのことなので、ありがたいのですが、その認識も必ずしも正確ではないように思います。やはり、民間人にとっても救出の責任はあるはずです。

 私たちも政府機関を批判したり、注文をつけたりすることはありますが、それぞれの機関に熱意を持った人はいても、組織の論理に縛られて動けないことは少なくありません。ある意味外部から方向性を作った方がやりやすい場合はありますし、そもそも組織上の欠陥が存在することはこれまでもあちこちで指摘していたところです。その部分は「官」にいる人も自分の職責を外れて動いてもらわなければなりませんし、私たちも、民間にあって「公」を担うための努力をしなければいけないということです。いうまでもなく、私たち自身も自らの行動に責任を負わねばなりませんし、来年は現実にそうなるときも来るかも知れません。

 しかし、拉致問題にかぎらず、政治でも社会でも文化でも何でも、様々な分野で、この点にはそう違いはないと思います。そもそもジャーナリストを含めた民間人でも、議員でも、あるいは役人でも、結局は本人の情熱と、一種の「職人芸」がものごとを動かしているのであり、そこで道筋が出来てから全体が動いていくというのがこの国の一つのパターンであるように思います。最近、デジタル的思考が主流になって、この部分が過小評価されていますが、数値だけでは測れない部分、日本的な発想はもっと見直されていいと思います。

 その意味で、日本が、今生きている私たちだけのものではないことを再認識することは、デジタル的な発想から離れて、自分たちの行動にも新しい視点を与えてくれます。私は大学の授業中にも、学生を見ていてふと「この連中の世代から、『あの世代がいい加減だったからこんな日本になってしまった』とは言わせたくない」と思うことがありますが、過去に対しても、未来に対しても誇れる(それはおそらく物質的なものというより、精神的なものでしょう)日本を残し得るか、この時代に生きるものとしての責任が問われています。

 あと6時間程で始まる平成18年はどういう年になるでしょう。自分自身にとっては「人生50年」なら、最後の年になる来年、先人に対しても、次の世代に対しても、恥ずかしくない生き方をしたいと思います。

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2005年12月11日

「家族」と「国家」

 特定失踪者問題調査会のニュース 315号(17.12.11)に書いたものです。前のものと重複する部分がありますが掲載しておきます。

■「家族」と「国家」
 
 先日来小学生の女の子を狙った凶悪事件が大きな問題になっています。子供を持つ親であれば誰しも「うちの子が被害にあったら」という思いにさいなまれたのではないでしょうか。いわんや栃木の事件はまだ犯人が逮捕されていないのですからなおさらです。

 こういう言い方をすると冷たいと言われるかも知れませんが、事件を防ぐために何もしてあげられなかった者としては、亡くなったお子さんたちにできることは、せめてその現実を受け止め、それを教訓として、次の事件がおきないように努力することしかないように思います。それにしてもあらためて、安全とか平和というのが当然のものではないということが身にしみて実感されます。

 ところで、この事件について「うちの子が被害にあっていたら」と思うのと、他人事と考えて単に「可哀想に」と思うのでは、その後の対応は当然全く異なります。拉致問題についても同様であり、昔、自分にかかわりのないところで起きた事件ととらえるのか、あるいは自分や自分の家族が今後同様の被害に遭う可能性があると考えるのかで、その対処は全く異なってきます。

 残念ながら現在政府は前者の次元で問題を処理しようとしています。これはあくまで個別の事件としての取扱いです。後者は国家の安全保障の問題なのですが、この点は徹底して隠蔽ないし無視し続けているのが現状です。しかし、北朝鮮が国家の基本方針である対南赤化統一を目指して行ってきた工作活動の一環として拉致を行っていることを考えれば、この問題の本質はあくまで後者であって前者ではありません。

 その意味から考えれば政府が「ご家族の意向」と強調することは、裏を返すと個別の事件という側面を強調して国家の安全保障にかかわる問題という側面を隠そうとしている(意識的か無意識かは別として)ことにほかなりません。ご家族が納得すればそれでおしまいということになるわけで、実際9.17のときの政府からご家族への嘘の報告は、まさにそれを狙ったものでした。

 先日横田滋家族会代表が体調を崩され、講演をキャンセルしたとの話を聞きました。ご夫妻とは時折集会などでご一緒しますが、極めてハードなスケジュールをこなし続けておられ、傍で見ていても「お身体が持つのだろうか」という思いをしたことが一度二度ではありません。

 そうは言いながら、私もときにはお願いしてしまうことがあるので偉そうなことは言えませんが、今後集会を企画しておられる方にぜひお願いしたいのは、もっとも要請の集中する横田さんご夫妻をお呼びすることは、可能な限り控えていただきたいということです。また、勝手な話ながら、それ以外のご家族もご両親はどなたも高齢であり、無理はさせられません。例えば増元さんのように年齢的にも立場上もフットワークの良い方は別として、可能な限りのご配慮をお願いしたいと思います。「横田さん夫妻が来なければ人が集まらない」ということであれば、集会の規模を変更するなり、別の企画を入れるなりして対応されるべきではないでしょうか。

 少女殺人事件の被害者のご両親を引張り回して凶悪犯罪を防止しようという訴えをしてもらおうと言ったらどう思われるでしょうか。いわんやことは国家の問題です。北朝鮮という独裁国家による犯罪の被害者の家族であり、また、日本国が守ってあげられなかったという意味では政府の不作為の被害者の家族です。その点をどうかご理解下さい。

 「そうは言っても」という側面があることは承知しています。私自身、今後も、ご家族にお願いすることはあると思います。しかし、この問題は根本的には「家族」次元の問題ではないことを、一人でも多くの方にご理解いただきたく思う次第です。

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2005年12月 3日

「命の大切さ」?

 幼い子を狙った凶悪犯罪が繰り返されている。

 ご家族にとって、その記憶は消せるものではない。おそらく一生、傷の癒えることはないだろうし、子供を持つ親ならわが身に置き換えてぞっとした人も少なくないだろう。

 しかし、こんなとき自治体でも学校でも、繰り返されるのが「命の大切さ」というお題目である。なるほど命は大切に決まっている。しかし、何かしなければならないから「命の大切さ」を説明する時間をとってお茶を濁すというのでは、問題は絶対に解決しない。

 私自身はどういうわけか同級生や世代の近い友人が若くして命を落とすのをたびたび見てきた(現場まで見たわけではないが)。病気もあれば自殺もあった。

 海外事情研究所の先輩だった酒谷隆先生は2年前の12月に急逝された。年末最後の所内研究会で発表を終えて研究室に戻った直後脳幹出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。私は第二発見者だったが、あらためて命のはかなさを感じざるを得なかった。

 私は経歴にも書いているように予備自衛官である。毎年1回5日間の訓練召集があり、射撃もやる。

 通常使うのは64式小銃で、7.62ミリの弾を1回の訓練で30発足らず撃つだけだが、小銃でも反動や音は相当なもので、空砲でも銃口の前に水をいれたペットボトルを置いて撃つと穴が開く。訓練のたびに「これがまともに当たったら俺の頭も1発ですっ飛ぶだろうな」と思うのである。戦争というのはそれが現実のものとなり、多くの人が命を失うのだ。

 幸い、自衛官は今のところ戦闘をしなくて済んでいる。しかし、服務の宣誓には「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」という部分があり、これは当然死を前提としたものである。もちろん、私たち予備自衛官も招集されていれば同じ扱いになる。

 また、もっと日常的に現場の警官や消防士は自らの命を失う可能性と背中合わせに仕事をしているのだ。中越自身のとき、長岡で岩に挟まれた自動車の中から子供を助け出したレスキュー隊の人たちは、自らも二次災害による犠牲者になる可能性があった。「命が大切」なら、生きているか死んでいるか分からない人間を助けるために、それこそ「命をかける」必要などあるはずがないのに、彼らはそれをした。

 人権の大切さを大声で叫びながら、拉致問題や北朝鮮の人権問題になると急にそっぽを向いてしまうように、子供たちが危険にさらされている現実を放っておいて、「命の大切さ」など唱えてみても空しいだけだ。もう一度、命とは何なのか、どういう価値があるのか、あるいはどうすれば価値が見出せるのかを考えて見る必要があるのではないか。おそらく死ぬまで結論は出ないだろうが、安易な結論付けではなく、正面からその本質を知るべく努力を続けるべきだと思う。

 残酷な事件を受け止めるのはなかなか難しいが、まったく関係のない立場とはいいながら、亡くなった2人の少女を守るためにに何もしてあげられなかった身としては、命とか死という問題から目を逸らさないようにすることくらいしかできることがないのである。

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