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はてなキーワード: 本吉とは

2024-12-02

ごちゃまぜという意味の「ちゃんぽん」と料理の「チャンポン」は関係があるのか?

以下、ごちゃまぜという意味言葉は「ちゃんぽん」、料理のほうは「チャンポン」と表記する。

まず辞書では、

ちゃん‐ぽん[名・形動]《「攙和」の中国からか》

1 2種類以上のものをまぜこぜにすること。また、そのさま。「日本酒ウイスキーちゃんぽんに飲む」「話がちゃんぽんになる」

2 肉・野菜などをいため、小麦粉に唐灰汁を加えて作った中華風の麺と一緒にスープで煮た長崎名物料理

ちゃんぽん(チャンポン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

たいていは先に書かれるほうが古い用法なので、ごちゃまぜの「ちゃんぽん」のほうが先にあったということだろう。

しかWikipediaで「ちゃんぽん」を調べると、いくつかの語源説が出てくる。

なかでも「攙烹」説「吃飯」説「喰飯」説などは、明らかに料理が前提にあるので、「チャンポン」が先でないとおかしいように感じる。

ざっと検索たかぎり、「どちらが先にあったか」を明言しているところがほとんどなかったので、ちょっと調べてみた。

結論から言ってしまうと、「ちゃんぽん」のほうが先である

ちゃんぽん」は江戸時代からあった言葉で、三好一光『江戸事典』や、

ちゃんぽん 交互、又は両天秤にかけるをいう。

非人一「そんならお志は附けたり」非人三「女の詮議半分」中間「両方掛ければ、これがちゃんぽん」(南北、独道中五十三駅)

前田勇『江戸語大辞典』にも掲載されている。

ちゃんぽん ①彼と此と入り混じること。まぜこぜ。ごちゃまぜ。文政五年・花街鑑 下「芸者の滑稽、チリツンテン、ちやんぽんの大さはぎ」②交互。かわるがわる。文政九年・契情肝粒志 二上「何時でも下馬一枚を棒組とちやんぽんで」

この「ちゃんぽん」の語源説は主に二つある。

ただ、前者は「鉦」が中国楽器、「鼓」が日本楽器から、という説明がくっつくことがある。

また後者は、中国人を「ちゃんちゃん坊主」などと言ったのは「鉦の音」に由来するというので、この2説は薄っすらとつながっていることになる。

一方、料理の「チャンポン」が生まれたのは明治30年代だとされる。

長崎明治32年創業した「四海樓」という中華料理店の「陳平順」という人が中国留学生向けに作ったというのが定説である

ちゃんぽんルーツ福建料理の『湯肉絲麺(とんにいしいめん)』である。湯肉絲麺は麺を主体として豚肉椎茸、筍、ねぎなどを入れたあっさりしたスープ。これに四海樓の初代 陳平順(ちんへいじゅん)がボリュームをつけて濃い目のスープ豊富な具、独自のコシのある麺を日本風にアレンジして考案したものが『ちゃんぽんである

今日では缶詰冷凍など保存技術の発達により食材が年中あるが、当時は、そういうわけにもいかず苦労していた。そこで長崎近海でとれる海産物蒲鉾竹輪イカ、うちかき(小ガキ)、小エビもやしキャベツを使い、ちゃんぽんの起こりとなった。

ちゃんぽんの由来 | 中華料理 四海樓

ただ、これもなかなか難しいところで、「支那うどん」と呼ばれる同種の料理は他にもあったらしい。

四海樓でも当初は「支那うどん」という料理名で出されていて「チャンポン」とは呼ばれていなかったという。

以下、チャンポン支那うどんに関する、明治から大正にかけての記述を並べてみる。

明治40年『長崎紀要』では「チヤポン」が紹介されている。

「チヤポン」(書生の好物)

今は支那留学生の各地に入込めるが故珍しきことも有らざるべし。市内十数個所あり。多くは支那人の製する饂飩に牛豚雞肉葱を雑ゆ故に甚濃厚に過ぐれば慣れざるものは、厭味を感ずれども。書生は概して之を好めり

チャンポン」ではなく「チャポン」になっているのは誤字なのかわからないが、後述の「吃飯」説の傍証としてよく引き合いに出される。

明治41年『中學文壇』では「支那うどんチャンポン」であり、長崎固有の料理だと言っている。

支那ウドン 長崎只一の固有の名物長崎では「ちやんぽん」と言つて居る


明治41年『ホトトギス』でも同じく「支那うどんチャンポン」。やはり「チャポン」は誤字だったのではないか…?

長崎名物 一、チヤンポン 支那うどん、俗にチヤンポンと云ふ、東京だッてこんなうまいものはめッたにありやしない


大正3年『長崎一覧』には「支那饂飩元祖三角亭だ」と書かれている。

支那うどんも亦長崎名物の一つである 名の如く支那より伝つたうどんである 日本人の初めて製造せし人は大波止三角亭の上田百十郎氏である。氏は初め今の九州日の出新聞の所で飲食店を営んで居た、支那うどんを創めたのは明治三十二年であつて、創めた当時はあまり歓迎せられなかつた

大波止三角亭は大正年間に「支那うどん元祖大波止三角亭」という広告をあちこちに出していたようだ。創業年の明治32年四海樓と同じ。

大正7年『漫画巡礼記』の著者は「近藤浩一路」という人で静岡育ち東京住まいらしいが「支那うどんについては皆さんご存知だろう」という書きぶりである

長崎名物のうちにチヤンポンといふがある。チヤンポンとは支那うどん異名と聞いたら何だつまらないといふかもしれぬがこれが仲々莫迦に出来ない代物であるエビ豚、牛肉蒲鉾ねぎ其他種々のものがチヤンポンに煮込んであるから其名が起つたのであらう、先祖支那うどんと銘うった家が長崎市中到る処に見られるが、これが皆なチヤンポンだから驚く

また四海亭(四海樓のことか)の紹介もある。

しかし其中でも支那町の突当りにある四海亭が最も代表的なチヤンポンを食はせるといふので我等はK君の案内で此四海亭に始めてチヤンポンなるものにお目通りしたのである。見た所は他の支那うどんと大差はあるまいが、何せい材料料理法が違ふ。


ちなみにWikipediaには「明治初年には既に長崎人の本吉某が長崎丸山で、支那饂飩ちゃんぽんの名で売り出していたともいう」と書かれているが、これは昭和13年長崎談叢』がソースらしい。

チャンポン濫觴明治の初年我が長崎本吉某が丸山にて支那饂飩チャンポンと名づけて開業したるものにして終にチャンポン支那饂飩固有名詞となり了りぬ。


総合して、

といったあたりが気になる。

さて、料理の「チャンポン」の主だった語源説をまとめる。

いずれも確証はなく「発音が似ているか関係があるかもしれない」程度の話に尾鰭がついただけのようだ。

吃飯」説だけは、四海樓が主張しているという点において説得力があるが、それにしたって確証はなさそうである

以上。

ちゃんぽん」と「チャンポン」に関係があるかどうか、については結論が出なかったが、普通に関係がない可能性もあるということがわかったので、とりあえず良かった。

Wikipedia説明がまさにそうだが、「ちゃんぽん」の語源説と「チャンポン」の語源説がごちゃまぜになっている、つまりちゃんぽんになりがちなので、そこだけは気をつけたいところである

2021-11-02

anond:20211101232942

大阪市内維新に入れなかったけど、肌感覚はだいたい同意できる。

はっきり言えば、この増えた維新の票は全て吉村票と言っても過言ではないレベル

維新は元々マスコミを使うのがうまい

というか実質タレントだった橋下徹が創った党だから、根っこからマスコミを使って世間を動かす政党として動いてる。

コロナが始まって以降、維新としては吉村しかほぼ出してない。松井もチラホラ見るけども、基本吉府知事に一本化して対応した。

同時に常に発信し続けてたので、何かしら動こうとしはしたのはわかる。

イソジン会見のように早合点する事もあるし、下手な方向に行った時のダメージは大きいけど、発信続ける姿勢は変えなかったのもまあ大きい。

(データ特にないけど、元々イソジン忌避感ない層が多かったのも効いてると思う。一応医療関係者つけてたしイベルクチンみたいな事言い出さんだけかなりマシとも言える)

日和る選挙的にも維新としての姿勢としてもマイナス印象が出る。そういうのもわかって動いてる。

終わりの方とは言え、忽那先生持ってきたのはそこそこプラスだった印象もあるし、今年夏以降は大きく問題起こさなかったのもまあ効いてると思う。

最低限、浮遊票を抑えて来たように思うし、それを潰せるほど自民側の関係者が動いたようには感じなかった。

実際自公人間がここまで発信出来たかと言うと、それは無いだろうなと。

逆に言えば、支持は吉村だけであって、維新としての評価ではないこと。

国政選挙に出たところで、結局そのマスコミ力を行使できてるのは府知事市長だけ。なんなら松井に関して言えば最近引っ込めただけ若干マイナス気味か。

行使できてるマスコミ関西広域局がメインなので、発信対象も広く見ても関西のみと言っていい。

これが関西以外との温度感の差でもあるし、そりゃ関西の外出れば人気もない。多分わかってると思ってるけど。

--

そんなわけで、維新が伸びたのは当然かな、という印象。

ちなみになぜ自分維新に入れなかったか?というと、方向性間違えやすい事も大きいので、国政としては良くない。

病院削減については橋下徹も後に反省していたけども、結局その反省は元から読めてる部分ではあったはず。

それでも続行したのはやはりそのほうが人気も出るし、実際功績となったから。世間が愚かな判断したときもそっちに言ってしまう。民主主義からそりゃそうでもあるが。

2011-05-21

取り合えず @ssci に見てもらいたいんだが #shinsai がいいのか #sinsai がいいのか分からん

取り合えず http://amazon-wish-japan.appspot.com/中の人 @ssci に見てもらいたいんだが #shinsai がいいのか #sinsai がいいのか分からん

どうせ送るならどんなとこか知っておきたいじゃん

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110322_09.htm ,万石浦中 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/5BXLP1NB7UMM ,【被災地石巻市立万石浦中学校
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110326_01.htm ,南三陸町名足保育園 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/1OPP3MGEIQU0X ,【被災地南三陸町名足保育園
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http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110327_02.htm ,気仙沼市小泉中 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/1VQ4PCSBFCAC6 ,気仙沼市本吉小泉中学校避難所
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http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110413_01.htm ,仙台市宮城体育館 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/1GVYRQ6QWEV6Q ,【被災地仙台市避難所 宮城体育館
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110415_01.htm ,登米市津山若者総合体育館 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/189G4QCZO7UVL ,【被災地津山若者総合体育館避難所http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110501_01.htm ,名取市館腰体育館 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/DYMK35XV5Q2E ,【被災地名取市避難所館腰小学校
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110508_01.htm ,中井公民館 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/3U0HVLA31YV9U ,【被災地気仙沼市中井公民館避難所
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1065/20110510_01.htm ,南三陸町ニュー泊崎荘 ,http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/M6TZHWDMXSOH ,【被災地宮城県南三陸町歌津泊崎荘

字面合わせただけなんで自己責任でよろ

2011-04-28

気仙沼市本吉病院に関する備忘録

 Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。

 webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。

本吉町公式ホームページ 交流広場掲示板から

どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106


 この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいもです

森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。

直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……


 あとは、勉強用に。

本吉国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月本吉国民健康保険病院)

病院あゆみ

 本吉国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。

 翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。

 昭和26年には産婦人科の診療も開始された。

 昭和30年3月の町村合併により本吉国民健康保険病院となり、この年に新病棟建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。

 昭和34年当時診療科目は、内科、外科、小児科産婦人科標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。

 しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。

 赤字解消策の一つとして、同年に外科、産婦人科が廃止された。

 その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科標榜する現在病院の規模となった。

 昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。

 その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。

 本吉町内には、かつては数軒の医科医院開業されていたが、医師高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。

 国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。

 特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。

 現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・


現在病院提供している医療と職員数

 本吉国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。

 外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。

 外来入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。

 本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関はなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。

 また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園保育所小学校中学校の校医も受託している。

 さらに、町内企業産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催健康相談への協力も行っている。

 以上のように、本吉病院地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要医療施設となっている。

 本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。

 医師については、本吉病院患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。

 看護師については、本年度正職員1名を採用し18名となり、必要数は確保している。(参照 【別表】定員管理に関する計画)

4月2日河北新報

気仙沼本吉病院 苦境を結束でカバー「住民守る」


 宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。

 押し寄せた津波入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した

 3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。

 現在医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊TMAT」が担う。入院患者岩手県千厩病院一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。

 千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。

 病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。

 TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。

 看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。

 職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)

4月17日河北新報

ふんばる 3.11大震災病院存続 使命を胸に


◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)

 入院患者19人全員岩手県病院に移し、人心地ついた朝だった。
 3月20日。気仙沼市本吉病院
 男性院長(59)の姿が消えた。
 震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
 旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
 看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部医療団の応援を受けている。

4月上旬
 「おばあちゃん、眠れていますか」
 2階の一室で外来患者に話し掛ける。そばで派遣医師心音を聴いている。
 院長は地元兵庫県阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
 「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
 津波で1階が水没した医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
 メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
 入院患者の足元で雑魚寝し、患者タオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
 病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
 外来患者は1日200人前後震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
 「病院地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」


 4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
 1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
 看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
 「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
 職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師現場復帰した
 家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい
 医療はいずれ去る。
 「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
 心の中でわが子に言い聞かす。
 もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)

4月20日毎日新聞

東日本大震災:常勤医不在に看護師奮闘 宮城気仙沼


 東日本大震災津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】


 3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
 夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器モニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
 来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
 17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
 院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
 残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員ほとんど休まずに勤務を続ける。
 4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した
 応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです

4月27日中日新聞

宮城気仙沼病院、常勤医不在


 宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
 「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
 1階天井近くまで達した津波白衣医療機器も流した人口1万1千人の本吉地区から中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した
 応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した
 応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
 「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)

記者とインフォーマントが誰なのかも控えておく。

2011-01-01

非常に興味深い「声かけ・つきまとい事案」 宮城県

●11月26日

16:15頃 気仙沼市本吉町地内路上 年齢40~60歳位、やせ形、黒色ジャンパー、紺色ジーパン着用の男 10歳の女の子 に「走ると危ないよ。いい女」と声をかけた。

 気仙沼警察署

●9月16日 

14:00頃 泉区将監1丁目地内路上 50歳位、中肉、黒色オールバック、緑色シャツ 7歳の男の子に 「ごめんね」と声をかけて、肩に手をかけた。 自動車(塗色青色

 泉警察署

●4月19日

6:50~7:20頃 東松島市浜市地内路上 年齢40~50歳位、白髪交じり、眼鏡着用 8歳の男の子に 「トイザらス場所教えてくれ。」と声をかけた。 白色軽トラック使用

 石巻警察署

●4月19日

16:30頃 東松島市牛網地内路上 年齢40歳位、黒色トレーナージーパン、黒色野球帽着用、サングラスかけた男 9歳の男の子に 「トイザらスに行く道教えてくれ。」と声をかけた。 白色ワンボックスカー使用

 石巻警察署

●11月28日

13:15頃 仙台市宮城野区福室1丁目地内路上 年齢20歳位、身長170cm位、中肉、黒色短髪、灰色の服、青色ジーパン、銀縁眼鏡自転車に乗った男 10歳の女の子に 「警察の者ですけど、話したいことがあるので人目につかないところへ行こう」と声をかけた。 黒色自転車使用

 仙台警察署

●3月23日

15:08頃 気仙沼市南町1丁目地内 年齢35歳位、やせ型、灰色フード付きジャンパー、黒色ジーパン着用、黒色四角型のメガネを使用した男 11歳男の子に 「死刑好きなのか。死刑にしてやる。」と声をかけた

 気仙沼警察署

●9月8日

15:50頃 宮城野区福室2丁目地内路上 70歳位、170㎝位、小太り、青色上着、黒色ズボン 7歳の男の子に 「虫いっぱいいるところ知ってるから一緒に行こう」と声をかけた。

 仙台警察署

●7月3日

16:30頃 石巻市山地路上 20歳代後半、身長不明、がっちり型、角刈ピンクワイシャツ、黒色スラックス 17歳の女の子に 体を触り「もう一度触らせて」と声をかけた。 ピンク自転車

 石巻警察署

 
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