夏目 漱石 作 永日小品 過去の匂い読み手:滝沢 久恵(2018年) |
自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君は蘇格蘭から帰って来た。その時自分は主婦によってK君に紹介された。二人の日本人が倫敦の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合って、しかも、まだ互に名乗り換した事がないので、身分も、素性も、経歴も分らない外国婦人の力を藉りて、どうか何分と頭を下げたのは、考えると今もって妙な気がする。その時この老令嬢は黒い服を着ていた。骨張って膏の脱けたような手を前へ出して、Kさん、これがNさんと云ったが、全く云い切らない先に、また一本の手を相手の方へ寄せて、Nさん、これがKさんと、公平に双方を等分に引き合せた・・・