夏目 漱石 作 永日小品 昔読み手:梨本さん(2017年) |
ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途で包んで、じかには地にも落ちて来ぬ。と云って、山向へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔し、二百年の昔にかえって、やすやすと寂びてしまう。人は世に熟れた顔を揃えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、或時は灰色になる・・・