その7 中村元著「龍樹」ー般若経典の空観- 煩悩なんて気のせいだよ
中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいきます。
「1. 大乗仏教の思想」から 「般若経典における空観」と「在家仏教運動」
などに入ります。
「般若経典における空観」
p60
ー 原始仏教において、世間は空であると説かれていたが
(たとえば、「常に心に念じて、(何ものかを)アートマン(我)
なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。
そうすれば死を度るであろう」)
ー 般若経典では・・さらに発展せしめ、大乗仏教の基本的教説とした。
この経典としては、「大般若波羅蜜多経」、「般若心経」、「金剛般若経」、
「理趣経」などがあるとしています。
「金剛般若経」についてはこちらで感想を書いています。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/11/post-87cd.html
p60
ー われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
一切諸法は空である。 何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて
成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないもので
あり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねば
ならぬからである。
ー 諸法が空であるならば、本来、空であるはずの煩悩などを断滅する
ということも、真実には存在しないことになる。
ってことはですよ、煩悩なんてのは気のせいなんだから、その煩悩を
消し去るってことなんかも不可能ってことですか?
少なくとも自分だけの妄想っていうのか、勝手な想像っていうか、幻想?
人間はその現実にはありもしない妄想で大いに悩んでいるんだってこと?
そして、それを実践することについては、
p61
ー 実践はかかる空観に基礎づけられたものでなければならない。
ー たとえば「金剛般若経」の第10節では、「まさに住するところ
なくしてその心を生ずべし」と説いている。
ー かかる実践的認識を 智慧の完成(般若波羅蜜多)と称し、
与える(布施)・
いましめをまもる(持戒)・
たえしのぶ(忍辱)・
つとめはげむ(精進)・
静かに瞑想する(禅定)
という五つの完成と併せて<六つの完成>(六度、六派羅蜜多)と称する。
「六派羅蜜多」という言葉は初めて気づきました。
こちらのサイトで説明してあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85%E8%9C%9C
「六波羅蜜(ろくはらみつ)とは、ブッダを目指す菩薩が修めなくては
ならない、6つの実践徳目のこと。」
「在家仏教運動」
ー 空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとは
それ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として
現し出されねばならぬ。
ここでニルヴァーナですけど、「涅槃」とも言われますが、中村元さんによれば、
「心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地」としているようです。
p62
ー 理想の境界はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。
空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。
これを展開して、出家生活よりも在家生活の方が 大乗仏教の理想を実現
するのにふさわしいってことになったようです。
そして、それの代表的な経典が「維摩詰所説経」だとしています。
このお経の中では、在家である維摩さんが、出家であるお釈迦様の弟子たちを
やりこめちゃうって話だそうです。
ー その究極の境地はことばでは表示できない「不二の法門」であり、
維摩はそれを沈黙によって表現したという。
「華厳経」における菩薩行の協調
というところには、以下のようなことが書かれています。
p62-62
ー 菩薩の修行には自利と利他との二方面があるが、菩薩にとっては
衆生済度ということが自利であるから 自利即利他 である。
ー この経の十地品では、菩薩の修行が進むにしたがって 心の向上
する過程を十地(十種の段階)に分けて説く。
この「華厳経」で言っていることって、菩薩としての修行が進めば
自利=利他ということが自然に出てくるって話なんでしょうかねえ。
http://homepage3.nifty.com/huayan/doctrine/jiewei.htm
次回は 「浄土教」の話が出て来ます。
法然さんの「浄土宗」、親鸞さんの「浄土真宗」への入口になるのか・・・
==その8に続く==
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