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はてなキーワード: 浄土宗とは

2024-12-03

曼華教は金剛曼荼羅曼殊沙華経(曼華経)に帰依することで極楽往生を遂げるという、いわゆる大乗仏教の一派である

出家修行を要さず「曼華」と唱えることのみで往生を遂ぐという教義浄土宗浄土真宗のものに近く、伝道を行う僧は「まんげ様」と呼ばれ尊崇された。

2024-08-17

anond:20240817093953

何言ってんだお前

そうやって物事の教えを変化させるな

正統派の通りにやるべきだ

釈迦の教えをルール改変したこういうバカどもと同じことになるだろ

真言宗天台宗臨済宗浄土宗浄土真宗

日蓮宗日蓮正宗黄檗宗曹洞宗時宗

こういうバカどもが念仏となえるとか

アホなことやってるのは全て無駄!!!

大山のぶ代のやり方こそが正統派

2024-07-15

anond:20240624184904

3.5くんやね

ちなみに儒教でもキリスト教でも同じのでてくるで

インド仏教学者たちが日本の変質した仏教についてどう考えているかは、多様な見解存在します。以下に代表的意見を示します:

1. **文化的適応視点**:

一部の仏教学者は、日本仏教日本文化歴史適応して独自の形で発展したこと理解し、それを肯定的評価しています仏教が異なる文化根付くためには、現地の文化や習慣に適応することが必要であり、日本仏教もその一例として見られます

2. **教義純粋性への懸念**:

他の仏教学者は、日本仏教があまりにも日本文化や習慣に影響されて、本来仏教教義実践から離れてしまったと懸念する声もあります特に日本神道民間信仰との融合が、仏教本質的な教えを曖昧にしてしま可能性があると指摘されます

3. **歴史的背景の理解**:

日本仏教の変容は歴史的背景や社会的要因によるものである理解し、その経緯を学ぶことを重視する仏教学者もいます特に奈良時代平安時代日本仏教の発展、鎌倉時代の新仏教運動江戸時代仏教改革などについて研究し、比較宗教学的な視点から評価しています

4. **対話交流重要性**:

インド日本仏教学者間での対話交流を重視し、互いの仏教理解を深めることを推奨する声もあります相互理解を通じて、共通仏教価値観再確認し、新たな仏教の発展可能性を模索する姿勢です。

5. **実践的な仏教評価**:

日本仏教日本社会においてどのように実践されているかに注目し、その具体的な影響や貢献について評価する仏教学者もいます特に、禅仏教修行精神文化浄土宗真宗信仰実践日蓮宗社会活動などが日本社会に与える影響について研究しています

これらの見解仏教学者や学派によって異なるため、具体的な評価は多岐にわたりますが、共通しているのは、異文化間での仏教の変容や適応に対する深い関心と、そのプロセスにおける課題可能性を探る姿勢です。

2024-05-09

anond:20240509002112

フェミ自体馬鹿のための福祉なわけだけど、

そのフェミ馬鹿故に謎のお気持ち理論を振りかざしては正論パンチボコボコにされてくやちいくやちいってなってて、

そんなフェミがチー牛チー牛って連呼すれば論理もクソもないから無敵やん!って気づいたのが今なんだよね。まさに馬鹿のための福祉

馬鹿布教するために南無阿弥陀仏とだけ唱えればオッケー!ってことにした浄土宗みたいだな

2024-05-02

学歴コンプレックス卒業した 1/4


2024/9/16

みなさまへ

先日、知人の一人から連絡がありました。

要約すると「これ多分お前やろwww学内で読んだ人がいる」というものでした。

その人は私と同じ部活で、今は佛大の職員をしております

一応本文を読み直してみたところ、わかりにくい表現や、一部写真アップロード期限が切れていました。

もう一度だけ投稿します。文章もわかりにくい表現を直しています

なお、当日記には不適切表現(人間の質が低い学生体育会の横暴、その他不祥事)がいくつも出てきますが、私が在学当時の事実ありのままに書いております

何卒ご理解をお願いいたします。

最後に、もし佛大生でこちらの日記をお読みになる方に伝えます

今でも、人間として低い次元で生きている学生は多々いるものと思料します。残念な気持ちになったり、将来が不安になっているかもしれません。

しかし、学生時代自分や周りの社会のことをどれだけ考え、行動してきたかによって未来は変わります

私の同期も、近い年代の方々も、きちんと努力を積み重ねた方は、一流どころの企業官公庁社会福祉法人・NPOへの就職スポーツプロ選手社会人生活を経ての起業など、自らの道を選び取っています

卒業時にうまくいかなくても、地道な努力を積み重ねて、道を切り開いた人も存じています

大学レベル関係ありません。

過去選択がどうであろうと、現在、今を生きることでしか未来は開けません。

今後、あなた人生を失敗するのだとしたら、それは大学のせいでも社会のせいでもなく、「あなた個人が終わっている」から失敗したのです。

未来は決まっていません。

自分が将来、どういう人生を送りたいのか、どういう人間になりたいのか――その未来に向かって『今』を選択し続けてください。

道筋の中に、幸運があることを祈っています

卒業生より

(以下本文)

____________________________



約十年前に、とある4年制大学卒業した。名を佛教大学という。

高校生の頃は、仏教を学ぶための大学だと思っていたが、それはごく一部の人に限ったこである

実際には文科系総合大学だった。ちょっとだけど理系もある。

※この日記の書き出しは、同じ佛大卒の方の書かれたはてなの日記を大いに参考にしています。先達に感謝します…

なんで、この増田でこんなことを書こうと思ったのか。それは、この大学での思い出や記憶に踏ん切りがついたからだ。人生の一部に納得ができたというか。それで、卒業シーズンということで、今回書いてみようと思った。書き始めは3月下旬である。ずいぶん時間がかかってしまった。

普段から増田投稿してるわけじゃないから、ヘタクソな箇所があるかもしれん。ご容赦を。なお、「学歴コンプレックス」という言葉は、当日記中では使用していない。

佛教大学は、いわゆる中堅私大と呼ばれるところだった。平均偏差値は……なんとも言えない。理学療法士作業療法士になるための学部は高偏差値なのだが、それ以外の学部はお世辞にも偏差値が高いとはいえない。Fランクではないが、基本的には関関同立不合格だった人が入学してくる。滑り止め率が極めて高い大学である

なんで自分がここに入学たかと言うと、やはり滑り止めだ。第一志望としては同志社大学(政策学部)に行きたかったのだが、実力があと一歩及ばなかった。残りの関関同立も全滅して、残念ながらこの大学社会学部に進むことになった。

大学4年間のことはそこまで覚えてない。実際には、いろいろあったんだろうけど。

学業一生懸命に取り組んだ。授業をサボることもあったけど笑 成績はいい方だった。卒業単位が揃った後でも、まだずっと授業に出続けていた。学問が好きだった。

アルバイト金閣寺にあったマクドナルドで、部活(実態サークル)は地味めの文化系だった。いわゆる【文芸サークル】みたいな感じか。みんなでドキドキ(?)な文芸を書いてたんだが、大学生なんで、俺を含めたほぼ全員が既存作家コピペだったのが記憶に残ってる笑

ただ、今になると記憶がない。本当に記憶がない……自分はこの大学で何をしていたっけ? そんなに無為ではなかったはずだが。

学食は1人で食べることが多かった。それ以外の行動も、1人または少人数のどちらかだ。授業は半期ごとに目いっぱい取った。32単位分を。教職課程は2つ取っていた。186単位を取得して卒業したんだっけ。サークル飲み会では、やっぱり1人でちびちびと飲んでいた。大した思い出は詰まってない。

冒頭が退屈なのはよくない。本題に入ろう。まずはアブストラクトだ。

大学1回生の時に思ったんだ。「このままじゃダメだ」って。第一志望の大学に入れなかったけど、大学生活エンジョイして、就活では結果を出して、大学入試の結果をバカにしてきた家族兄弟や親戚を見返してやろうと思っていた。

でも、正直心が折れかけたよ。1回生の頃からそうだったけど、とにかく在学生の質が低すぎた。ヤバイと感じていた。ただし、これは当時の考え方にすぎない。今だと「どこの大学生でもあんなもん」くらいの緩い考え方である

当時は、実力を高めることに貪欲だった。飢えていたのだ。強い自分に。弱い自分が嫌だった。人としてレベルが低い学生を見ると腹が立った。自分がこいつらと同じなのかって思うと腹が立ってしょうがなかった。一刻も早く、ここから卒業して、立派な社会人になりたいと思った。

そういうわけで、学業とか、TOEICとか、文芸サークルとか、アルバイトもそうだけど、とにかく何でも頑張って、最後は……いい会社から内定をもらうことができた。アベノミクスの始まりの頃で、景気はゆるやかに上向いていた。

入社したところは、いわゆる一流ではないけど、佛教大学卒業者で会社員~という観点からすると、いいところだった(電子機器を作ってるところ)。

さて。ここからは、各学年の時の思い出を綴っていく。

一番最後に、今の自分気持ちを書いてみたい。



大学1回生の頃~

入学式と最初オリエンテーションが終わった後、知恩院という重要文化財のある宗教施設に行くことがあった。大学がやっている新入生向けのイベントだった。浄土宗大学だったので、そういう縁からか、知恩院僧侶の方々が歓迎的な催しをやってくれた。

今思えば、重要文化財のお堂にあれだけの新入生を詰め込んで、いろいろやってくれるってスゴイことだったと思う。

この時はまだ、この大学に悪い印象はなかった。しかし、本格的に授業が始まってからは、上に挙げたようなマイナスイメージが付きまとうようになった。大学時代日記を参考に書いていく。

以下、特定の思い出エピソードを語る場合は、太字タイトルを付けて1字下げにする。

1.授業中の男子学生

 新入生向けの英語の授業だったかな。前の席に座ってた男子学生が、先生の話を聞かずにケータイを弄っていた。先生がさ、「授業中です。携帯電話はやめなさい」って言ったんだけど、彼は聞かなかった。

 先生それから何度か指導をするんだが、やっぱり聞かない。で、そいつは「う~い、わかりやした~」みたいな感じで答えている。先日まで高校生だった人には、授業はきついのだろうか(と当時の日記に書いてあった)。

「もういい。お前は落とすっ!!!!」

 先生が小さい講義室の中で、声を張り上げた。いやあ、あれは久々にびっくりした。その学生は退出を命じられ、教室には重苦しい雰囲気が漂った。

 当方は、京都まれ京都育ちである佛教大学には、高校生の時にオープンキャンパスで来たことがあった。その時は、悪い環境じゃないなと思った。学生以外にもいろんな人がキャンパスにいた。学食には障がい者とか、ご老人とか、浮浪者の人とか、中高生とか、とにかく多様性に富んでいた。どんな人でもキャンパスに受け入れる空気感が好きだった。

 しかし、【カオス】というのは多様な方向に拡がる。それは、いい方向ばかりとは限らない。そういうものなのだ……。あと、ついでを言うと、この頃はちょうどキャンパスの再整備工事最中だった。今ではクソデカ超立派な新一号館が鎮座している。仮校舎とかもあった。実際、授業中の思い出と同じくらい、工事現場が間近にあったイメージが強い。

2.想像を絶する張り紙その他

 一般的に、若い人ってモラルが低くなりがちである。それはいい。若いんだからマナー常識もこれから勉強すればいい。

 しかしbut。自分学内で見た貼り紙の中には、「え……?」というものがいくつかあった。以下に列挙する。

(貸出物品のこと)

 多目的情報ルームみたいな施設があったのだが、職員カウンターの前にこんな趣旨張り紙がしてあった。

「今後は学生への事務用品の貸し出しは行いません。貸した後で帰ってこないことがあまりに多いためです」

 久保帯人ブリーチじゃないけどさ、俺にしてみれば「なん…………だと…………」だった。

体育館張り紙

 キャンパス内の鷹稜館(おうりょうかん)という建物には、体育館兼式辞ホールがある。飲食禁止である。昼休み中に駄弁るのもダメ。そういうルールだった。しかし、学生の中には、スポーツとかするエリア内でメシを食べたり、授業の空き時間ステージ上で寝てる人が多数いた。

 いつからだろうか、「館内での飲食や休憩はできません。見つけ次第指導します」といった貼り紙が増えていた。その際の、自分認識としては……「なんでこんな貼り紙存在するのだろう。管理者ダメって言ってんだからダメなんだよ。なんで従わないって選択があるんや?」というものだった。

 大学生になって一年も経ってなかったが、高校時代とは違う風景がそこにあった。大学自由なところとは聞いていた。でも、俺が想像していたのはこういう自由ではなかった。

コピーカードのこと)

 何円だったかは忘れたが、学内のどっかで【コピーカード】を販売していた。ただ、部活(サークル)が小説などを書くところだったんで、印刷物を刷る時の負担が大きいんだよな。100%公的もの(ex.学内新聞関係)だと部活動費で賄えるが、個人趣味出版物だと難しいものがある。

 同じ部活にいた文学部学科は忘れた)の女の先輩が、趣味同人誌を作ってたんだけど。その人が、ゼミ教授から一時的に借りているコピーカードがあって……教授が持ってるコピーカードって、枚数無制限なんだよな。もしくは1万枚とか度数があったと思う。

 もうわかってるとは思うが、その先輩は、印刷無料販売用のマイ同人誌を大量印刷していた。確かあれは、『TIGER & BUNNY』か『ギルティクラウン』のどちらかだった。さすがに今では、どっちか思い出すことはできないけど。

  「先輩、それヤバいっすよ」と言ったけど、先輩は素知らぬ顔で答えるのだ。

増田君。文学活動にはね、お金必要なんだよ。これも社会のためだと思って、見逃してほしいな♪」

 だってさ。あまりクールだった。いやぁ、あの時は痺れたね……笑

 (参考:https://d.kuku.lu/m3mguzmej)

 ※度数1000のコピーカード画像自分教授から借りてそのままだった笑

この頃から自分は佛大の学生とは距離を置こうと考えていた。

早く、とにかく早く実力を身に付けたい。レベルが高い社会人になるべく、今から努力を積み重ねるのだ!! この課題については、なんとしても早く――昨日のうちにでも達成する必要がある。

そして、大学卒業後は、一流どころの大企業へ。そんな牧歌的なことを考えていた。

https://anond.hatelabo.jp/20240502193039

2023-11-21

anond:20231119081534

いまのごく普通の日本人はそれほど学会嫌いじゃないと思う。学会員の活動家に聞くと、反学会のやつは正体を隠したのが多いそうだ。

  

最大の敵は日本共産

貧乏人と病人の集まり」と揶揄された創価学会日本共産党は、ともに社会の最下層に支持者を広げ、その構成員を奪い合う犬猿の仲

  

それと、顕正会員、日蓮正宗檀家日蓮宗檀家は、創価学会を目の敵にしている。これは日蓮系で同族嫌悪

  

また、創価学会折伏大行進に恐れた敵対勢力、または信者を奪い合った他の宗派で、

一昔前なら、幸福の科学信者立正佼成会信者真如苑信者天理教信者など新興宗教敵対した団体

そして、念仏宗檀家浄土宗檀家など各宗派創価学会の広がり方が半端なくて、存在のものを脅かされたから、そうとう憎んだみたいだね。

2023-09-25

anond:20230922182937

他力本願」というのは浄土宗言葉で「阿弥陀如来(他力)によって解脱(本願)を達成する」ことをいう。仏教用語として使われるのは日常語として使われるものとまったく意味が違う。

日蓮宗日蓮正宗に限らない)は「日々の修行でお前自身悟りに至れ(即身成仏)」を言うので「他力本願」を批判する。

浄土宗は「凡夫には悟りを開くことはできない」と説くので「即身成仏」を批判する。

よってこの二者は鎌倉時代から犬猿の仲である

その理解レベルだと「まず仏教教義一般を学べ」「受験政経倫理レベルに到達してない」って言われるだろうな。

2022-09-21

anond:20220921104157

創価浄土宗なんか数の力で圧倒されて一瞬で戦争終わるわ

2022-09-08

知り合いの坊さんが禅のセミナーやっていた

お前のところ浄土宗だろ!?

禅いうほど関係ないだろ?

2022-08-18

うちの実家浄土宗やってんけど「法然上人はただ念仏さえ唱えれば極楽に行けるとおっしゃられていたのでこの教えが歪められないようちゃんと伝えていってね」みたいな内容のお経を唱えた直後になんか戒名とかお墓とか法事とかの話をしだす坊さんどうなっとるん?

2022-06-25

anond:20220625061804

無宗教だというのは、それは私は無神論者ですって言ってることになる

論理破綻している。

宗派に属することと、無神論者であるか否かは関係ないだろ。

どこの宗教的コミュニティにも所属していない人が、神を信じていることはありえるからな。

逆に、私は無神論者だが浄土宗信者だぞ。

檀家制度によって先祖と同じ宗派に属することが生まれながらに決まっているだけで、神を信じていないからだ。

2022-02-08

anond:20220208145326

23歳で初めて藤澤清造作品出会った時は「ピンと来なかった」というが、29歳の時、酒に酔って人を殴り、留置場に入った経験から清造に共鳴するようになり[3]、以来、清造の没後弟子自称し、自費で朝日書林より刊行予定の藤澤清造全集(全5巻、別巻2)の個人編集を手掛けている。

清造の墓標を貰い受けて自宅に保存している他、1997年ごろから[3] 清造の月命日の毎月29日には清造の菩提寺浄土宗西光寺(石川県七尾市)に墓参を欠かさない。2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、清造の墓の隣に自身生前墓を建ててもいる。

 

藤澤清造に心酔していたこから石川県七尾市にある藤澤の墓の隣に自身生前墓を建てていた。



安らかに眠れ

2021-04-06

anond:20210406154303

/*追記

朝起きたらブクマがいっぱい付いててびっくりした。これは、素人増田素人論考です。増田本人は無宗教消極的無神論で、円滑なコミュニケーションのために宗教行事に喜んで参加します。身近には浄土真宗浄土宗日本プロテスタント福音派ゆるふわユダヤ人などがいます

末尾に追記しました。

追記*/

無神論無宗教(≒特定宗教に強くコミットしていない)は違います

無神論は、神はいないという"積極的な"主張であり、ひねくれた言い方をすれば「無神論教」と言えます

ちなみに、「カトリック自由な感じではなく、プロテスタント自由な感じ」というのも偏見のように思います

(おそらく、自分自身カトリック教会に行ったことがなく、周囲のプロテスタントからそう聞かされているだけでは?)

仏教について

仏教は、立場にもよるが、本来的には神のような超越存在はいないと考えていると思います哲学に近い。

神道について

ご存じ八百万の神なので、多神教そもそも1人(1柱?)ではないし、「私"だけ"を信仰しない者、異教の神を信じる者は滅びる」という嫉妬深い神はいません(or少ない)。そもそも日本語の「カミ」というものは、本居宣長古事記伝第3巻によれば「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの優れたるのみを云ふに非(あら)ず、悪しきもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」となっていて、今っぽく要約すると「SUGEE存在全般」という意味でしょうか。アブラハム系の神とは大きく違います

一神教多神教の違い

特定の一宗教コミットすることを求める一神教に対して、上記の通り仏教は厳密・本来的には教義無神論であり、神道八百万である点が大きく異なると思います神社に行って賽銭を投げても、仏教葬式に参列しても、そこにいる超越存在"のみ"にコミットすることにはならないのだと思います

プロテスタントとのことですが、どういった宗派ですかね。

いわゆるリベラルとされるグループでは都合良く「ゆるふわ」で通るかもしれませんが、福音派とかであればそうもいかなそう、と思うのは私の偏見、、でしょうか。

以下、追記

watchcat

無宗教特定宗教に強くコミットしていないは定義おかしい。神道仏教宗教なのだからコミットの強さは問われない。

まったくその通りですね。「強くコミット」っていうのが違うのかな。特定宗教信仰している意識があるかどうか?多神教&掛け持ちOK宗教だと話がややこしい。

cameraojisan

無宗教特定宗教に強くコミットしていない、って広く共有されてる感覚なの?元増田は「それゼロじゃないじゃん」という主張だと思ってた

ごめんなさい、適当レスポンスしただけです。こんなへぼテキストに反応が集まってしま申し訳ない。

ak248

多神教的考えや習慣を一神教の人は理解できないってことかな。あとカトリックの方がプロテスタントより厳しいルールが多く、信者以外は行事に参加できないと思ってたのですが違います?教えて詳しい人

カトリックの方が伝統や慣習を重視していると言う点で、厳しいルールが多く見えると言うことかも?プロテスタントにその種のルールはないが、ゴリゴリ福音派だと聖書に従って生きるという(別の種類の)厳しいルールがあると感じる。

2021-01-31

anond:20210131190538

仏教学科はどの大学ドン引きするほど偏差値低いけどそれはそれとして、

佛教大学浄土宗龍谷大学浄土真宗本願寺派大谷大学浄土真宗大谷派高野山大学真言宗と、

実家の寺がどの宗派かによって僧侶資格を得られる大学限定されるのよ。

龍谷大学のほうが良さそうと思っても実家臨済宗妙心寺派なら花園大学行くしかない。

先生はわざわざ青森から花園大学へ進学してるあたりからしてまあそういうことなんだろう。

重ねていうけどさる先生が実際だれなのかは知らないからね。

2021-01-30

救済宗教としての大乗仏教

鈴木大拙大乗を情の仏教上座部を理の仏教だみたいに書いてたけどまさにそれ。

でも上座部立場から言わせれば、情でどうするんだと。

なんとなく寄り添って、肩入れして、励まして、あとはお経を唱えるだけで阿弥陀様が救ってくれるからねとかいって、それで解決するのかと。

ちゃん仏法を説いて、理屈説明して、実践手段を与えて、やらせて、指導して、時に「だらしねえぞ」としばいて、頑張らせる、当人が頑張るのが仏教でしょうと。

時代が違うから、救済宗教としての大乗仏教需要がなくなっているのは仕方がない。

もともとの仏教は、個人出家して修行したり知識を得たり戒律を守ったりすることで救われるという宗教だった。そういう自助によって救われるというのは現代の目から見ると納得感があるけど、古代中世時代にはそうとも言えない。

古代中世では庶民は生きるだけで精一杯。戒律を守っている余裕なんかないし、そもそも識字率が低い時代だと仏教教義を知ること自体が困難。

そうすると、救われるのは高位聖職者と金持ちだけになってしまう。そうした人間けが天国に行ける宗教って何よ!?という問題意識からまれたのが大乗仏教。「○○するだけで救われる」というのは、現代から見れば安易に見えるけど、古代中世において庶民を救うには必要なことだった。

から現代視点から大乗仏教宗教堕落みたいに言うのは間違ってる。

ちなみに、律法を守ることを重視するユダヤ教ファリサイ派に反発して、「人が救われるのは律法を守ることによってではなく、神を信じることによってだ」と主張したのがイエス・キリスト。だからキリスト教聖典には、極端に○○せよ~などの決め事がない。

以下の浄土真宗コピペも、以上の理屈を知っていればよくわかる。

比叡山修行した法然

浄土宗

ぶっちゃけ悟って仏になるの、俺ごときでは無理(←このへんが日本人謙遜)働いてる一般人なんかもっと無理。今の仏教は金と暇のある金持ちしか役立つ可能性がない。

でも安心しる。阿弥陀様って偉いお方が、自分が十分にレベルうpしたらおまいらも引っ張り上げてやんよ、ていってる。これはそこに張るしかないっしょ。

はらたいらさんどころじゃないよ。「あみださまに、全部」 さあ何度でもいいつづけよう

親鸞浄土真宗

法然さまはおおむね正しいけど、阿弥陀様なめすぎ。念仏言った回数で差別するような方じゃねえはずだよ(←このへんが日本人的舶来びいき)心に思うだけで、修行とか、戒律とか自分をどうにかする必要もないよ。だから俺なんか結婚だってちゃうもんね。ただ阿弥陀様に乗ればいいのさ

一遍時宗

おまーも阿弥陀様なめすぎ。あの方は信者だろうと何だろうと、一切区別しないの。つまり俺たちは阿弥陀様のおかげで勝ち組。もう決まってんの。(←日本人暴走)だから感謝の踊りを踊ろうぜ、let’s dance!

https://anond.hatelabo.jp/20210130183106

2019-06-18

自己責任文脈 救済の優先順位

もう自己責任って単語聞いただけでアレルギー反応起こしてる手合がいるけど、いい加減イライラしてたのでここいらで自己責任と言っている人の文脈説明する。

まず当たり前だけど、何でもかんでも弱者境遇のすべてが自己責任だと言っていない。

社会の果たす責任が足りていないというのもあるが、逆に言い換えれば弱者責任が全く無い、なんて言い訳も許すはずがない。

で、じゃあ何を主張しているかと言うと、全ての弱者が同時に救済される訳がなくて、誰から救済すべきかという優先順位の話をしている。

医学的に言えばトリアージだけども。

感情的に見れば、一番不幸な人から救済すべきだというのもいる。左派はだいたいこれ。

一方、救済にふさわしい人間、すなわち何らかの努力をしている人間から先に救済すべきだというのもいる。

自己責任文脈はまさにこれ。救済にふさわしい人間になってない、という意味での自己責任

ちなみに浄土宗だと阿弥陀如来は誰から救済するのかと言うと、善人でもなく悪人でもなく、ただ単に阿弥陀如来と縁が近い人間からだそうだ。

だいたい宗教綺麗事だけでなくこういう割り切りが上手い。

別に一番不幸な人間か、ふさわしい人間かどうかもどっちもタダの感情論しかなくて、この段階ならイーブンだけど、実利が絡むと話が違ってきて、ふさわしい人間を救済したほうがその後ちゃん社会利益をもたらしてくれるでしょう、という話になる。

結局一番強いのは実利が絡む話なので、努力してない人間優先順位はどんどん低くなる。

これが自己責任文脈だ、分かれよそれくらいという気分だけど。

2019-06-08

パートナーを持つ人が羨しい

僕は27歳の理系大学院生だ。

国立大学研究室に通い、研究生活は良いスタートを切れていると思う。

先日も、僕がファーストオーサー論文に、すごくポジティブなreferee commentが返ってきた。

指導教員は、いわゆるブラック研究室とは無縁の人で、教育的配慮の行き届いた接し方をしてくれており、不満はない。

なにより、こんな年齢でも実家暮らし学生をさせてくれている両親に、最大の感謝をしないといけない。

ただ、巷間言われるように、理系学生には、同世代女性と知り合う機会が全くと言っていいほど無い。

僕も例外ではなく、先月会話をした身内以外の女性は、顔見知りの中華料理屋のおばちゃんくらいだろう。

趣味の場に出会いを求めよとの声も聞こえるが、僕は生憎ハードコアアウトドア活動趣味で、これがガチガチの男社会なのだ

かといって、クラブナンパする勇気もなく、マッチングアプリを使う気も起きず、ともかく恋愛に対して、浄土宗の如く他力本願的な態度を取ってきたのである

そんな感じの僕は、彼女が今まで27年間の人生で一度もいたこともなく、二人きりで出掛けたことのある女性は一人を除いて存在しない。

その女性Aとは昔の知り合いであり、ひょんなことから再会し、似たような趣味を持っていたこから、二人で食事などに出掛けるような関係になった。

何もすることなく、そんな中途半端な期間が1年くらい続いた。

モテない童貞(これがポリコレ的にNGなのは認識しているが、恋愛における自らのダメさを手っ取り早く表現する目的なので、海容を願う)である僕には告白する勇気もなく、時間が過ぎた。

2年ほど前のある日、女性Aからまりがけの旅行に誘われた。

ようやく何かが進展するのではと、当然期待は高まる

意気揚々と落ち合った途端、女性Aから彼氏がいると告げられた。

目の前がグラグラしたが、とりあえず旅行は無事に終え、僕は、餅で押し出された二年グソのように女性Aに告白した。

そのとき可能性は確かに存在し、僕と付き合うとメールをもらったが、女心と秋の空、すぐに、やっぱり僕とは付き合えないと二伸があった。

前置きが長くなったが、彼女がいない僕でも考察するに、パートナーという存在を持つ人は、本業にとてもポジティブフィードバックがかかっているのだろう。

僕は色々あって、研究室には年下の先輩がいるのだが、彼は非常にアクティブに成果を挙げている。

彼女を持つ彼は、彼女からすごく好意を持たれているのだと(聞きたくもないのに)教えてくれる。

僕はと言えば、還暦を目前にした夫婦の冷え切った仏頂面が家で待つのみだ。

毎日携帯自分を好いた人からメッセージをもらうことは、研究にとてもポジティブ効果をもたらすに違いない。

もちろん、両親は僕の研究したいという進路選択応援してくれる、最大の理解者だ。

両親を悪く言いたい意図は一切なく、パートナーを持つという状態効用を思っただけだ。

極めて幸せ境遇にいる僕は、功利的で我侭なことを考えているに過ぎない。

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