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小早川秋聲の戦争画「國之楯」

NHKのBSプレミアムの「極上美の饗宴」の「闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲“國之楯”」を見ました。とても良かったです。

私は、小早川秋聲という画家の名前を何となく聞いたことがあったように思えたのですが、それは名前だけで、「國之楯」という作品があることも何も知りませんでした。今回、番組で初めて見て、少しはっとしました。何かとても不思議な絵でした。

小早川秋聲は、1885年(明治18年)に鳥取県の日野町というところの光徳寺というお寺の長男として生まれたそうです。小さい頃から絵の才能があり、番組で紹介されていた「山中鹿之助三日月を拝するの図」という16歳の頃の作品も、とても立派な絵でした。大正時代の30歳の頃から世界各地に留学をして見聞を広め、36歳の頃に京都の鴨川に家を構えたのだそうです。

昭和6年に満州事変が起こり、46歳の小早川秋聲は陸軍省の従軍画家になったそうで、いろいろな戦地を訪れて絵を描いたそうです。「護国」の二作品、「出陣の前」、「夢に追う」、「戦いのあと」という戦争をテーマにした作品が紹介されていたのですが、どれもとても静かな雰囲気の作品でした。小早川秋聲は、陸軍が要求していた戦意高揚のための、例えばレオナール・フジタ(藤田嗣治)の「アッツ島玉砕」などの作品のような激しい戦闘場面は描かず、しみじみとした戦争の現実を兵士の側や家族の側から描いて伝えようとしていたと研究者の方が話していました。小早川秋聲が昭和18年頃に京都新聞に書いた『従軍行記』には、日本兵が次々と戦死する様子が伝えられているそうです。

昭和18年ごろ、ビルマへ進出した日本軍が連合軍に苦戦するようになると、軍は美術の力で戦意高揚を図ろうと、インデン付近の戦闘で敵の旅団長を捕虜にする場面をテーマにした作品を描くよう画家たちに言い、小早川秋聲も描いたようでした。日本軍に降伏するイギリス軍の姿が描かれていました。

そして、もう一枚の作品制作に取り掛かった59歳の小早川秋聲は、今回の「國之楯」を描いて軍に提出したのですが、返却されてしまったそうです。

番組では、日野町の隣の鳥取県日南町という場所にある日南町美術館を、「火垂るの墓」で知られるスタジオジブリの映画監督の高畑勲さんが訪れていました。普段は展示されていないそうで、特別に収蔵庫から「國之楯」を出してもらっていたのですが、高畑さんも本物を直接見るのは初めてだったそうです。縦1.5m×横2mの作品だそうです。

黒い闇の中に、横たわった兵士の身体がぼうっと浮かび上がっているような作品でした。兵士が身に着けている皮の手袋や軍刀、双眼鏡、拳銃が実戦の装備のままリアルに描かれているそうです。軍服のところには金の粉が使われているそうで、映像でも確かにきらきらとしているように見えました。兵士の手は胸の上で組まれていて、顔の上には寄せ書きの書かれた日章旗(日の丸の旗)が乗せられていたのですが、ふわっと乗っているというよりは、赤い日の丸の部分が顔に張り付いているようでもありました。その頭の周りには光の輪が描かれていました。

作品を近くで見ていた高畑さんは、本物は違う、絵の力を感じる、すごい絵だと話していました。まだこの世から立ち去りかねている、先祖の魂が満ち満ちている、魂が浮遊している感じだそうです。そのことを伝えようと、兵士は闇を彷徨っているのだとも話していました。

軍からこの「國之楯」が返却された理由には、当時日本兵の戦死者を描くことがタブー視されていたということもあるそうです。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」にはたくさんの戦死者が描かれているのですが、この作品は絶賛されたそうで、それはよく見るとその戦死者がアメリカ兵だったからだそうです。

それなので、「國之楯」は日本兵の戦死者を取り上げた初めての作品だそうです。美術館では今回の調査のために初めて絵の裏の板を全て外したそうなのですが、そこには、「昭和19年 画畢」と書かれていました。画畢とは、「もう筆は終わり」という意味だそうで、作者が作品に対して自信があることを意味しているそうです。でも、板の左端には、白いチョークで「返却」と書かれていました。軍が受け取りを拒否したということでした。

そこには命題(作品の題名)がいくつか書かれていて、それによると、「國之楯」は、昭和19年当時は「軍神」という題名だったことが分かりました。返却されてから絵を改作し、「大君の御楯」という題名に変え、戦後の昭和43年5月に「國之楯」としたようでした。

東京文化財研究所の方が、改作される前の「軍神」はどのような作品だったのかを探るため、懐中電灯や赤外線などで詳しく調べていました。背景は真っ黒ではなく、肉眼では見えないような花びらが描かれ、日の丸の部分は3段階に塗られていることが分かったそうです。

最初の「軍神」は、灰色の背景の中に、顔に日章旗を乗せて胸の上で手を組んでいる兵士が横たわり、その上を散った白か薄い灰色の桜の花や花びらが舞っているという絵でした。

高畑勲さんは、小早川秋聲の死後50点の作品が預けられていたという京都の料亭を訪れていたのですが、そこで「國之楯」の下絵が発見されたそうで、高畑さんも一緒に見ていました。下絵は、「國之楯」とも「軍神」とも少し違い、兵士の全身が光に包まれていて、顔の上に掛けられた日章旗そのものは少し小さく、日の丸の部分は少し大きく描かれていて、寄せ書きはありませんでした。そして、兵士は浮いているのではなく、地面に横たわっている様子でした。「國之楯」は軍刀の鞘の先が薄くなり、闇に中に溶け込んでいるように描かれているのですが、この下絵でははっきりと描かれていました。

「國之楯」は、料亭から京都霊山護国神社に寄贈され、10年間拝殿の脇に飾られていたそうです。坂本龍馬や幕末の志士たちが祭られていることでも知られるこの神社は、戦死した人の魂を祭る神社で、遺族の方がよく参拝に来るそうです。宮司の方は、その場所の自然の光で見る絵は、見る時間帯によって違う印象を与えたと話していました。番組で見た限り、その場所には「國之楯」の複製画が置かれていたのですが、それは今も置かれているものなのでしょうか。

文化財研究所の方が赤外線や特殊な光源を当てて「國之楯」を調査していると、明治から昭和にかけての日本画を研究をしている京都芸術大学の名誉教授の榊原さんという方が「國之楯」の調査をしていると聞いて駆け付けていました。榊原さんは、顔を全く見せない描き方に注目していました。亡くなった人の気持ちを描き残しておきたいということが感じられるそうです。顔の日章旗の寄せ書きは、戦争で亡くなった全ての兵士の象徴ではないかとも話していました。

「國之楯」の板の裏には、「無鑑査出品」と書かれた文字を小早川秋聲自身が上に紙を貼って消している状態が残されていました。自信作が軍に拒否されたことにショックを受けていたようでした。

「國之楯」の絵を見た瞬間、それが何となく兵士の遺体であるということを思わないではいられないのですが、確かに、横たわる兵士の身体からは血も流れておらず、死んでいるかどうかも分からないと言われると、そうかもしれないと思いました。それにもかかわらず、とても生々しいものとして陸軍省の人に理解されたため受け取りを拒否されたのかもしれないという意見を聞き、なるほどなと思いました。「國之楯」には、異様な迫力があるように思えます。

桜の花も、“名誉の戦死”を連想させ、生々しく見える要因のようです。そして、軍から返却された後、小早川秋聲は「軍神」の花びらを黒く消して「大君の御楯」に改作し、23年後、「國之楯」として改作したそうです。

昭和20年の8月15日に日本が終戦を迎えると、60歳の小早川秋聲は公職追放令で戦犯になることを覚悟し、自殺も考えていたそうです。でも、戦犯になることはなく、戦後の小早川秋聲は、仏画を描いて暮らしていたそうです。「私は自ずから人生観を改まり」、「世間から遠ざかり心静かに野の一画人となり余生を送っています」というような小早川秋聲の言葉が紹介されていました。

昭和43年、ノーベル書房から『続・太平洋戦争名画集』に小早川秋聲の戦争画を掲載したいと言う話が来て、小早川秋聲は「大君の御楯」に手を加えて新たな作品にしようと考えたそうです。調査の結果、背景は「たらし込み」と呼ばれる技法で描かれていることが分かりました。京都芸術大学でたらしこみの技法を再現していたのですが、白い紙に描かれた白い輪郭線の桜の花の上に水をたくさん含んだ薄い色の墨を一度さっと塗り、乾かないうちに塗り重ねるということを繰り返していました。味わい深い墨の濃淡が出て、桜の花をその灰黒色の闇のところどころに浮かび上がらせるようです。

小早川秋聲は、戦争の色彩について、『絵画教習』という著書の中で「私の直感から言えば、灰黒色とセピア色が戦争の中から滲んで来るような気がする。白や桃色や紫には決して映らない」と書いているそうです。

「國之楯」の一見すると黒一色の闇のように見える背景の奥に、よく見ると桜の花が描かれていることは、何と言うか、とても不思議な感じがしました。榊原さんは、黒い桜の花とは一体何なのだろうということを感じてほしかったのではないかと話していました。高畑さんは、反省があったのではないかと話していました。戦争で、日本人以外の人たちも日本人もたくさん死んで、小早川秋聲の知り合いも死んで、その気持ちを反映させたのではないかということでした。小早川秋聲は、「國之楯」を完成させた5年後の1974年、88歳で亡くなったそうです。

解説で言われていたように、兵士の誰かではなく、「戦争がもたらした死」を普遍的に描いた作品なのだと思いました。軍が返却したのも分かるような気がします。返却することを決めた軍部の人は、この作品を見て、もしかしたら何かはっと我に返ったようなところがあったのかもしれないと思いました。もし画家が、当時タブー視されていたという兵士の死を描いたとしても、戦意高揚の雰囲気を盛り込む“名誉の戦死”の、ある意味では美談としての戦死を描いていたのなら、軍に迎えられたのではないかと思います。でも、そうではなくて、国民が国の楯となって死ぬという戦争がもたらした死を正面から描いていたので、戦争の現実的な部分が軍部の人にも見えて、何か怖くなって絵を返却したのではないかと思いました。

今日は、広島に原爆が投下された日ですが、世界では昔も今もいつもどこかで戦争や紛争のようなことが起こって死者が出ているので、これからも戦争がもたらす死のことを忘れることはできないように思います。

私は、この「美の饗宴」の松谷卓さんのテーマ曲が番組にとても合っているように思えて好きなのですが、今回は他の音楽が多用されることもなく、このテーマ曲が丁寧に使われて、落ち着いた雰囲気になっていて、その点もとても良かったです。
プロフィール

Author:カンナ
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