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2022-08-29

[]園部秀雄

史上最高の薙刀剣士とされる女性

1870年仙台藩馬廻役・日下陽三郎の六女として生まれる。

幼名は「たりた」で、これは両親が子沢山だったため「子供はもう足りた」という意味で名付けられたという。

ちなみに彼女の下にはさらに妹がおり、「誤って産んだ」ので「あや」という名前だったとか。

16歳で見学した撃剣興行の、佐竹茂雄夫人薙刀に魅せられ、家を飛び出して直心影流薙刀術に入門する。

師匠である佐竹鑑柳斎・茂雄夫婦の撃剣会に帯同し、各地の興行に参加して、20代にして「美人剣士」の勇名を轟かせる。

入門三年目にして直心影流薙刀術印可と「秀雄」の名を授与され、「日下秀雄」と名乗るようになる。

1896年直心影流薙刀術の第十五代宗家継承する。

同年に直猶心流剣術の十一代目・園部正利と結婚して「園部秀雄」となる。

1899年の第4回武徳祭大演武会において、唯一の女性剣士として出場、

幕末の人斬り・渡辺昇と戦い、渡辺竹刀を投げ出して降参したという。

当時の渡辺は61歳ではあったが、秀雄の戦歴のなかではこの試合特に有名である

その後、渡辺の高弟である堀田捨次郎に一敗を喫したとも、生涯不敗だったとも言われる。

後年には女子学習院を始めとして多くの女学校薙刀師範を務め、

また道場修徳館」を設立して薙刀教員を育成するなど、女子教育としての薙刀術普及に大きく貢献した。

1963年、93歳で亡くなった。

2021-06-23

ネトウヨは明確な社会問題だと思う

ぶっちゃけ公害だと思っている。

ネトウヨ発言内容ではなく、ネトウヨというフォーマットが。

何か論争があるとネトウヨ文法に絡み取られて正常な議論が進まず、イデオロギー問題すり替えられてしまう。

ネトウヨというフォーマットは非常に危険公害だ。

「左のネトウヨ」という言葉もあるように、「ウヨであるか「サヨ」であるかはもはや関係ない。

ネット上のネトウヨフォーマット初期化すべき時に来ている。

マジでやばいぞ。

そもそもネトウヨとは何なのかという話になるけど、これの定義は難しい。

古谷経衡は「中韓朝日新聞が嫌いな人」と定義したことがあったが、これはもう当てはまらない。

彼らの嫌いなもの日進月歩で増え続けており、もはや何が嫌いかで語ることは不可能だ。

宗教で考えるとユダヤ人のようなものかもしれない。ユダヤ人定義は一応あるが実態あいまいで、「何となくユダヤっぽい」文化集団の一員であることをもって他者からユダヤ人認識される。

ネトウヨ自身何か定義してるわけでも、入信の儀式をするわけでもないが、「なんとなくネトウヨっぽい」思想集団のことをネトウヨ他者呼称する。

丸山眞男右翼的な傾向を下記の10項目でまとめていて、これがよくできているように思うので、これを狭義のネトウヨ定義としてもいいのかもしれない。

(1)他のあらゆる忠誠に対する国家的忠誠の優先

(2)平等国際的連帯を強調する思想宗教への憎悪

(3)反戦平和運動に対する反感情、「武徳」の賛美

(4)国家的「使命」の謳歌

(5)国民伝統文化を外部から邪悪な影響から守れというアピール

(6)一般権利よりも義務自由よりも秩序の強調

(7)社会的結合の基本的紐帯(ちゅうたい)としての家族郷土の重視

(8)あらゆる人間関係権威主義的に編成しようという傾向

(9)「正統的」な国民宗教または道徳確立

(10)知識人あるいは自由職業人に対して、彼らが破壊的な思想傾向の普及者になりやすいという理由から、警戒と猜疑の念をいだく傾向。

単にネトウヨを「政治関連で特定思想をもって話す人物」に固定すると話はこれで終わるのだが、

興味深いのはネトウヨのように発生した別のムーブメント複数見られる点だ。

冒頭に書いたネトウヨフォーマットである

覚えている人は少ないかもしれないが、かつて野球で「イボゴキ論争」という物があった。

野球選手松井秀喜選手イチロー選手のどちらが優れているかという論争で、この論争での書き込みネトウヨそのまんまだったのである

もう一つはゲハ戦争がある。

これも任天堂ソニーのどちらが優れたゲームハードを擁するかという論争で現在も続いているが、これまたネトウヨのもののやり取りが続いている。

似たような論争は他のジャンルにもあるだろう。

今後も似たような論争は生まれてくるはずだ。

ネトウヨというのは単なるネット上での政治的論争に収まるものではなく、より広範な、ネット社会でのフォーマットになっている。

日本人ネットを使い始めると同時にこのネトウヨフォーマット汚染されるので、「これはおかしいことだ」と思わなくなっている。

しかしその害毒は明確に社会を毒し、家族を侵し、個人を害している。

ネトウヨフォーマットはある種の依存症を生み出し、そのフォーマットの中でしかものを考えなくなる。

例えば、ある意見を見て「これは右か左か」「敵か味方か」「どの陣営発言か」を先に気にするようになる。それに沿った思考しかできなくなるという恐ろしい病である

21世紀最大の公害はこの思考汚染だろう。

AI時代必要とされる人間判断力を根こそぎ奪う、恐ろしい公害だ。そしてこれは人の死に直結することでもある。

とりあえず、普遍的公害としての名前を新たに作ってほしいところではある。

ネトウヨという名前矮小化されてしまうことで、この公害の恐ろしさが過小評価されてしまっている。

ネトウヨになるのは知性がないから」みたいな「鬱病は甘え」と同レベルの話に堕してしまう。

マジでやばいぞ。

2021-03-02

日本建築空間』における建築百選

anond:20210301191826

 

増田の蛮勇には敬意を表したいが、さすがに突っ込みどころが多すぎる。

同種の百選としては2005年新建築臨時増刊『日本建築空間』(asin:B00GUJ1HIE)がある。

https://japan-architect.co.jp/shop/special-issues/book-110511/

2005年なので現存しないものや非公開の私邸が含まれるけれども、優れた選出だと思うので紹介したい。

 

古代 592-1180

法隆寺西院伽藍飛鳥時代奈良
新薬寺本奈良時代末期 奈良
山寺八角763年奈良
平等院鳳凰堂 1053年 京都
浄瑠璃寺本堂 1107年 京都
三仏寺投入堂(三仏寺奥院) 平安時代後期 鳥取
高蔵寺阿弥陀堂 1177年 宮城

中世 1180-1543

浄土寺浄土 1194年 兵庫
東大寺南大門 1199年 奈良
長寿寺本鎌倉時代初期 滋賀
西明寺本堂 鎌倉時代初期 滋賀
熊野神社長床 鎌倉時代初期 福島
法界寺阿弥陀堂鎌倉時代初期 京都
厳島神社社殿 1241年 広島
永保寺開山堂 1352年 岐阜
東福寺龍吟庵方丈 1387年 京都
正福寺地蔵堂 1407年 東京
吉備津神社本殿拝殿 1425年 岡山
慈照寺東求堂 1485年 京都

近世 1543-1853

妙喜庵待庵 1581年 京都
園城寺勧学院客殿 1600年 滋賀
園城寺光浄院客殿 1601年 滋賀
妙法院庫裏 1604年 京都
大崎八幡宮本殿・石の間・拝殿 1607年 宮城
三渓園聴秋閣 1623年 神奈川
二条城二の丸御殿 1626年 京都
西本願寺飛雲閣 1628年 京都
西本願寺書院 1633年 京都
延暦寺根本中堂 1640年(再建) 滋賀
三渓園臨春閣 1649年 神奈川
曼殊院書院 1656年 京都
桂離宮 1663年 京都
慈光院書院 1672年奈良
江川住宅江戸時代前期 静岡
閑谷学校講堂 1701年岡山
東大寺大仏殿(東大寺金堂) 1705年(再建) 奈良
大峰山寺本 1706年奈良
大国住宅 1760年岡山
岡山後楽園流店 江戸時代後期 岡山
栗林公園掬月亭 江戸時代後期 香川
角屋 1787年京都
さざえ堂(旧正宗寺円通三匝堂) 1796年福島
大徳寺孤篷庵忘筌 1799年京都
渡邉住宅 1817年 新潟
羽黒山三神合祭殿 1818年 山形
高野住宅江戸時代後期 山梨
金比羅大芝居(金丸座) 1835年 香川
岩根沢山神社本殿庫裏 1841年 山形

近代 1853-1945 ※は現存しないもの

柏倉家住宅座敷蔵 1866年山形
旧大明寺聖パウロ教会堂1879年愛知 ブレル、大渡伊勢吉(棟梁)
宝山寺獅子1882年奈良吉村太郎(棟梁)
風間住宅1896年山形
武徳殿 1899年京都 松室重光
花田家番屋 1905年北海道
吉島住宅1907年岐阜西田伊三郎ほか(棟梁)
古谿荘 1909年静岡
高松城披雲閣 1917年香川清水
住友ビルディング1926年大阪住友合資会社工作部(長谷部鋭吉・竹腰健造)
聴竹居1927年京都藤井厚二
大倉精神文化研究所本館 1932年神奈川長野宇平治
軽井沢 夏の家 1933年長野 アントニン・レーモンド
※両関第二工場酒蔵 1933年秋田
日向別邸 1936年静岡ブルーノ・タウト
近江神宮1940年滋賀 角南隆、谷重雄
前川國男1941年東京前川國男
吉田五十八1944年神奈川吉田五十八

現代 1945-2005 ※は現存しないもの

神奈川県立近代美術館 1951年神奈川坂倉準三
斎藤助教授の家 1952年東京清家清
コアのあるH氏のすまい 1953年東京 増沢洵
南台の家(吉村順三邸) 1957年東京吉村順三
八幡浜市立日土小学校1956年愛媛松村正恒
香川県庁舎 1958年香川丹下健三
スカイハウス(菊竹清訓邸) 1958年東京菊竹清訓
ホテルオークラのメインロビー1962年東京谷口吉郎
日本生命日比谷ビル(日生劇場) 1963年東京村野藤吾
国立屋内総合競技1964年東京丹下健三
大学セミナーハウス1965年東京 吉阪隆正
千代田生命本社ビル1966年東京村野藤吾
白の家 1966年東京篠原一男
塔の家(東孝光邸) 1966年東京東孝光
※虚白庵(白井晟一邸) 1970年東京白井晟一
KIH7004 1970年東京鈴木
中銀カプセルタワービル1972年東京黒川紀章
大分県医師会新館 1972年大分磯崎新
プロジェクトマグネット1973年店舗模型倉俣史朗
阿部勤邸 1974年埼玉阿部
北九州市中央図書館1974年福岡磯崎新
幻庵 1975年愛知石山修武
上原通りの住宅1976年東京篠原一男
中野本町の家 1976年東京伊東豊雄
小篠邸 1981年兵庫安藤忠雄
弘前市斎場1984年青森前川國男
SPIRAL 1985年東京槇文彦
バーオブローモフ1989年福岡倉俣史朗
海の博物館1992年三重内藤廣
豊田市美術館1995年愛知谷口吉生
ウィークエンドハウス1998年群馬西沢立衛
せんだいメディアテーク2000年宮城伊東豊雄
横浜港大さん橋国際旅客ターミナル2002年神奈川アレハンドロ・ザエラ・ポロ、ファーッシド・ムサヴィ
金沢21世紀美術館2004年石川妹島和世西沢立衛

2019-02-05

拝み屋郷内 花嫁の家

ホラー小説を読みたい気分だったので人気のこの作品を読んでみたのだが、あまりにひどい文章なので序盤でリタイアした。

「実話怪談」という体裁のはずなのだが、華美な単語意味もなく回りくどい言い回しで飾りすぎていて、「実話感」がゼロ

本の一話目は体験者の一人称で語られるのだが、もうこの時点で読む気がなくなってしまった。

わたし立花昭代から椚木昭代になったのは、昭和五十五年の九月。

山々に生える樹々が赤や黄色に色づき始めた、季秋のある晴れた日のことでした。

わたしが契りを結んだのは椚木家の家督息子で、名を武徳といいました。



ひどい。なんなら笑える。

昭和55年(1980年)で「契り」って。「山々に生える樹々が赤や黄色に色づき始めた」って。イデオンとか金八先生がやってる時代に、おまえだけ戦後か。

しかも著者(主人公)の職業が「拝み屋」なもので、「中禅寺秋彦にあこがれる中学生が書いた小説」のようだ。

この話は「家の周りでなんか生き物が吼えてて不気味」という内容なのだが、それに「月に吠える」(萩原朔太郎)と名づけるセンスにもゲラゲラ笑った。実話怪談だぞこれ。

そのすぐ後で、著者が巻き込まれ事件も語られるのだが、ここもひどい。

著者に助けを求めてきたシングルマザーが、深夜に娘を家に置き去りにしてきたことに気づくってだけなのに、なぜこうも回りくどいのか。

と、そこへ突然、何かとてつもない違和感を覚える自分がいた。

初め、違和感の正体がなんなのか分からなかった。が、千草が私の仕事場へ訪れるまでの経緯をひとつずつ思いだしていくにしたがい、ようやくはっとなって蒼ざめる。

「娘さん、今誰に見てもらってるんですか?」

そこで千草も「あああっ!」と悲痛な叫びをあげることになった。



普通小説でもトロくさい文だが、何度もいうけど、実話怪談なのであるドキュメンタリーなのである

しかも著者本人は服装にも無頓着な色黒のおっさんである

似合わないことはなはだしい。

こんな調子はずれの文章をみんなよく真面目に読んだり怖がったりできるなと、そっちの方がよほど不気味だった。

好評はサクラであることを願う。

 
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