久生 十蘭 作 黄泉から読み手:齊藤 雅美(2023年) |
一
「九時二十分……」
新橋のホームで、魚返光太郎が腕時計を見ながらつぶやいた。
きょうはいそがしい日だった。十時にセザンヌの「静物」を見にくる客が二組。十一時には……夫人が名匠ルシアン・グレエヴのペンダント(首飾)のコレクトを持ってくることになっている。午後二時には……家の家具の売立。四時には……。詩も音楽もわかり、美術雑誌から美術批評の寄稿を依頼されたりする光太郎のような一流のアジヤン(仲買人)にとっては、戦争が勝てば勝ったように、負ければまた負けたように、商談と商機にことを欠くことはない。
こんどの欧州最後の引揚げには光太郎はうまくやった・・・