はてなキーワード: パラフレーズとは
ミケランジェロの言葉として広まる「やる価値のあることなら、たとえ下手でもやる価値がある」という文句は、実際にはG.K.チェスタートンに帰されることが多い。
しかし、その出典を正確にたどろうとすると、すぐに違和感に突き当たる。多くの名言集やウェブサイトが『What's Wrong with the World』(1910)の一節として記しているものの、該当箇所を開いても、その文章は見当たらない。
特に“Part III, Chapter 17 ‘The Universal Stick’”が出典と断言する資料は少なくないが、原文を確認すると、そこには有名な台詞どころか、意味的に近い表現すら存在しない。
では、なぜこの誤出典が広まったのか。第一の要因は、二次資料の“連鎖的誤引用”である。
ある引用辞典か、あるいは早期のインターネット記事が、誤って「Universal Stick」を出典として載せたらしい。
これが名言サイトやブログに複製され、さらにはAIによる自動収集・補完によって信頼度の高い情報のように見えてしまった。典型的な“情報の雪だるま化”である。
『What's Wrong with the World』は、版によって章の区切りや通し番号が異なる。
ある版では“Chapter 17”がPart IIIの末尾に置かれている一方、Project Gutenberg版では同じ章が“XIV”としてPart IVに移動する。
このため「17」という数字だけが独り歩きし、誤った章名と結びつけられた。
第三に、名言の思想的背景が『Universal Stick』の論旨と似ていたことも混乱の一因である。
この章では専門化への批判や“万能性”が語られ、アマチュア精神への擁護というチェスタートン特有の思想が展開される。
名言の持つニュアンスとも重なり、「たしかこの章だったはずだ」と思い込みやすかったのである。
では、チェスタートンは本当にこの名言を言っていないのだろうか。
しかし、Part IV “Education” の章には「何かをする価値があるなら、それ自体のためにする価値がある」といった趣旨の文章があり、名言はこれをより印象的に再構成した“後世のパラフレーズ”であることが分かる。
チェスタートン研究家のDale Ahlquistも「正確な文は存在しないが、思想は確かにチェスタートン的である」と述べている。
つまり、この名言はチェスタートンの精神をよく表してはいるが、厳密な原文ではない。
誤引用の背景には、版の混乱、意味的類似、そして二次資料の連鎖という複数の要因が積み重なっていた。名言の真偽を辿る過程は、引用という行為そのものがいかに脆く、また魅力的であるかを物語っている。
正確さを求めて原典を開くという地味な作業が、思いがけず豊かな発見をもたらすこともある。
今回の調査はその好例であったと言えるだろう。
負けずぎらいなんだよね。
自演とか定型文コピペとかの得意技、リアルじゃいっこも使えないよね。
普段は他人にバカにされたと感じても一切口ごたえせずに石みたいに黙ってやりすごしてるの?
あるいはなんかすごい奇声をあげたりしてどうにかしてるの?
それともそもそもだれとも一切関わらないの?
そうかもね。でもそれは「バカなのにレスバする奴」が存在することを否定するものではないよね。
ほら話通じてないじゃん。
表題が見えないの? 普段の生活でもそんないちかばちかでテキトーにはんろんしてみるの? 答えに詰まったら走ってにげるの? それとも物投げてあばれるの?
を
と
いくぶん短くパラフレーズしたら
とつぜんない条件生えてきたな
って言い出しちゃう知能の人と、どだい会話なんか成り立たないんだよね。
でも匿名ダイアリーだから適当にデタラメこいて誤魔化すじゃん、お前は。
でもリアルではそれは無理じゃん。
どうしてんの?
(全削除逃走)
圧かけられたらしい。
ほんとどういう暮らししてるんだろうか?
さすが自らを低知能と名乗るだけあるw
こういう人は「ワザとテキトー言ってるから恥ずかしくないもん!」って自分の中で常に保険をかけてるけど、なんせバカで負けずぎらいだからすぐ本当に必死になってしまう。
ネットでいつもそうなのにリアルでは貝のようにガチガチに押し黙って全てをやり過ごせてるとは思えないんだよな。さりとてどんな方途があるというのか?
文化人類学だのポスト構造主義だの書いてるが、正直レベルが低すぎる、芯を食っていないからただの権威付けにしかなっていない。
まず基本1、ポスト構造主義等のジャーゴンを権威付けの為に利用する(または結果的にそうなる)ことは恥ずかしい事だと認識しよう。
次に基本2、ジャーゴンを使うならそれぞれの位置付け位は理解して使おう。
途中で「文化人類学的な視点」と言っているが「女性は氏族交換によって価値を生む存在」からこれは構造主義を指す事が分かる。周知のとおりポスト構造主義は構造主義への批判により成立してきた経緯がある。
従って「構造主義」と「ポスト構造主義」を同じ文章の中で何らの言い訳もなく一緒に使うのは、「自分は意味も分からずに使っています」と告白してるも同義、恥ずかしいから君レベルの理解なら使わない方がマシです。
基本3、基本的に多くの理論は「批判理論」であることを理解しよう。
例えば構造主義は増田の言う「穢れ」等の概念が、実は構造により生成された「フィクション」であることを暴露することを通じて、そのフィクションに従う人々を批判する。
つまり、普通に使うなら件の発言者は「穢れというフィクションに左右されて差別発言をした人」になる、という基本的な構造を理解して使わないと、ちぐはぐになってしまう。
フーコーが社会による「狂気」の生成を批判したように、増田は「穢れ」の生成を看過するためではなく批判するために各思想を使わなければならなかった。(やってるつもりかもしれないが、甘い)
さらにポスト構造主義はそのような構造主義の考える「構造」が静的すぎることを批判し、より動的なモデルを描く。ここについては増田の考える描像は静的過ぎて、ポスト構造主義的では全く無い。使ってる意味が無いし、権威付けにしかなってない。
このように基本的に多くの理論はなにかに対する「批判」で成り立っている事、そして何を批判しているのか理解して使わないと意味が無い。
増田の言う「男性主権社会」は、「前近代的な価値観の復活」などと言っている通り、前近代的な構造であり、普通に考えるなら現代より随分古い時代の構造である。対して現代は「ポストモダン」等と言われてからもすでにかなり時間が経ってる。
従って件の発言者は「男性主権社会」という今となっては古い社会の価値観に従って時代遅れの差別意識を露わにした、ということになる。要するに「価値観が昭和のおっさんが昭和の発言をして炎上した」と同じで、昭和のおっさんが昭和の価値観のままなのは「男性主権社会」よりもその人自身の責任である。
こうした時代による遠近感を増田は意識できていないから、主張がおかしくなる。
既にポスト構造主義すらかなり古い思想だ。現代の問題に使うならそれが適用可能であることを確認・説明してからでないと「前時代的価値観に引き摺られた」等の意図しない意味付けを付与してしまう。
増田の文章全体に言えることだが、あるトピックに話が移ったかと思うとその結論が碌に出ないまま別のトピックに話が移る。こうして全体がふわふわしたまま大学生のレポートにような無難でほとんど意味内容の無い「結論」と称した抽象的なスローガンに落ち着く。
文章には消費するカロリーのようなものがあり、いろんなところにふわふわ漂って結構な文量を読んだ結果、結論が「男性主権社会がその構造を生み出していた」ではカロリーが見合ってないんだよ。
そのようにふわふわした結論しか導き出せないのは、各トピックを十分掘り下げることや時には「自分にとって都合の悪い」結論が出る事を避けて通っているせいだと思うよ。
今の増田は、結論ありきで話を進める割に、自分に都合の悪い結論を避けるため掘り下げも中途半端になり、結果ふわふわした結論めいた何かしか出せていないように見える。
理論や思想を使って考えた結果、一時的にでも都合の悪い結論が出てしまうなら、それを受け入れる度量も必要。むしろ「思ってもみなかった結論」は本来言祝ぐべきものだ。
基本6、前提を理解する
まず、そもそも件の発言者の価値観や「穢れ」が前時代的で時代遅れであることは、多くの人がすでに分かってる。今更増田が発見したように言う事では全然無いんだよ。
「職業差別」や「職業に貴賎なし」はそうした前提をパラフレーズしたものであって、増田は多くの人が前提としている事を結論として再発見してしまっている。(結論の薄さの原因はなによりもこれだろうね)
また、ポスト構造主義は他の思想から「相対主義すぎる」と批判されることも多い思想だ。そうした相対的に相対主義の強い思想から、例えば「内面の自由を認めることは差別の再生産に繋がること」みたいな保守的・全体主義的過ぎる結論はまず出ない。
更にそもそもポスト構造主義は、増田がやっているような「静的な構造(男性主権社会)により穢れが生まれているんだ」というような構造主義的な主張を批判して生まれてきた。
そうした各思想に対する大雑把な前提も入ってないから、思想に合わない変な結論が出てしまう。
何が前提なのかを理解してから考えないと、こういう事になってしまう。
他にも色々あるかもしれないが、まぁまずはこのあたり。
というか基本的に、生半可な知識でポスト構造主義とかなんとか名前だけ出すのはやめた方が良いと思うぞ。単純にリスクが大き過ぎる。
ガッチマンのバイオハザードREシリーズ動画を観てる。トークが面白いしプレイもサクッとしててストレスフリーで良い。ただ、バイオシリーズに頻出の「読み物」をガッチマンが読み上げるときだけ、彼の苦手が爆発する。めちゃくちゃ噛むし、難しい漢字はだいたい読み間違える。そもそも書いてある通りに文章を読むことができていない。熟語が他の単語に置き換わる(意図的にパラフレーズしているわけではない)という現象が頻発する。本質の分かったゲームプレイができてトークも上手い、頭のいい人気の実況者ではあるが、文章をスムーズに読むことは苦手なのだ。でもだからどうした。書いてある通りに正確に読み上げることはできなくても、文意はきちんと読み取れてる。少し漢字が読めなかったり読み間違えたりはするけど最低限の漢字は読める。なんの問題ない。たぶんガッチマンは文章を読む習慣や辞書を頻繁に引く習慣がないだけであって、読解力自体はごく一般的なレベルなのだと思う。
念の為、
薬名で調べてみて、納得できなければ飲まなければいい
を
「処方を盲信する」
と表現するのがパラフレーズであるということは、これが「同じ意味の言い換えである」と考えているということなんだが、お前は本当に「同じ意味の言い換えをした」と考えているのか?
まあ本当にわかんないんだろうな。
つまり教えてもやはりわかんないってことだけど。
「ボキは処方を盲信しろなんて言葉使ってないんだい」を最後の希望とたのんで連呼してるから潰してやらないとな。
【反駁し得ない相手の主張を】【大袈裟に脚色したうえで】【反駁できたことにする】
で、検査過程に納得いってなくてもとにかくなんかのめばその薬の効果がわかるしAIに聞けばうんちゃらの知ったかクソバイスには俺は最初から思いっきり反論してんのよ。
そしてそのことを「処方を盲信」ってパラフレーズしてるだけ。
詭弁としての構造は理解してなくて「前に言ったことに後で言及する」のがダメってことなんだろうなと、わからないなりにわかった気になってるだけなんだよお前は。で「お前もやってるだろ!」と。やってないんだなこれが。言わずもがな「自分は盲信という言葉は使ってない」とか、あたりまえかつ完全に無意味。もとより俺の言葉なんだから。
わかった?わかんねえよなお前の頭では。
以前「夏目漱石「月が綺麗ですね」の元ネタを遡る」という記事を書いたのだが、いろいろ追記することがあったので改めて整理しなおそうと思う。
大雑把に言えば、この「夏目漱石が I love you を月が綺麗ですねと訳した」という話は、
に分解できる。ひとつずつ追っていこう。
まず、夏目漱石は「I love youは日本語にない表現である」と書き残している。これは漱石のイギリス留学時代である1901年から1902年にかけて書き留められたメモ書きの一つで、ジョージ・メレディスの『Vittoria』という小説に言及したものである。ただし、この台詞はヴィットリア(Vittoria)がラウラ夫人(Signora Laura)に向けて言った台詞なので、恋愛の「I love you」ではなく親愛の「I love you」である。
formula ノ差西洋日本 “I will excuse myself to you another time,” said Vittoria. “I love you, Signora Laura.”――Vittoria p. 113. 此 I love you ハ日本ニナキ formula ナリ.
1908年の『明治学報』に掲載された、上田敏の「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにも、同様に「I love youは訳せない」というような記述がある。上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だった。
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです
同じく1908年に劇作家の益田太郎冠者という人物も次のように書いている。
欧羅巴人にはアイ・ラブ・ユーといつた、美しい詞があり、此の詞の中には、女の身上を刺激する意味が十分に含まれて居るが、日本人には斯ういふ詞が無く、その上「言はぬは言ふにいや優る」などといふ事が古来から上品としてあつて、万事詞が引込み思案になつて居るのです。
やや遅れるが、1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』にも、同様の主張が書かれている。厨川白村は漱石の教え子で、恋愛観について議論を交わしたこともあったという。
日本語には英語の『ラブ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you" や "Je t'aime" に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。さう云ふ英語や佛蘭西語にある言語感情が、全く日本語では出ないのある。『わたしあなたを愛してよ』、『わたしや、あなたにいろはにほの字よ』では、まるで成つて居ない。言葉が無いのは、それによつて現はさるべき思想が無いからだ。
以上からすると、夏目漱石が最初に言い出したかどうかはともかく、この時期にさまざまな人が「I love youは日本語に訳せない」と主張していたことは確かなようである。
そしてこの「I love youは訳せない」という話から「月が綺麗ですね」が派生する。いまのところ見つけられたかぎりでは、1927年の『帝人タイムス』に掲載されたコラム「東方へ」での記述が最も古かった。
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
1935年刊行の笠間杲雄『沙漠の国』にもそうした表現がある。元になった記事が雑誌に掲載されたのは1926年ごろのようなので帝人タイムスの記事より早いかもしれない。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
以降も「月が綺麗ですね」という話は散見される。たとえば1950年の雑誌『英語研究』。
月下に若い男女が語らい合つている. 男が女に愛の言葉をささやくとして, この場合の純日本的な表現は今夜はいい月ですねえ!ということであり, 女がほんとうにいい月ですこと!といつたとすれば, それは男の愛を受け入れたことになる.
1957年の雑誌『産業と産業人』の対談記事「ニッポン居よいか住みよいか」。
三宅 その言葉が昔からないんだね。向うはアイ・ラブ・ユウ、実に簡単ですよ。ところが日本はそういう表現はない。「ああいい月ですな」というのが、ほれたと翻訳しなきゃならんのだ。(笑)
大山 「いい月ですね」ってそのくらいのことは言われたような気がしますけど……。(笑)
1961年の早川東三『じゃぱん紳士周遊記』。こちらは「月が青いですね」である。
ドイツ人学生が日本の女の子に夢中になった。日本語で愛の告白は何と言うのだい、と切なそうに聞くから、「われわれは皆んな詩人だからね、イヒ・リーベ・ディヒ(わたしはお前を愛する)なんて散文的なことは言わない。月が青いですねと言うんだ」と教えてやったが、ご使用に及んだかどうかは知らない。
1962年『日本人の知恵』。これは朝日新聞に連載された記事をまとめたものらしい。
さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんなことばを口に出さなくとも、満月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
以上のように、戦後にも「I love youは訳せない」や「月が綺麗ですね」はそれなりに広まっていたと思われるが、しかし、この時点ではまだ夏目漱石とは結びついていなかった。
それらの話を夏目漱石と結びつけたのは、おそらくSF作家の豊田有恒だろう。たとえば1978年の『SF文迷論入門』(雑誌掲載は1977年)では以下のように書かれているが、他のいくつかの著作でも同様のことを書いており、いわゆる「持ちネタ」のようなものだったことが窺える。
明治時代に、夏目漱石が、学生に、I love you を、どう訳すか、質問した。学生は、明治時代だから、我なんじを愛すというようなことを答えた。漱石は、怒って、一喝した。おまえら、日本人か? 日本人は、そんな、いけ図図しいことは言わないんだ。I love you というのは、日本語では、月がとっても蒼いなあ、と、こう訳すものだ、って言ったろ。
ほぼ同時期に、つかこうへいが小田島雄平との対談で同様のエピソードを語っているが、こちらの記事の初出は1978年なので豊田有恒よりも後ではある。つかこうへいが豊田有恒の記述を読んだのか、それとも共通の元ネタがまだどこかにあるのか。
古くは夏目漱石が I love you はどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、夏目漱石が教壇からばかやろうとどなりつけて、「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、そういう翻訳のリアリティーっていいますか、それは、時代とともにいろいろ変わっていってるんでしょうね。
以降の流れは「月が綺麗ですね・死んでもいいわ」検証に詳しい。
ツルゲーネフの『片恋』における「Yours」という台詞を二葉亭四迷が「死んでも可いわ…」と訳したという話を、「二葉亭四迷がI love youを死んでもいいわと訳した」に変形させた犯人探しも行われているが、それはおそらく土岐善麿だろう。1957年の『ことば随筆』にこう書かれている。
「アイ・ラブ・ユウ」を日本語に直訳すれば「われ、なんじを愛す」であろうが、二葉亭四迷はそれを「死んでもいいわ」と表現したことがある。ツルゲーネフの「あいびき」の中にあるのを読んで、その訳しぶりのすばらしさにおどろいた記憶がある。
この記述は、のちに金田一春彦がいくつかの著書で引用しており、そのあたりから広がっていったのだろう。たとえば金田一春彦の1975年『日本人の言語表現』ではこういった具合だ。
土岐善麿氏によると、二葉亭四迷は、トゥルゲーネフのある小説で女性の言うI love you.を訳すのにはたと困ったそうだ。何でも相愛の男女が愛を確かめあうクライマックスの場面であるが、男がI love you.と言い、女もそれに答えてI love you.と言う。男のせりふの方は「ぼくはあなたが好きだ」で簡単だ。が女の方はそうはいかない。もし、「私もあなたが好きです」とでも言ったら、それは教養のないあばずれ女ということになる。女のI love you.を日本語で何と訳すべきか、二葉亭は、二日二晩考えた末、今も名訳として伝わっている日本語を思いついた。それは「死んでもいいわ」という文句という文句だという。
処理水の放出なんて、嫌がられて当然なのでは? - 小学校笑いぐさ日記
[B! 原発] 処理水の放出なんて、嫌がられて当然なのでは? - 小学校笑いぐさ日記
id:filinion さんが、はてブで燃えた自ブログ記事への批判、特にトップブコメになった id:sisya さんのブコメについて、それは「オレオレ定義」に基づく「デマ」だとブログに嫌味たらしい追記3件計1,500文字するほどお怒りの件。
定義が何かなんて非本質的なしょーもない話だと個人的には思いますし、ブログ記事への批判は、先に投稿された
東電はALPS処理水の海洋放出をいつから考えていたのか - たたるこころ
あたりで十分ではという気もしますが
こういう「自分が正しいと思いこんで勝利宣言」的なムーブって、経験上、その後SNSの闇に飲まれて狂ってく人が多いという点で予後が悪いですし
id:filinion さんは増田としては結構好きな方なはてな民なので、勘違いしてるのは id:filinion さんの方ということを指摘しておきます。
なお、ここで擁護する形となる id:sisya さんについては増田はむしろ嫌いよりです。
増田もこういうことやらかすことありますし、気持ちは分かるんですが、id:filinion さん、これ経産省の定義をパラフレーズできてません。
「ALPS処理水はトリチウムの基準を満たしていない」ではなく、「ALPS処理水の要件にトリチウムの安全基準は含まない」つまり希釈前のものも希釈後のものも両方ALPS処理水であるということになります。
実際、希釈しようがしまいが「ALPS処理が完了した水」であることは一切変わりないですし。
だから引用した経産省の記事でも「ALPS処理水を海洋放出する」と述べているのですね。id:filinion さんの定義なら放出するのは希釈後なのですから「処理水を海洋放出する」と言わなければいけません。
とはいえ、id:filinion さんは「ALPS処理水」を何か物質的にとらえているのかもしれません。
確かに、実際に放出するのが99.99....%普通の水でも「トリチウムを海洋放出する」は日本語として成り立ちますから、その線なら、id:filinion さんの定義でも「ALPS処理水を海洋放出する」と言えるかもしれません。
しかし、水を加えたところでトリチウムは何ら変化せずに残りますが、id:filinion さんの定義による「ALPS処理水」つまり「希釈なし、ALPS処理直後の水」は水を加えた時点でこの世から消失します。存在しないものを海洋放出することできません。
言い換えると、「トリチウム濃度」という言葉はあっても、「ALPS処理水濃度」という言葉はないということです。物質的にとらえるのは無理があります。
こう説明を尽くしてもid:filinion さんには言葉遊びに聞こえるかもしれません。別の実例を出しましょう。
STEP2: トリチウムについても安全基準を十分にみたすよう海水でさらに100倍以上に希釈
id:filinionさんの定義によると「ALPS処理水」はトリチウムの基準を満たさないもののはずですから、「安全基準を大幅に下回るALPS処理水」という表現は端的に矛盾です。
とはいえ、経産省の定義の正しい解釈に沿っても、id:sisya が仮に「希釈後のみがALPS処理水」だと主張しているならこれも間違いです。
実際のブコメを読みましょう。
ALPS処理水の解釈が間違っています。「トリチウムは安全基準を満たしていないわけ」ではなく、トリチウム以外を全て取り除いた物を、安全基準内まで薄めたものが処理水であり、安全基準は満たしています。
id:sisyaさんは「安全基準内まで薄めたものが処理水」と述べています。「安全基準内まで薄めたものがALPS処理水」とは言っていません。
ブコメは百文字制限なのでどうしても舌足らずなところが出てくるのですが、id:sisyaさんはおそらくこういうことが言いたかったのではないでしょうか。
(ALPS処理水は定義として)「トリチウムは安全基準を満たしていないわけ」ではなく
(中略)
id:filinionさんがid:sisyaさんのトップブコメに強いいらだちを覚えたのは
「海洋放出する処理水が安全基準を満たしていることは百も承知だし、ブログ本文にもはっきりと書いた。それをワザワザ指摘してきたということは…」と認知したからでしょう。
でもid:sisyaさんがブログ記事に対し、「分かってる分かってる言ってほんとに分かってんの? ブコメで念押ししておこう」と感じるのもおかしくありません。
id:sisyaさんの立場から見て、id:filinionさんのブログ記事は「本当に分かってるなら書かないであろうこと」が多すぎる、それだけの話です。
例えば、「ALPS処理直後の水」の飲料水としての適正なんていう、誰も主張していないことを藁人形的に議論したり、とか。
飲んでも安全だというならそうなんでしょう。
なんなら私だって、誰かが
(中略)
でも、タダで飲めって言われたらそれはちょっと……。
当たり前ですが「ALPS処理直後の水」は放射性物質に関する飲料水としての安全基準を満たしていません。
巷で言われる「ALPS処理水は毎日2L飲んでも(放射線に関しては)安全」という言説は希釈後の話をしています(希釈前を毎日2L飲んだら普通に被曝量が原子力作業者の基準値超えます)。
みんなが希釈後の話をしている中、「それはタダで飲めるほど安全ではない」と希釈前の話をしだしたら、「ん?この人は希釈が何か知ってる?」と疑われても仕方ないです。
先にも触れましたが、やはりid:filinionさんの身体感覚として
「いくら希釈しようが「希釈なし、ALPS処理直後の水」というものが希釈水のうちに概念として残っている」
というのがたぶんあるんだと思います。
でもそんなモノ、id:sisyaさんは持ち合わせていません。増田もそうですし、id:filinionさんの記事に批判的なブコメを付けた人はみんなそうでしょう。
論理では正当化できない身体感覚が明示なしに前提とされていたら、その感覚を共有していない人にとってはただの破綻した文章にしか読めないのです。
「なんでこの人、一切放出しない希釈前のALPS処理水に延々とこだわってるのだろう???」
それでいて、「嫌がられて当然なのだ」とid:filinionさんは他者を説得する文章を書いたつもりでいるのだから、ただの笑いぐさなんですね。
id:sisya「通報した」についての増田の意見は「id:filinionさんは通報されるほどのことはしてなくない?」と、id:filinionさんに同意です。
id:koo-sokzeshky さんのブコメがちょっと気になったので、引用の上、増田が本筋から逸れるかなと説明サボったところを追記補足しておきます。
後段はちょっと違う。filinion氏が心配してるのは適切な運用の継続性だよね。「希釈後の話をしてるのに…」と思うのはそこを心配する発想が無いからだ(心配すべきかは別として)
運用の継続性がid:filinionさんの懸念点の1つであるのは正しいでしょう。
ただ、この論点一筋で記事をまとめられたらさほど批判されなかっただろうと思われるのですが、
記事の本文は、運用の継続性とは無関係な主張、継続性への懸念だけでは導けない結論、両方で満ちています。
例えば、
「海水で薄めたら基準値以下になったから海に捨ててオッケー!」
この主張はどこにも「継続性」やら「事業者への信頼性」やらといった概念が含まれていませんね。なんせ「一発で操業停止」ですよ?「常態化していたら」とか留保もありません。
さらにこの記述のたちが悪いところは、完全なデマであることです。
中央環境審議会水環境部会排水規制等専門委員会『ほう素及びその化合物、ふっ素及びその化合物並びにアンモニア、アンモニウム化合物、亜硝酸化合物及び硝酸化合物に係る暫定排水基準の見直しについて』
硝酸性窒素
ふっ素
テキトーにそれらしい箇所を抜き出しただけですが、これらの人体に有毒な物質について「希釈」が排水処理の選択肢として正式に認められているのは疑いの余地がありません。
つまりid:filinion の言う「工場排水とかでやったら一発で操業停止」は
「日本人が日本人であることによって侮蔑を受けている」ユニヨシの描写と、
というか、
必然性のカケラもなく、映画の中で延々と茶番を演じ続けるユニオシと(https://www.youtube.com/watch?v=Hb3gdUrIC4Q)、
劇中でその身体的特徴をネタに蔑まれることの全くない宇崎花では、比較にならないよ。
両者には「フィクショナルな表象である」という共通項しかないのに、
それらを単に「身体的特徴を過度に誇張した描写」と括り、主観の問題として相対化するのは、詭弁だと思うよ。
としている人がいるが、これは違うんじゃないかな。
その作品の文脈と、それらを受け止める社会的コードの両方があって初めて、視覚的表象に意味が与えられるんだと思うんだよね。
そうして与えられた意味こそが差別性を帯びるのだ、とするのは言い過ぎだろうか。
時には主観的で多様であり得る社会的コード(その肌の露出は性的だ、いや性的でない、など)を考えるだけでなく、
例えばアニメや映画のキャラクターなら物語やキャラクターの設定など、その作品固有の文脈をそこに加えて、両者の関係性を取り上げてこそ、
客観的な差別の存在についての議論ができるように思うんだが、いかがだろうか。
「ティファニー~」についてはそこまでよく知らないけど、あの出っ歯や眼鏡に物語上の必然があり、尊厳ある一人の人間として扱われていれば、
よってここは
「①映画やアニメにおける視覚的表象は、物語から独立してそれ単体で差別性を帯びることはない。」
が正解じゃないの?
もう少しパラフレーズすれば、
おおもとの増田です。
著作権法にこだわるニキは、そもそも「引用」の2つの意味を取り違えているように思うのですよね。
「参考文献」についてはreference(参考文献)とかbibliography(文献目録)ですかねえ。referenceは文字通り言及した文献の一覧という意味があり、bibliographyだと包括的な文献目録という意味にもなるのですが(「ディスコグラフィ」とかと同じ用法ですね)、まあたとえば学術書で最後にずらっと言及した文献並べているような場合はどっちでもいいのではないかなぁと思います。英語の本読んでてもどっちも見かけるし。むしろref.1って初めて見ました。
というふうに、引用元の文章をそのまま持ってくるのが、著作権法および日常的な用法における「引用」です。
ところが、一部の分野では、
こういうのも「引用」って呼ぶらしいんですよね。いやそれは厳密には引用じゃなくてパラフレーズとかそういうやつだろ、って思うんですが、まあそれを引用と呼んで普通は特に不具合があるわけではないので、これを引用と呼んでも咎め立てされることはありません。
しかし、この2つを混同してケチをつけてくるのなら話は別で、いやそれは引用じゃねーから、と言わなければいけないと思います。
最初は著作権法にこだわるニキの言ってることが意味不明すぎて理解できなかったんですが、増田の整理で著作権法にこだわるニキがどこで勘違いしているのかに気づくことができました。ありがとうございます。
『若おかみは小学生!』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。またこの作品は書籍版漫画版アニメ版あるけれど、それらは横に置いといて映画の話します。
これは120点っすな。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」なので、「見れて大満足! もうちょいお布施したい」でした。
演出とは裏腹に内容的にはかなりヘビー(というのを見越して爽やかで明るい演出を用いていた)なので、児童文学原作でお子様向け痛快娯楽活劇とは言い切れないんですが、個人的にはクオリティさえ伴えば子供を思いテーマや悲しい作品でぶん殴ってもええやないか、いてもうたれ、子供ってのは子供なりに受け取るんだ派なので、クオリティでぶん殴ればいいと思います。ふるぼっこだドン。
この映画に関してはTwitterで児童労働がどうのこうのという話もちらりと耳にした程度で事前情報収集もなく見に行ったんですが、そういう物語じゃなかったですよ。
じゃあ、どういう物語だったかといいますと、大きく2つの柱が絡み合うストーリーでした。それは大きなテーマで言えば「喪失を乗り越える」と「自分自身と居場所を見つける」という話。
初っ端から重いですが、主人公である女子小学生・関織子(通称おっこ)は、本作冒頭の交通事故において両親を失います。もうこの時点で軽い話になりようがないわけですよ。にも関わらず事故被害のシーンはグロカットされ、葬儀とそれに続くドタバタのシーンも描写はされず、おっこは新生活の場であるところの、祖母の営む温泉旅館「春の屋旅館」へと向かいます。トランクひとつ持って別に落ち込むわけでもなく、ちょっと大変なだなあくらいの顔色で一人旅をして、到着し、新しい部屋(いままでのマンションとは違う昭和的な和室)を与えられ、転校して新しいクラスメイトに挨拶をして、ひょんなことから家業である温泉旅館を手伝うことになります。
『若おかみは小学生!』って言うタイトルだから当たり前ですが、こうして女子小学生おっこの若女将修行生活が始まるわけです。
「春の屋旅館」がある「花の湯温泉」は歴史のある温泉街で、古都然としたまちなみに浴衣姿の観光客が歩く割合賑やかで、カラフルな町です。この辺音楽や美術の演出とあいまって、しみじみと明るく暖かく描かれていて雰囲気良いですね。美術のレベルは高かったです。
でも、この明るく爽やかなあたりが(とうぜんそれは演出意図に沿ったものなんですが)、ある意味ホラーでもあるわけです。
小学生の児童にとって、両親を失うというのは、最愛の家族を失うということであるのみならず、加護者も生活基盤も導き手も失うということです。もう、それは世界の崩壊とかいうレベルでの悲哀なわけですよ。
にも関わらずおっこはそこまでの苦しさを見せない。両親を思い出してちょっとうつむくことはあっても、笑うし、日常生活を送るし、新しい出会いにも前向きでいる。それはよく考えればとてもとても異常なことなわけです。
異常なおっこの新生活は、やはり物語後半に向けて徐々に破綻してゆきます。「両親がまだ生存していて自分と一緒に暮らしている」という幻想を何度もみてしまうおっこは、あるシーンにおいて事故の原因となった(もちろん別のですが)大型トラックを見て、事故のフラッシュバックから過呼吸になってしまう。おっこは、両親の喪失という悲しみを乗り越えたわけではなくて、ただ単に今まで封印をして日常生活を演じていたに過ぎなかったわけです。
あらすじなんかにおいて本作は「主人公おっこの成長を描く」なんてサラリと書かれているわけですけれど、それは不誠実な欺瞞であって、おそらくおっこの身になってみれば、それは成長じゃなくて引きちぎられてバラバラにされてしまった自己の修復というサバイバルなわけです。失った何かから目を背けて、決定的な破綻をしないようにごまかしながら疾走するというのが、この物語の前半部分でした。
そういう意味で、おっこが若女将をやるというのは、児童労働とかそういうレイヤーの話ではないのです。両親を失って加護者も生活基盤も支えも失ってしまったおっこにとって「いまできるなにか」に必死に飛びついて自分を騙そうとしていたとも見ることができます。祖母である旅館の経営者(現女将)の後継者問題という、旅館側の都合があったにせよ、おっこが旅館の雑務に飛び込んで笑顔で充実していく背景にはそれがあるはずです。
事実おっこの若女将は雑誌に取り上げられて評判を呼ぶという広告的な価値はあったものの、従業員としてみたとき、お客さんに感情移入しすぎて夜闇の中に駆け出すなど(一般的な社会人の価値観からすれば)行き過ぎな面もありました。
でもそれも仕方がないと思うのです。両親という生活基盤を失ったおっこは、同時に目指すべき将来の自分像も失っています。「将来こういう自分になったらいいな」です。その空隙を、目の前に提出された安易な「若女将」で埋めてしまったわけですから、その意味では、おっこの若女将は労働としての若女将ではなく「若女将ごっこ」でもあって、つまりはある種の自分の居場所探しなわけです。
たとえおっこ自身がそれを言語化できるレベルで気づいてなかったとしても、まだ収入もなく住む場所も自分では決められない小学性にとって、他にできることなんて事実上ないじゃないですか。それはせめて居場所を獲得するという生存努力です。
おそらく祖母はそのおっこの悲痛に気がついていて、周囲が無責任に「若女将誕生!」とはしゃぐなかで、決して自分からは手伝え、継げとはいいませんでしたし、おっこの労働を危惧してた素振りも見えました。経営者として「子供に接客なんてさせられない!」と拒絶することもできたでしょうけれど、おっこから若女将をとりあげて、じゃあ不安定な彼女の精神に何をしてあげられるかと言えば何もない。だから黙認しかないわけです。
だいたい「自分自身と居場所を見つけるという話」なんてものは現代社会において、大学を卒業して就職して一年二年経った青年が、俺はどうやらこういう方面には我慢が効くがこういう方面は苦手だぞ、どうやらおれはこういう仕事とこういう人間関係の中でなら生きていけそうだ――みたいなのをやっとこさやるものなわけで。そんなものを、小学生が引きちぎられるような喪失を乗り越えるのと二正面作戦でやるのは無茶というものです。
そういう意味では、周囲の大人たちはもうちょいどうにかフォローしてやれなかったのかよ、とも感じるんですが、でも逆にそれこそ大人視点の傲慢な物言いであって、大人だろうが子供だろうがどんな人間でも自分自身の心の中の悲しみや未来とは、自分一人で向き合うしかないというのも一面の真実です。
おっこは画面上の軽やかさやおっちょこちょいさに隠されがちですが、実は誇り高い女の子です。特に自分が設定した自己目標に対しては愚直なまでに誠実です。だからこそ、宿泊客のために対立している真月に頭を下げて教えを請うこともします。その実直さが両親を失うという危地の中で彼女が孤立してしまった原因だし、それが巡って彼女の味方を増やす原因でもあったのは素敵だったと思います。
おっこは「喪失を乗り越えること」から逃避して、目の前のロールである若女将に飛びつき、そこで必死に働くことによって苦しかった過去をある意味塗りつぶそうとしたわけですが、その逃避が「自分自身と居場所を見つける」ことにつながってゆきます。
幾つかの出会いがあって、目指すべき未来のヒント、ロールモデルと出会います。たくさん登場人物がいるのですが特筆すべきなのは三人でしょう。
まずは旅館の女将である祖母。登場シーンは少ないのですが、彼女の個人人格と職業倫理が融合してしまったあの佇まいは、今は亡き母経由もふくめておっこの誠実さの根っこのように思います。職業倫理がついには人格化しちゃうって、昭和的な善人のあり方としてすごく共感できるんですけど、今の時代では流行らないのかもしれないと思ってちょっとホロリとしました。
二番目には、おっこの同級生、秋野真月(大旅館の跡取り娘、通称ピンフリ)でしょう。この娘は小学生女子なのですが、広い視野で旅館業と湯の花温泉京の未来を見つめていて、顧客に対して誠実であろうという、幼いながらある種の達人系キャラです(傲慢な物言いをする残念キャラでもあるのですが)。この娘と同年代として出会うことができた、ライバルとして対立したり和解したりできた、というのはおっこを取り巻く幸運の中でも格別のものでした。彼女との交友は、悲痛から逃げ出して飛びついた「若女将ごっこ」に、その内実の精神性を加えて「本当の若女将」へ進化させてくれたと思います。
(余談&劇中では語られませんが、温泉郷に住まう子供の中でも誰よりも本気で町の未来について抱え込んでしまってる真月の孤独にとって、その孤独の闇に現れて、自分の高さまで登ってくれると約束してくれたおっこの存在は、想像すると涙がこぼれるものが有ります。真月からみてもおっこは救いであったと思うし、そうだと良いなあ)
三番目は宿泊客である占い師・グローリー水領です。長い黒髪をたなびかせたこの宿泊客は、都心部に事務所を構える凄腕の女占い師なのですが、私生活での失意から「春の屋旅館」で飲んだくれ生活をしています。
抑制的な演出で描写される彼女の鬱屈をおっこはどうにかして励まそうと、浴衣を着たことのないという彼女の着付けを手伝います。浴衣初経験のそんな彼女の艶姿におっこが感嘆した感想が「格好いい!」でした。
ものすごくさり気ないシーンだったのですが、それはおっこが喪失していた「自立した憧れるべき大人の女性像」を見出した場面だったんじゃないでしょうか?
私生活で辛いことがあっても他者に当たらず、それどころか宿泊先の幼い従業員おっこに気を使っておどけてまで見せる。グローリー水領はおっこ視点では「素敵な大人のお姉さん」です。その素敵な年上のお姉さんに、「可愛い」でも「素敵」でも「綺麗」でもなく「格好いい!」と小さく叫んだおっこに、少し泣けました。お洒落で(←女子小学視点では重要です)、颯爽としてて、自立をしてて、視線を合わせて話してくれる。そんなお姉さんはおっこにとってどれほど輝いて見えたことでしょう。暗闇の中で我武者羅に迷走していた、それでも笑顔だけは守っていたおっこにとって、それは小さな灯火で「未来の自分」「目指すべき形」です。
祖母の言う「誰も拒まない花の湯」、同級生真月のいう「客を癒やすレストスペース」、女占い師が自分の仕事を「他人を励ます仕事」だと評したこと。それらは全て本作テーマに重なるパラフレーズです。そしてそういう人々の輪の中に、自分も入っていける。癒やしたり癒やされたりしながら前へ進んでいくコミュニティの一員になる。「若女将」という「自分自身と居場所を見つける話」は、おっこにとっては生存努力であり逃避だったわけですが、それを誠実に、ごっこから実体にしていくのならば、結局逃げていた「両親の喪失という苦しみを越えていく」につながっていくのだ、という脚本はすごく良かったです。
ここまで触れてませんでしたけれど、おっこには霊感があるという設定で「春の屋旅館」にきてから騒々しい幽霊の少年やおませな幽霊の少女と出会い、励まされています。両親が今でも生存していて日常は壊れていないという幻想に悩まされていた頃おっこを支えていたこの幽霊たちですが、物語終盤でおっこから見えなくなってしまうという形で別れが示唆されます。
でもそれは、おっこが人間社会のなかで居場所を確立した――七つまでは神のうちといういわばまだ神様たちの一員であり神楽の主役でもあったおっこたちが、社会の中で着地して、痛みも悲しみも乗り越えていく季節がやってきたのだというエピソードです(おそらく魔女の宅急便の黒猫ジジが喋れなくなる、も同様の構造ですよね)。
見終わってから気づいたのですが、この作品の幽霊や鬼たちは、幼いおっこが空想したイマジナリーフレンズだとしても物語が成立するように設計されています。
おっこは自分の中の勇気やかしこさと一緒に自分の悲しみと戦った。「春の屋旅館」はその舞台であり、若女将はおっこが戦うための姿だった。
すべてのフィクションはファンタジーなので現実視点を持ち込みすぎるのは野暮というものなわけですが、今後おっこは中学に入学卒業して、大学はともかく高校くらいは出るはずで、一人前になるまで十年近い時間があります。(このお話のおっこは絶対旅館業一筋だと思うのとは別に一般化するのならば)そのなかで、旅館業から離れるかもしれない。現実に寄せて考えるならその可能性は高い。
でもそんなことはおっこの戦いとそこで得たものとは関係がないわけです。おっこは若女将というコスチュームや身分を手に入れたわけではなく、戦いの中で手に入れた人間関係と自分自身がある。将来どこでなにをしようと、おっこの手に入れたものが曇ることは二度とない。それがこの映画の中心であって、それは児童労働とかそういうのではなく、もっとパーソナルで尊いものだったと思います。
はるしにゃん君がセクハラやら暴言やらで話題になっている。長らく彼をヲチしてきた者として、これから彼をヲチする者のために、彼の人物像を紹介するよ。
殻辺(@hallucinyan)さん | Twitter
もともと彼は立命館の経済だかに通っていたアイマス好きのオタクで、東浩紀や宮台真司への憧れを募らせながら、ゲンロン界隈に溶け込もうとがんばっていた。そういえば昔はハルシナと名乗っていたな。
むりゃかみゆうとは (ムリャカミユウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%80%E3%82%8A%E3%82%83%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%86
むりゃかみゆう@非公式(@muryakamiyuu)さん | Twitter
https://twitter.com/muryakamiyuu
ゲンロンの前身にあたる合同会社コンテクチュアズのマスコットキャラクター、むりゃかみゆうをモチーフに女装なんかやってた頃は、彼にも可愛げがあった。
ニコニコ動画に歌ってみたなんか上げちゃって、東浩紀への目配せがいじらしい。
組曲『あずまん動画』 - ニコニコ動画:GINZA
で、彼はそのままゲンロンのホモソーシャルで姫をやってりゃよかったものを、欲っ気を出して同人誌の編集を始めてしまった。
Amazon.co.jp: イルミナシオン: 松本 卓也, 黒瀬 陽平, 上祐 史浩, 佐藤 雄一, 有村 悠, はるしにゃん, 藤城嘘: 本
この『イルミナシオン』所収の「イルミナシオンは愛を求めて」は、はるしにゃん君が不幸な家庭で育ち、エヴァにハマり、友人の自殺を経て、童貞卒業への闘志に芽生え、デリヘルで失敗し、メンヘラ女を食い漁るようになるまでを描いた自分語りで、彼の批判者はまずこれを読んでおいたほうがいいよ。
これは劣化版『超人計画』みたいなもので、はるしにゃん君も「滝本竜彦の劣化コピーのごとき実存」とか自分で言っている。
これだけを見るとゲンロンに擦り寄っていた哀れなオタクがなんか覚醒したっぽいというだけの話だけど、覚醒した彼は『イルミナシオン』の刊行と前後して、アニメ批評にちょっかいを出すようになった。
杉田悠の「『けいおん』の偽法――逆半透明の詐術」という論考に準じて、はるしにゃん君はブログに「けいおん!の「内面」について」という記事を載せた。今は削除されちゃっているけど、ブコメから雰囲気は伝わってくる。っていうかなんで削除しちゃったんだろうね。そんなに批判されたくなかったのかな。
けいおん!の「内面」について - A Mental Hell’s Angel
http://b.hatena.ne.jp/entry/hallucinyan.hatenablog.com/entry/2012/07/25/200631
で、この記事に、泉信行や岩下朋世なんかの『ユリイカ』系の漫画研究家たちが反論を加えたことでちょっとした論争がおこった。
はるしにゃん君によると、日常系・空気系アニメである「けいおん!」には内面がなく、むちむちとした身体性によってそれが覆い隠されているんだそうだ。
その結論に至るまでの不備を指摘されているわけなんだけど、泉信行が「研究と批評は違う」みたいなことを言っちゃったせいで、はるしにゃん君は「じゃあ批評は適当でもいいじゃん」みたいなスタンスをとってしまった。これは良くないよね。
泉信行は「研究と批評は違う」とは別に「たとえ研究のような厳密性が求められない批評であっても、媒概念不周延の誤謬には注意しようね」ということを主張している。これをはるしにゃん君はガン無視し、杉田悠に助けを乞うた上、俺が批判に応えてやってるのに、みたいなことを言い出した。
当時、杉田悠が寄稿した『アニメルカ』を中心に「アニメブロガー総合スレ」というスレがあったんだけど、はるしにゃん君の大立ち回りはそこそこ話題になった。
953 :名無しさん名無しさん:2012/09/14(金) 22:52:30.49
・テンプレ
@sugita_u 生活上のストレスとかあるんでしょうけど、礼儀って素朴に重要なんじゃないですか
@sugita_u 僕は杉田悠さんがアニメルカの中では相対的に優秀だと思っています
@sugita_u 僕はあなたの原稿をトゥギャッターで乗り越えました
@sugita_u 少なくとも、擁護しようとした立場の人にいきなり「カチンと来た」「仲間だなんて思ってくるな」という発言したことを謝罪する気はないんでうすね。それは失礼です。その失礼が謝罪によって解消されるか病院の薬で解決されるか、ということでよろしいですね
@sugita_u 僕としては優しかった頃、余裕のあった頃の杉田さんが好きでした。でも変わられてしまった。しかしそれが良い展開に向かう可能性もある。僕は杉田さんの幸福を数年間祈って来ました。
@sugita_u 疑問なのはどうしてそう喧嘩腰にしか喋れないんですか。「カチンと来た」「仲間だと思わないでくれ」もそうですが。人格障害だと認めますか?
892 :名無しさん名無しさん:2012/08/31(金) 23:37:02.97
こういう奴は裏では嫌われてるって自覚ないまま消えていくよ
人の褌で相撲を取ろうとしておいて、なかなか図々しいね。でも、そこがはるしにゃん君の可愛さでもあるんだ。
https://twitter.com/hallucinyan/status/230988133540458497
僕はディベート部の部長だったので、議論と喧嘩の区別をつけています。今回の議論で僕はいずみのさんに悪印象を持ったりはしていません。むしろマンガ論の沃野の広大さを教えてくださって感謝しています
http://togetter.com/li/349401#c643714
「虐待される美少女ブヒィィィすっぽんぽんブヒィィィ」と同人誌で萌えサカッた後、「いやこれは『実在性』を剥ぎ取られた『キャラ』に『身体性』と『精神性』を『補完』する『試み』に興味を抱いたわけで」などといった「普段の僕は頭いいんです」アピールで己の「ゲスな身体性」への言い訳をするのが現代の哲学や評論であるのなら、ンなもんさっさと死ねばいいのに、と思いました。
散々な言われようのはるしにゃん君を擁護しておくと、「けいおん!内面論争」での「内面」は「ポストモダン的成熟」の有無によって判断されるもので、一般的な意味での「内面」とは別物なんだよね。でも、その辺りを理解できなかったラノベ天狗なんかはいつまで経ってもグチグチ言ってるみたい。
じゃあ「ポストモダン的成熟」って何だよって話だけど、やっぱり意味不明なんだよね。定義を明示せずに言葉を振り回しているところが、いかにも批評家くずれっぽくて微笑ましいね。
さてさて、はるしにゃん君はその後も批評をがんばり続けてきた。と同時に、メンヘラを食いまくってきた。
はるしにゃん君のメンヘラの食い方は、「俺はメンヘラなんだよぅ~つらいにゃんつらいにゃん~」ってメンヘラを引き寄せ、「君はラカンも読んだことがないの?ザコ?」みたいなことをいって罵倒し、依存させるって感じかな。想像だけど。
そうやって彼はメンヘラ女を集め、ヤりまくり、一方で、彼女たちを批評で救うみたいなスタンスのもと、同人誌を作っていった。
ところが、メンヘラはメンヘラだから、適切な治療を受けなければ死んでしまう。
はるしにゃん君の仲間で、一緒に同人誌を作っていたメンヘラ神は、メンヘラであることをコンテンツにしていくうちに、自殺してしまった。
メンヘラ神の死は、それはそれは多くのメンヘラに影響を与えたんだけど、ウェルテル効果というまではいかなかった。
でもまあ、メンヘラを集めてコンテンツ化していたはるしにゃん君は、メンヘラ神を死に追いやった一因として、散々な批判を浴びることになっちゃった。かわいそうに。
そのせいか、はるしにゃん君はしばらく燻っていたんだけど、2014年の秋ぐらいから元気になってきたみたいなんだよね。
彼の文章も、東浩紀やら宮台真司やら千葉雅也やらに褒められるようになってきた。よかったね。
で、また最近は批評をやってるみたいだ。
あれこれ思想家を引用してるけど、言ってる中身はシンプルっていうか、一般的な意味での内面がないのはご愛嬌。まだセカイ系とか言ってて、まさしくゼロ年代の亡霊だ。
東浩紀の『存在論的、郵便的』『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』『動物化するポストモダン』について - Togetterまとめ
東浩紀についてなんか、かなり熱心に語っている。
ちなみに東浩紀自身の言説には内面がないどころか、自己矛盾の塊だ。
で、はるしにゃん君の文章をいくつか読めば分かるけど、彼は思想家や哲学者の名前をジャブジャブ出しまくって権威付けを図ろうとしているよ。
けれど、本人が何か新しいことを言っているわけでもなくて、権威付け以外の何かに発展している例は今のところ見当たらないし、そこはがんばって欲しい。しんかい35と正面衝突してくれないかな。
さて、はるしにゃん君の権威付けは、複数の哲学者や社会学者が共通して言っていることを抜き出して言い換えることによって成り立っている。
はるしにゃん君が「ルーマンはラカン以下」なんて言っちゃった時は、ルーマン研究者の酒井泰斗がげっそりしていたよ。
https://twitter.com/contractio/status/197244430338633729
前者は「似てるよね分析」と呼んでいますが、後者はなんと呼びましょうかね。
RT @sskyt: 「Aは……Bと……似ている!」とか「Aは……Bを……読んでいた!」みたいな研究て全然興味持てないんだけど。
https://twitter.com/contractio/status/197247900085002240
組み合わせると、「昔の人Bが言っていたXは 最近Aが言っているYに似ているのでB偉かった」のようなかなり高度な主張が可能となる。
https://twitter.com/hallucinyan/status/547789378999681024
ルーマンの言ってることって大概ラカンが述べてるしラカンを超えてる部分があまり見当たらないというのが個人的な見解で、じゃあ「ポストモダニストより社会学者から引用したほうが叩かれにくい」という政治的効率性以外の点でルーマンの卓越性ってどこにあるんだろうって思っている
https://twitter.com/hallucinyan/status/547790901955670016
そしておそらくオートポイエーシスもコンティンジェンシーもシニフィアン連鎖や対象aの問題であり、そして後期ラカン的なサントームや、男女間のセクシュアリティの差異、大文字の他者の享楽についてルーマンが叙述できているかといえばできていないと思う
https://twitter.com/hallucinyan/status/559584058137538560
単にルーマンがつまんないって言っても面白くないから「じゃあラカン先生のどこを超えてるんですか? どこも超えてないでしょ?」って煽ってるのわからないのかわかったうえでなにも言えないのか
https://twitter.com/contractio/status/559588003417296896
煽ると何が面白いんですか。
https://twitter.com/contractio/status/559588541454233600
「どっちが強いですか」で語る現代思想。
https://twitter.com/contractio/status/559590072593309698
「つまんない」場合の対処は、面白い読み方に変えるか 読むのを止めるかのどっちかではないですかね。
はるしにゃん君は「越えてる」「越えてない」で思想家を語るのが好きなんだ。すぐにブロックするところは、師匠の東浩紀譲り。
そんなこんなで、批評をがんばっているはるしにゃん君は、同時にホストとしてもがんばっているみたい、と思ったら、最近言及してないし辞めたのかな。
その代わりに、イベンターやら何やらでがんばっているみたい。高円寺のカフェバーでいろいろやるみたいだよ。
ところが、はるしにゃんの努力を邪魔する連中が現れてしまった。
成上友織, はるしにゃん君の暴言・差別発言について
これは、はるしにゃん君と交友があったセイジョウ君からの批判だ。
はるしにゃん君の言葉を用いると、彼の言動を理解できない者は「ザコ」であり、彼に疑問を呈する者は「アスペ」であり、彼に反発する者は「ボダ」になる。
そして、はるしにゃん君はその広範な知識と、お得意の言い換えによって批判を封殺しようとしたよ。
メンヘラとレイシズムについての所感と応答 - A Mental Hell’s Angel
http://hallucinyan.hatenablog.com/entry/2015/02/07/134950
まず第一に私は大学で精神病理学を学んでいた。もちろんクラインもラカンもドゥルーズも読んだうえに、さらにアメリカのDSM的な診断マニュアルについても目を通している。そして最新の精神療法についてもサーヴェイしている。
大学で精神病理学を学んでいたからといって、学位を持ってるわけでもないのだから、別にはるしにゃん君の言動は正当化されないんだけど、はるしにゃん君は批判者に病識があるという一点のみで批判を潰そうとした。批判の内容についてはほぼ耳を貸そうとせず、俺はメンヘラと正しく交流しているから、って理由で自己正当化を図っている。
そして私は単に批判しているのみならず、いわゆる弁証法的行動療法であるとかメンタライゼーションといった理論と療法については高額な医学書を大量に購入してサーヴェイしているし、また、それを人口に膾炙させるために活動しているつもりである。
でも、実際。
メンヘラ神は死んじゃったよね。
はるしにゃん君に全く落ち度がなかったってわけじゃないだろう。
っていうか何でメンヘラと交流するんだろうか。やっぱりヤレるからなのかな。
精神医学の知識をばら撒き、メンヘラとセックスするメリットを享受しておきながら、メンヘラを批判し、メンヘラを善導しているから俺はオッケーってどういうスタンスだよ。メンヘラとセックスできることがメリットなのかどうかはさておき。
さらにさらに、はるしにゃん君の行く手を阻むものは次々と現れる。
はるしにゃん君は2月11日に、マネージャーを務めるカフェバーで「インテリイケメンツイッタラーによる一日限定ホストクラブ」というイベントを開催しようとしていた。
明らかにメンヘラを集めて搾取しようというイベントだけど、さっきの「メンヘラとレイシズムについての所感と応答」によるとはるしにゃん君は「私としては一方で啓蒙的にコンスタティヴな文章を書き、他方でパフォーマティヴには「ボダはあまり私に関わらないで」といったパフォーマンスをせざるをえない。」らしい。ホストイベントにボダ来るだろうし、キャストもボダっぽいじゃねーか。
で、はるしにゃん君はイベントのキャストの知人友人にセクハラを働いていたみたいで、団結したキャスト達にそれを暴露されてしまったようだ。
ところが、このキャスト達ははるしにゃん君からドラッグを貰っていたようで、はるしにゃん君にそこを突かれると逆らえないようだ。
便乗して、同人関係ではるしにゃん君と揉め事があったホリィ・センがはるしにゃん君を批判しようとしたけれど、私怨だし、アスペだしで不発に終わってしまった。
きっとはるしにゃん君のセクハラは事実だろうし、暴言を取り消すつもりはないようだし、そして自ら公言しているように彼はドラッグをやっている。
だから、彼を批判したければ、その3点を攻撃すればいいというのに、批判者はザコばかり。
だからはるしにゃん君は怒っている。
はるしにゃん君の論法は、ジャーゴンに次ぐジャーゴン、パラフレーズに次ぐパラフレーズ、そして脈絡なくホストクラブやドラッグの話を持ち出し、相手の理解が追いつかないところが一点でもあれば封殺するというものだ。
宮台真司譲りのこの論法をどうにかできる人が現れるまで、ヲチを楽しみたい。
http://twitter.com/hallucinyan/status/562904272363614208
【無限への飛翔 集合論の誕生 (大人のための数学 3)/志賀 浩二】を読んだ本に追加 →bookmeter.com/b/4314010428 #bookmeter
http://twitter.com/Back0126/status/562961572063375360
@hallucinyan こうやって、数学にいい加減な哲学かぶれが生まれると思うと感慨深い 数学に関しては、じっくり真摯に読むことをお勧めします
http://twitter.com/Back0126/status/562975033807884289
@hallucinyan おお、ブロックされた その程度か
http://twitter.com/Back0126/status/562978566921793538
@hallucinyan 高校数学を勉強したからと言って、集合論を含む専門的な数学を斜め読み程度で理解できるといういい加減な考えをバカにされてるわけです
http://twitter.com/hallucinyan/status/562971657800024064
馬鹿はすぐにソーカルがどうとか言い出すが、そもそもお前どの程度ソーカル読めてて理数的に優秀でそのうえで人文社会科学への理解あるんだという話。
http://twitter.com/Back0126/status/562978789643550720
@hallucinyan ソーカルの言明程度なら、大学数学をきちんと理解していれば誰でも理解できますよ わからないんですか?
http://twitter.com/hallucinyan/status/562972324442681344
日本におけるサイエンスウォーズでは浅田彰と山形浩生の位相幾何学問題があったわけですが、それも浅田は間違っていなかったという形で終焉を迎えましたし、彼もそもそも経済学部でゲーム理論やっていたわけです
http://twitter.com/Back0126/status/562979281123684353
@hallucinyan しかし、浅田氏が理解していたわけではない、概ね菊池先生のフォローによるものだ、という考えが一般的なようですね
http://twitter.com/hallucinyan/status/562972928057561089
hallucinyan:そして日本において最も早くソーカル事件を紹介したのもポストモダン系の人間でありそして一定以上はきちんと真摯にそれを受け止めたように思われる。
http://twitter.com/Back0126/status/562979357300641793
@hallucinyan え?
http://twitter.com/hallucinyan/status/562974083143704578
そして「××は間違っている!」とばかり声高に言いたがる奴は大概自分から生産的なことを言えないので、きちんと内容のあること言ってその次に批判すると良いんじゃないかと思います。当事者含めた全員のために。
http://twitter.com/Back0126/status/562980233218109441
@hallucinyan 間違っていることを間違っていると指摘することは、当人が生産的かどうかと無関係に指摘していいんじゃないですか?少なくとも、真偽の判定が比較的易しい数学においては
http://twitter.com/Back0126/status/562980757292191744
@hallucinyan というわけで、とりあえずこの辺りでやめておきましょう 貴方が数学に関していい加減なことを言わない限り、今後リプライしません
http://twitter.com/Back0126/status/562981991889784832
はるしにゃん(@hallucinyan)という人物が、数学をいい加減な理解に基づきいい加減に発言しているということが、概ねはっきりしたようだ
ディベート部と同じで、高校数学をやっていたからって乱暴に数学を語っていいということじゃないけど、はるしにゃん君の勢いは止まらない。
例の一文を邦訳するにあたって一番の障害は "pardonné" の宗教的含意に相当する概念が日本語圏に存在しない、少なくとも浸透していないことだよね。
日本語ではどちらにも「ゆるす」があてられてきた経緯があるけど、これはLとRの違いみたいなもんで、我々には区別がつきづらいだけで実際には全然違うところがある。
(アスペ日記も指摘するとおり)「許す」と「赦す」の使い分けはないけれど、「許可」や「特許」、「赦免」や「恩赦」の使い分けはあるわけで、
そこから連想される含意の差異に仮託して「すべては赦される」と訳出する方が文化翻訳の観点でより自然だったよね、ということだと思う。
http://b.hatena.ne.jp/entry/why-kaisan.com/
なんでこんなしょうもない炎上騒ぎが起きてしまったのかというと、青木くんが小学四年生を騙っていたからではなくて、
かれの思惑にまんまと乗せられて自分の馬鹿さ加減を露出狂よろしく大衆の前で開陳してしまったことが悔しくてたまらなかった者がただ大勢いたからなんであるwww
かれは考えたwwwかれ自身がそうと信じてやまないところの高尚な政治的洞察、つまり衆議院解散はまったくナンセンスな愚挙であり、
そんなことを断行しようする与党は国民の風上にも置けない不埒な無教養者の集団である、というかれ独自の意見を、
余計な文脈や忖度なしに内容それ自体が無条件で注目され評価されるためには、大学生という身分の青臭さは意見発言の行為遂行的な側面を強調しすぎているとwww
誰がなんのために、という忖度を回避するためにこそ、高度なサイト構築技術をもつ小学生という、
意見発信者の奇抜なプロフィールとともに根源的なノンポリ性が捏造されねばならなかったんであるwww
したがって、「どうして解散するんですか?」という問いは、こうした要請のもとで成立する非人称化されたかれの意見であり、パラフレーズされたかれの煽りに他ならないwww
そして青木くんの洞察はある意味ではきわめて正当であったwwwかれが身元を偽っていたことに憤る連中は、
もし本人が自己顕示欲の肥大した一介の大学生だと知っていたならば、こんな意見に付き合うつもりなんてさらさらなかったはずだと
自分でもわきまえているからこそ憤ったんであるwww言い換えれば、自分たちが意見の内容をそれ自体で吟味することがいっさいできず、
誰がなんのために発言したのかというつまらない忖度と状況からの憶測でしか物事を判断できない人間であることがかくも華々しく暴露されてしまったので、
そのことに地団駄を踏んでいるんであるwwwあほであるwwww
かれらのさらに滑稽な点は、そんな己の不明を恥じ入ろうともせずに、かれの虚偽を真顔でなじるところにあるwww
しかし一介の大学生が自分は小学生だと名乗ることにいったいどんな深刻な問題が潜んでいるというのかwww
連中のくだらない熱情はいまのところ青木くん一味の倫理的落ち度をことさらに強調することに向けられているが、
その熱情は、腐りきった俗物根性が自分自身に露呈されるのを恐れるあまり、それを未然に覆い隠すために発せられたものなのであるwww
これを転嫁とよぶwwwwwwおわりwwwwwwwww