はてなキーワード: ELFとは
シレン好きには Dungeon Crawl Stone Stoup (DCSS) をやってほしい。オリジナルの Dungeon Crawl でも良い。
難易度はもっと不思議クラス。最悪2Fで即死することもある。シレンをやった後で驚くのは、敵のAIが段違いに賢いところ。待ち伏せしようとしたら、逆に奇襲されたりする。群れで行動したり。麻痺やアビス送りといった即死級の攻撃を受けることもあるが、モンスターの詳細を見ることができるので、初めて出会う敵でもある程度対策を立てることはできる。
攻略としてはスキル配分が最重要。レベルに相当するもので、スキルを伸ばさないと火力がでない。武器スキルに振るか、防御スキルに振るべきか、悩むのが楽しい。種族、職業、信仰の組み合わせが豊富なので何度でも違ったプレイできる。脳筋のMinotaur Fighter Okawaru、術師のDeep Elf Earth Elementalist Makhleb、暗殺ならSpriggan Enchanter Dithmenos、遠距離武器ならHunter Fedhas Madash。特に信仰によって得られる力が強い。
スペルの種類も多い。術師系は領域が多くて本当に面白い。例えば、数マス距離を取るBlink、氷の雲で継続ダメージ、死霊術で無敵状態になったり、一時的な味方召喚したり。脳筋の場合は基本殴るだけだけど、神器に相当するアーティファクトやエゴがあり、耐性をどのように組み合わせるか考えるのが楽しい。
自動探索、自動攻撃が便利。便利ダッシュを究極に快適にした機能があり、「o」キーと「Tab」キー連打で退屈な場面はサクサク進める。最近のDCSSは如何に単調なつまらないプレイを排除するかという方向にアップデートしていってる。呪いや食料、サビ等のアイテム破壊される行為も一切なくなった。シレンだと矢稼ぎとか、デビル狩りとか、いわゆるスカミングができてしまうが、これらも徹底してできなくなった。シレンはこの辺が辛い。
※ライブ配信です
https://www.youtube.com/watch?v=-NLfxE-f5Is
cresc...
Biennale für aktuelle Musik Frankfurt Rhein Main 2024
Gérard Grisey:
Les Espaces Acoustiques
hr-Sinfonieorchester – Frankfurt Radio Symphony
Megumi Kasakawa, Viola
Sylvain Cambreling, Dirigent
hr-Sendesaal Frankfurt, 16. Februar 2024
»Fadenspiele«. Die Bedeutung von Netz-Werken beleuchtet das Festival »cresc... 2024«. Das Eröffnungskonzert des Ensemble Moderns und des hr-Sinfonieorchesters präsentiert eines der monumentalen Schlüsselwerke des 20. Jahrhunderts. Mit seinem abendfüllenden Orchesterwerk »Les Espaces Acoustiques« schuf der Franzose Gérard Grisey im Zeitraum von elf Jahren einen Zyklus, bei dem jeder folgende Teil den akustischen Raum des vorangegangenen erweitert und vergrößert.
____________________________
»String Figures«. The significance of net works is highlighted by the festival »cresc... 2024«. The opening concert of the Ensemble Moderns and the Frankfurt Radio Symphony presents one of the monumental key works of the 20th century. With his full-length orchestral work »Les Espaces Acoustiques,« Frenchman Gérard Grisey created a cycle over a period of eleven years in which each successive part expands and enlarges the acoustic space of the previous one.
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
以下の通りです。
迷宮ラブソング / 嵐
Lotus / 嵐
Everybody Go / Kis-My-Ft2
好きだよ。~100回の後悔~ / ソナーポケット
神様のカルテ / 辻井 伸行
あの娘と野菊と渡し舟 / 氷川 きよし
いくたびの櫻 / ふくい 舞
庄内平野 風の中 / 水森 かおり
Dear Snow / 嵐
Troublemaker / 嵐
果てない空 / 嵐
Monster / 嵐
Love Rainbow / 嵐
Love yourself~君が嫌いな君が好き~ / KAT-TUN
会いたくて 会いたくて / 西野 カナ
魔法の料理~君から君へ~ / BUMP OF CHICKEN
蛍 / 福山 雅治
今さらかもしれないですが、
あの当時は数年前にノベルス系において「痕」「One」が異例の大ヒットさせていて、プレイヤーの方がその感動が薄れポスト良ノベルスを探していた。そんな需要にジャストフィットしたというイメージです
ただ、当時求められていたノベルスがただ面白ければいいというものでもなく(そういうのはアリスソフトやElfが量産していた)、不可解な殺人・失踪などのある種の伝奇性(ただ当時の感触として多分、この言葉もちょっとニュアンスが違う。たとえば空の境界で「右巻きと左巻きで力の性質がまるで違う」みたいな理屈のつけられない不可解で不気味な何か)を求められた、というところがあり、そういうのを上手く狙えていたように思えます
また痕やOne自体がその前作の雫やMoonで「知る人ぞ知る隠れた良メーカー」という評価を受けた上での大ヒットとなっており、月姫は体験版においてそういうブランドイメージを上手く確立した、というのがその当時の自分やその周辺の見立てです
何がおススメかとか聞きたいわけでなく、なんとなく書きたくなったから書くので、他の増田やブコメ諸兄も好きに書くと良い。
オフラインでやってたものなどもあるので時間はあまり正確ではない。詰んだとか飽きたとか書いてない限りはクリアしてる。
難度:不死者までは自力でクリアできたが、皇帝・極小・クイックでぬるくやると精神が安定するので好き。
創造主は諦めて1vs1・マラソン・群島の都市国家無しでヴェネツィアをビザンチンのドロモンでボコった。俺は悪くない。
実績はシナリオのが面倒なので90%くらいで止まってる。
歴史に詳しくはならなかった。
2Dダークソウルと言われるやつ。武器タイプ一通りと魔法使いやった。
鞭+銃が強く感じた。短剣はサマーソルト使わないとキツすぎだろ。
仲間よりパガンおじさんに好感持てるようになってたり、例の隠しエンディングといい、スタッフ性格悪いよな。
何にも分からぬまま放り出されて捕食されるがままだったのに、気が付けば鳥の仮面を収集して楽しむハンターになっていた。
虫がリアル。
こっちも2Dダークソウルっぽいと言われるが、メトロイドヴァニア遺伝子の方が強い。
続編というか外伝が楽しみだ。
評判良いので安い時に買ったが、ソロなのであまり楽しくはなかった。
カウボーイビバップのサントラをカスタムBGMに入れるとアガる。
小型艦で高速戦闘したかったが、中型以上に乗り換えて火力全開にするのが明らかに楽。
ハードそうな見た目の割にそこまで難しくない。
みんな大好きアンダーテイル。
Sansの曲が好きすぎて勝ってもリセットしてもう何回かやるよね。
4大ギルド含めてクリアしたけど盗賊と暗殺が良くて他は微妙だったな。
ゾンビのいる大型カジノでゾンビとゾンビの50倍は強い狂人と戦うゲーム。
主人公が1に比べてマトモなのではっちゃけ感は足りない気がする。
基本1本道だがそこそこ楽しい。
慣れてないせいで科学をどう伸ばせばいいのかコツが分からずあまり楽しくない。
異星人と交流しようとビーコン立てた瞬間袋叩きになったのは笑った。
アクション映画のヒーローっぽいのを操ってドッカンドッカンやるバカゲー。楽しい。
2人でやったら楽しそう。
ジャッジでドレッドな主人公が悪党を殺しまくるステルス要素ありのツインスティックシューター。
低難度は楽しいが高難度はただ面倒なのが多い。
シリーズ最高に役に立たない仲間。
見た目ポップなゼルダとメトロイドヴァニアの2身合体ぽいゲーム。
見た目に反してキャラの設定や性格が重いのでストーリーにイライラした。
ゲーム部分は楽しいが、ボス戦でゼルダ的ひらめきを要求する場面も多いのでそこは鬱陶しい。
こんなんクリアできるかクソがァ!
死に覚えアクション。
本編はよいバランス。その後は…。
「次の面」の途中で詰んだ。
最後はうんまぁそうだよねっていう。
メトロイドヴァニアというジャンルの確立された中に純然たるメトロイド直系。
隠しエンドだか真エンドだかもあるらしいがやってない。
中国産音ゲー。なんというかDiscord公式みたいなノリがキツイ。
猫好きは夏への扉読むよりこっちをやれ。
昔タダで配ってた時にもらった。勿論ソロ。
メトロイドヴァニアを買ってたら薦められた探索アクションパズルゲー。
まあまあ。
兵隊がぬるいアクションでモンハンみたいに地味に装備を強くしてくゲーム。
Broforce的なものを期待してやってたが、飽きてきたので途中でやめた。
この時コントローラーが無くて連続ダッシュがきつかったものの、クリアは出来た。
ビヨンドアースと一緒に買った。チュートリアル1回クリアでこの時間!
先は長い。
第二次大戦でスナイプというかスネークして皆殺しにするTPS。
銃声がしてもしばらくしたら飽きて帰る兵士たちのおかげで作業感強いが、
メインとは別にPCに入れてあるのでやるのを忘れる。未クリア。
自前Live2Dでゲーム配信していた時期が俺にもありました。
話題になった時買ったけど、自分の工作力の低さを露呈しただけだった。
10年くらい前にはてブでこのゲームが挙がってて、それでSteamアカウントを作ったような。
なかなか面白い。
ボスが全部色違いだけど、ちゃんと行動は変わってるので楽しめる。
セールの時に買え。
ボス戦はまあ面白いが、道中は見た目の変わり映え無くてつまらん。
オタク中学生大好きな北欧神話モチーフのボスバトルアクション。
夜中に近所の大学生がBBQパーティやっててうるさかったのでぶち殺したついでに、
アメリカ横断パーリーピーポー皆殺しの旅をするキチガイ主人公がすごい。
ゲームとして面白いことはそこまでなく、アリを人差し指限定でぷちぷち殺すような作業。
壊れたアンドロイドか何かがぶち殺したりぶち壊されたりするゴアアクションシューティングゲーム。
ショットガンで撃ち殺すと腸がビヨヨーンと伸びてもはやギャグ。
今は亡きElfのエロRPGではなく、中華エロベルトスクロールアクション。
CG埋まらないが情報なさすぎるしゲームとしては大味なので割とどうでもよい。
プレイヤー自身が主人公に指示するという体のメタ見下ろし型アドベンチャーゲーム。
完成度は高い。
説明が少なく、自力でその辺を覚えるのがメインで、覚えたら割と作業。
強度が足らずに大惨事になるまででワンセット。
たまにこの解法でよかったのかと不安になる面もあるが、安いしパズル好きなら買え。
先にEpicGames版をタダで貰ったのでsteam版のみの時間。
時砂の王とパシフィックリムの合成設定で延々と詰将棋するゲーム。
シューティング部分がぬるいので、アンビエントなBGM聞きたさにだらだらやってしまう。
久々に感触を味わおうと少しやっただけ。
表面はお手軽。裏面もそこまで難しくない。
まあまあ楽しい。
これもホッテントリか何かで見て買ったように思う。
ロシアっぽいところをうろうろするウォーキングシミュレーター。
話があるような無いような。でも言葉が分からないので分からない。
第4の壁的な要素で有名なゲームらしいのだが、英語苦手なのでよく分からないままクリアした。
カッコいいドイツ空軍士官はタイトル画面にしか出ないというレビューに激しく頷くしかない。
爽快にプレイできる腕前ではないので、ちくちくちくちくと撃破するしかなくスコアは寂しい。
HumbleBundleのバンドルに付いてくるか何かしたSFRTS。
RTSは苦手なので途中で断念。
メインが大学在学中にDownwell作ったもっぴんともう一人おっさん。
BLACK BIRDはウィッシュリストに入れたままだよごめんね。
登場した人は成功してたり、まだ同じゲーム作ってたり、消されたツイッターアカウントしか残ってなかったりと諸行無常である。
Kingdom: New Landsの古いバージョン。だいたい一緒。
30何面かで疲れた。
いわゆる脱出ゲーム。
不条理だがタダだしな…。
これ以降もあるが、序盤でダレて中断したままのがほとんどなので略す。
※K-POPの話です
SMエンタに推しグループがある人にはわかっていただけると思うが、最近SMの看板グループに熱愛報道が相次いだこの年末年始、これからの1年で使うエネルギーを全部使ったと思うくらい疲れた。
東方神起、Super Junior、EXO……。
私はELFなのでヒチョルのモモとの熱愛にそれなりにショックだったし、「マジな恋愛対象だったのか……」という驚きで1週間は鬱々とした気持ちだった。
何も恋愛されるのがショックなわけではない。
恋愛していいし結婚だってしていいと思っている。ステージの上でこれまで通り素敵な姿を見せてくれればそれを応援する。
もちろん結婚にはタイミング(グループにとっての)があるから手放しで全部賛成はできない。
でももうSJは全員兵役終わってのカムバを一旦果たしたし、これから「今だけはやめとけ」なんていうタイミングは訪れないだろう。
できれば早いうちに、っていうか40歳になる前に。
今回ヒチョルの熱愛が発覚し、私の気持ちがなんとか落ち着いた後も心を抉られたのはモモのファンだかTWICEのファンだかにヒチョルが「おじさん」と言われていたことだ。
ファンとしてはまだ現役なのにそんな風に言われたくないのだが、正直そう言う人の気持ちもわからなくはない。
歳の差がありすぎる。モモと私は同い年だが、私にとって30オーバーはもう恋愛対象ではない。
もちろん芸能界と一般の感覚は異なるだろうし、相手だってそんじょそこらの36歳ではなくキム・ヒチョルだし、一般人にも恋愛対象が年上の人は存在するんだろうけど。
歳の差があるとやっぱりちょっと、成人した二人が決めたことなのだから外野が口を出すべきではないと思いつつも「気持ち悪い」と思ってしまう。
20代の女と結婚したいんだったら百歩譲って40までに結婚してほしい。せめて付き合う段階までいっていてほしい。
私が推しの結婚賛成派で一生独身でいてくれなんて思わないのは、自分の推しが誰かを愛することができ、その人と一生を共にするという決意をできる人だったらいいな〜と思うからだ。
ファンにできるのがアイドルとしての彼らを支えることだけだからだ。ファンは彼のプライベートな部分、彼が見せてくれない部分に関しては助けになれない。そういうところはもっと身近な人に支えてほしい。メンバーはたとえ家族のような存在だとしても、やっぱ仕事仲間だ。
推しがインスタに意味深なキャプションをつけるたびに私の心のどこかが死ぬので、パートナーには推しのメンタルを支えてあげてほしい。
欲を言えば結婚相手は我々には姿を想像できないマジの一般人がいいし、それがダメなら年齢差を10歳以内にしておいてほしい。
でもそれも全部ダメでもいいからとにかくメンタル強靭な人と結婚してください。
そうは言ってもやはり他人の夫の顔がデカデカと印刷されたポスターを部屋に貼っている事実と向きあい、折り合いをつける時間は必要なので発表から1〜2週間は寝込むと思うが、それが過ぎたら私は相変わらず推しのアイドル人生を支えたい。
おそらく昭和の終わりから平成の一桁あたりでオタクカルチャーに「巨乳化現象」とでも言うのが起きてるよね?
もちろん一斉にではなく作家毎、作品毎、ジャンル毎にグラデーションはあるんだろうけど。
巨乳漫画家で知られる河本ひろしが表紙をやっていたコミックジャンボも創刊から間もないころはあんまりおっぱい大きくないんだよね。浅井裕あたりも90年代になってから露骨に胸が大きくなってきた気がする。
遊人とか、村田蓮爾や秋葉凪人あたりはあんまり巨乳というイメージはないが、
アニメだと1988年の「トップをねらえ!」は製作者が「今までアニメでおっぱい出てきてもみんな同じように描かれて来たので、ちゃんとキャラ毎にかき分けた」と言ってたかな?ユングあたりはかなりリアル寄りの巨乳描写だったね。
1995年のエヴァくらいまではそんなに露骨に巨乳キャラいなかった気がするけど同年に公開してたスレイヤーズの映画ではナーガが出てたし、翌年の機動戦艦ナデシコではミスマル・ユリカは露骨に胸が大きいのが強調されてたよね?その当たりがターニングポイントかな?
ゲームだとelfのドラゴンナイトはかなり巨乳率が高かった気がするけど、同級生ではそうでもなかったかな?
あと、キャラクターが制服などの立ち絵で普通に胸のサイズがわかるのもそれくらいからかな?
ときメモで一番大きいのは鏡魅羅だけど、通常の制服だとそれほどめだたないよね?
あと、涼宮ハルヒみたく明確に胸のサイズで大中小と明確にキャラの個性として描かれてるよね?(最近はソウナンですか?みたくみんな大きいのもけっこうあるけど)
あと二次創作で原作と比べて胸を大きくする、巨乳化もあるよね。
まとめると
て感じかな?
虎柄ビキニ鬼、パッツンセーラー服、白衣保健女医、フリフリ女子……などなど。
ただ、高橋留美子の絵が「萌え絵」かというと、わりと微妙なエリアになる。
とちらかというと絵柄は水木しげるのとなりにある気もする。
そこに描かれた絵は確かに「萌え」の記号なのだが、絵柄として「萌え」かというと微妙である。
朝起きたら、「高橋留美子みたいな絵柄になっていたらいいな」とアニメオタクが思うかというと
微妙だ。
当時のオタク(アニメ)は「好きな絵柄」という自意識が強くあって
特に「A先生とB先生を合わせて2で割ったような絵柄になりたい」みたいなのが良くあった。
それは、これまでにない新しい絵柄というものが、ティーンエイジャーの心をむんずと掴んだのだ。
その意味でいうと高橋留美子の絵は、ティーンエイジャーにとっては新しいものではなかった。
ただ、うる星やつらで見つかった、オタク好みの絵の流れというのもある。
森山ゆうじのプロジェクトA子とか土器手司のダーティーペアとかへ繋がるあのへんのアニメ絵の流れ。
描く人が憧れる要素がある。
かつて少年漫画の絵はGペンの太い線。一方少女漫画は丸ペンの細い線だった。
そういう守るべきルールがあると子供は思っていた時代があった。
この細い丸ペンによる線。
「丸ペンは繊細な人間にしか描けない!」と、実際に紙にペンで描いてみようとした男子は思うものだった。
壊れやすい砂糖菓子のような絵。アニメのセル画塗りに対し、淡い水彩が似合う。
「終末の過ごし方」とか多少それっぽい。
この2つのDNAが、混ざり合って、オタクが憧れる絵柄は色々変わっていく。
デッサンはポンコツだが、雰囲気やカラー処理などこだわる部分が魅力的な絵が多く出てきた気がする。
雫とか。
そういう時代を経て、経て、経て、今はとにかくみんな上手い。
断絶の壁がある気がする。
PCでフォトショからSAIの塗りを経て、経て、経て、2018年だしな。
大手コンビニエンスストアセブン・オンが、アルバイトに対して遺伝情報の提出を求めていた事が明らかに成りました。
この店では3年前から、アルバイト合計9人に対し頬の内側の粘膜を雇用契約時に提出させていました。
セブン・オンの本社が同店の店長へ問い質した所「当店の売り上げ金を着服した元アルバイトが、過去に同様の行為で他店を解雇された後全店で共有している注意人物一覧に離婚前の姓で掲載されていた事に気付き、名前に頼らない遺伝情報での人材管理を思い付いた」と語っているとの事です。
近年より低価格で気軽に利用できる様に成った遺伝子解析サービスですが、現状では法律の整備が科学技術の進歩に追い付いていません。法務省は各遺伝子解析サービス会社に対し、前年に策定した注意要項に配慮した形でのサービスの提供を求めています。
愛知県知事の収賄問題で、新たにドフトパンクモバイルが合計で30億円を超える献金を仮想通貨HitBitcoin経由で振り込んでいた事実が愛知高等検察庁の調査で発覚しました。
先月20日に政治資金規正法違反で起訴された青柳幹根愛知県知事。これまでに3つの団体と企業から不法な献金合計2億円を受け取っていた事実が判明していましたが、ドフトパンクモバイルの献金額は過去の汚職事件の中でも最大級と言えます。
関係者の供述を擦り合わせた所朧気ながら全容が見えてきました。
まず一昨年の1月に青柳幹根愛知県知事が父親の遺産として譲り受けた曜変天目茶碗を、ドフトパンクモバイルが開催を予定していた美術展の為に、ドフトパンクモバイル藤間久里社長に手渡します。そして2月に藤間久里社長が曜変天目茶碗を誤って海に落とし、3月に賠償金として会社から30億円を振り込んだという事です。
曜変天目茶碗は国宝級の茶碗で金額は数千万円を下らないと言われていますが、数万円程度の贋物も多く、青柳幹根愛知県知事は「父からは30億円で買ったと言われたが私は古物鑑定の専門家ではない」と断定を避けているものの、今後賠償金としての妥当性が追求されます。
先月検索サービス大手googreにて発生した世界規模なサーバーダウン。全世界の利用者凡そ20億人に影響を与え、サーバーダウンの規模としてはインターネットの発明以来とも言われました。そして遂に昨日その原因が発表されました。
原因とされたのは凡そ30年前に作られた「Elf Cloner」というコンピューターウイルス。インターネットサーバーの保守点検を自動化するソフトウェアが改変されたもので、正常に稼働しているインターネットサーバーを異常な状態にあると報告する機能が今回のサーバーダウンを引き起こしました。
これはgoogreのインターネットサーバー担当者が祖父の遺品を調べている最中、遺品のパソコンから私物のパソコンに感染し、私物のパソコンからgoogreのインターネットサーバーに感染したものと見られています。
googreの広報担当者は「コンピューターウイルスによる不具合だろうという推測は早い段階からついていたが、あまりに古い存在の為コンピューターウイルス用ソフトウェアにも検知されず、人海戦術で対応した結果解決に時間がかかった」と発表しています。
また先週からサーバーダウンを起こしているスペインバルセロナ銀行のインターネットサーバーからも同種のコンピューターウイルスが発見されたとの報告が上がっており、今後の被害拡大が懸念されます。
先月渋谷で発生した女子大生数人の意識不明事件。複数種類の酔い止め薬を調合して酒に混ぜるという手口に感心、もとい憤った読者諸兄も多かろうと思われるが、最近中国では或るおもちゃがレイプドラッグ並の扱いを受けて規制され始めたというのだ。
それが日本でも人気の変声ヘリウム缶。通常の変声ヘリウム缶であれば安全性が保証されている所、昨年から出回っている変声ヘリウム缶にはレイプ専用としか思えない機能が付いているという。
なんとガス圧を自由に調節できるというのだ。
インターネット上で広まっている手口はこうだ。
変声ヘリウム缶は「ChildSafe」機能を搭載した製品を選ぶ。これはガス圧を年齢に応じて調整するという機能で、子供の押す力であればボタンが僅かにしか押せず少量のヘリウムガスしか出て来ないので安心という機能だ。しかし押す力を制限する部品の一部をニッパーで切ると、通常の変声ヘリウム缶以上に大量のヘリウムガスが噴出される様に成る。
これをどう使うか。合コンやカラオケパーティー等で、まず男性はヘリウム缶のボタンに指を乗せ、指の付け根部分でボタン奥側を押して少量のヘリウムガスを出し声を変えてみせる。それを見て安全性を確認した女性がボタンを普通に押すと、大量のヘリウムガスが出て脳は一気に酸欠状態に陥る。そこをお持ち帰りするという手口だが、中には路上で突然このヘリウムガスを吸わされる追い剥ぎ被害も発生しているという。
事件の多発を受け中国当局は先月からガス圧の上限を定めた規制を公布したが、需要の大きさと投資分の回収の為に関連会社は向こう1~2年は製造を続けるだろうと見られている。また輸出までは規制されていない為、売り先に困った業者は国外への輸出に動き出しているという。
sdkmanagerでインストールされるツールのバイナリがことごとく以下の通り
$ file `which emulator` /data/Android_SDK/tools/emulator: ELF 64-bit LSB executable, x86-64, version 1 (SYSV), dynamically linked, interpreter /lib64/ld-linux-x86-64.so.2, for GNU/Linux 2.6.15, stripped $ emulator bash: /data/Android_SDK/tools/emulator: cannot execute binary file: 実行形式エラー ・Android Studioなどでエミュ動かそうとすると Syntax error: ")" unexpected とか謎のエラー
つまり64bitバイナリなのである。32bitバイナリは提供されない(Won't Fix (Intended behavior))。
逐一バージョン戻してもいいのだが仕様だし他のも32bit切り始めてるしメモリ4GBもしんどいし64bitやろう。うん。おかねください