はてなキーワード: バンタム級とは
2021年12月 デイバエン戦 WBA/IBFバンタム級王座防衛戦 →「・・・」前回のただのタイトルマッチ
2022年6月 ドネア2戦 →「うおー!ドネアとの因縁の再戦!」「WBCを加えて3団体の統一だ!」
2022年6月 バトラー戦 →「うおー!とうとう4団体統一だ!」
2023年7月 フルトン戦 →「スーパーバンタムでも通用するのか!?」
2023年12月 タパレス戦 →「2回級連続での4団体統一いけるのか!?」
2023年5月 ネリ戦 →「(ちょいテンション下がるけど)山中の敵討だ!」「東京ドームやぞ!」
まずK-1ブームの先駆けとなったアンディ・フグ~セームシュルト時代の
基本100kg以上
だから日本から出て行ってまともに?やれたのは武蔵と佐竹くらいだった
その次に流行ったのは魔裟斗が先陣を切ったK-1 MAXでこれはミドル級
70kg契約
Hero's(Dynamite!)、PRIDE等の総合が盛り上がった
PRIDEは93kgオーバーのヘヴィ級と93kgアンダーのミドル級が盛り上がった
ミドルはヴァンダレイ・シウバや桜庭和志なんかが活躍してたよね
つーかミドルって93kgアンダーだったのかよ、ガバガバ階級じゃねーか
神の子、山本KID徳郁が活躍したK-1の総合路線のHero'sやDynamiteも
まぁ、KIDはふだん60kgくらいだったらしいけど
武尊はK-1のスーパーバンタム級王者で55kgアンダーからスタートして現60kgアンダー王者
明らかに軽くなってんだよね
というより、他の格闘技のほうが圧倒的に少ない。
実は総合格闘技の漫画はないわけではなく、有名所で『オールラウンダー廻(格闘団体『修斗』の空気感を強く反映している)』、マイナーで古臭い『格闘太陽伝ガチ(『PRIDE』時代の空気を色濃く反映している)』などがあり、未読のものでも『鉄風』、『ハナカク』等があるらしい。しかしほとんど無名でしかも数が少ない。
例えばなぜ総合のスタンディングは間合いが遠いのか、という視聴初心者にはまるでわからない問題から、テイクダウン(相手を倒す所作)タックルの入り方、入ったあとの攻防でどう立ち続けるか、などスタンディングから寝技に入るまですらいくつかの段階がある。寝るともっと細かい。しかしこれだけでは理由にならない。何故ならボクシング漫画にも細かな攻防が散りばめられてるし、こうした細やかさは『はじめの一歩』を皮切りにしてその後の漫画で通例となっている。例えば右ガードを上げっぱなしにして直ぐに左の返しを打つ、縦拳でねじ込むなどの試合を見るだけではわからないテクニックが盛り込まれる。
特に初心者の場合、総合で寝技に入ったあと困惑しがちだ。「この人達なんで抱き合ったまま動かんの?」が一般的な感覚だろう。漫画にする際に一番問題なのがこの地味さだ。ともかく総合のグラップリング(組技)のビジュアルは地味に尽きる。よほどの実力差がないときれいに腕とったかと思ったらそのまま頸動脈を締めてフィニッシュ、なんてことにはならない。ダラダラと抱き合って時々ポンポンと叩いたかと思ったらまた起き上がる、の繰り返しだ。人気が出にくいのも無理はない。しかしその地味な中で選手は常に目まぐるしく考えている。ハーフガードから足を抜いてサイドを取って、裸絞か腕十字の二択をかけながらバックチョークを狙い、更にこの中間にパウンドを挟んでゆく、という思考ゲームを繰り広げる。故に柔術は才能や瞬発力より学習と反復であると言われており、特に能力のうち努力の比重が高い(もちろんフィジカル面において足が長いほうが有利、体重差は関係するなどの条件は一応ある)。こうしたほぼ見えてこない攻防は柔術教習系のYouTubeを何度か見ることによって初めて理解されるものであり、そうでない限りはまるでわからずに試合が過ぎてゆく。漫画でこれを再現するには動きのないシーンをずっと続けなければならない。つまり決定的に漫画やアニメに向いていない。総合を漫画やアニメにする場合、両者が軽量級で締めや関節の攻防がスピーディーに繰り広げられるという目まぐるしい展開を技と作らなければならない。
ボクシング漫画は効能がわかりやすい。こう殴ればこう効く、こう殴ればジョルトカウンターだ、といったビジュアルでの説明がそのまま通用する。ボクシングが思考ゲームではない、頭は使わないと言ってるわけではなく、見た目がわかりやすいのだ。
しかし総合は微妙な違いを上手に絵として伝達しにくい。試合ですらわからないのに、同じビジュアル重視の漫画・アニメで十全に理解されるわけもない。
実は今日のYouTube界ではもはやボクシングのほうがマイナースポーツ扱いである。畑山・竹原・渡嘉敷のご三方が出演するチャンネルも総合格闘家の朝倉未来をゲストに迎えてやっと跳ねるという具合で、井上尚弥以外は完全に下火だ。京口紘人の防衛など一般人はほぼ知らない。
が、いわゆる格闘技と言って未だに思い浮かぶのはボクシングないしプロレスである。なぜなら総合格闘技興行である『PRIDE』が外資に買い叩かれて空中分解し、『K-1』が財政破綻で解体された後、日本の格闘シーンには長い空白期間が存在したからだ。後にキックボクシングなどが日の目を見ることはなかったし、K-1の再生と『RIZE』や『KNOCKOUT』と神童・那須川天心の訪れを待ち、更には『THE・OUTSIDER』『RIZIN』の登場を待たねばならなかった。一般市民がプロレスとボクシングが格闘技だという認識を持つほどに、格闘技は忘却されていたのである。
総合格闘技の知名度は『RIZIN』次第になってしまったが、これからというところでコロナが襲いかかってきた。試合は国内の選手だけに限定され、海外の強豪と試合をするチャンスは潰えた。また、同時に国内のバンタム級王者マネル・ケイプが海外の総合格闘技団体大手の『UFC』で連敗するという事態が起こり、今もまた危機的状況にある。
こうした浮き沈みの激しさから題材化する事が大変難しい。キックの場合でも再生した現『K-1』の安定からメディア化の波が起こってもおかしくはないが、ルールがいわゆる肘ありと首相撲ありのムエタイルールとは程遠く、漫画化するにしてもキックの代表格として扱うには難しく感じられる。
総合は細かすぎる技の数々、見た目の地味さとわかりにくさ、競技人口の少なさとマイナーさなどが相まって漫画家が難しい分野である。キックはボクシングと同じく題材化しやすいものの、マイナースポーツ感がさらに強い。
ちなみにタイトルからして『メガロボクス』を思い浮かべた人も多いだろうが、ボクシングと言うよりボクサーの生き様が焦点であり、今回は語らなかった。『メガロボクス』単体なら長文を書けるほどに好きだが。
追記01:競技として完成されつつある総合格闘技と古き良き異種格闘戦はだいぶ毛色が違う。細かく言えば総合の始まりであるバーリトゥードと今日のMMAは別物と言っていいし、ストリートファイトと総合格闘技もだいぶ違う。そんな意味で刃牙は異種格闘戦あるいはストリートファイト的だし、総合の範囲を広く取りすぎると述べたいテーマから逸脱する。『エアマスター』はストリートファイト的な上にファンタジーが多く、リアリティよりも勢い重視なので総合漫画とは言えないし、修羅の門もファンタジー(技についての意味)武術漫画で総合とは無関係だったり。
けして上記漫画がつまらないと言ってるわけではなく面白いと思う。ただ総合じゃないよねと。あと『史上最強の弟子ケンイチ』に触れてなかったけど、詳しくないのに言うのも気が引けたし、『ツマヌダ格闘街』は読みたいけど読んでなかったのでほんとすまん。
追記02:柔道漫画を上げる人がいるけど、柔道と柔術じゃグラウンドの攻防がまるで違う。そしてMMAの柔術と競技柔術でも全く違う。競技漫画として柔術と柔道が比肩するという意見は的が外れている。
https://www.videor.co.jp/tvrating/past_tvrating/boxing/01/index.html
具志堅と辰吉と亀田の人気があっただけでもともとこんなもんやろ。
それでもボクシングは定期的にゴールデンタイムに放送されとるし、PRIDE・K-1の没落やプロレスの低迷に比べたらぜんぜんマシやで。
パッキャオの6階級制覇がもう10年前、ドネアの5階級制覇でさえ5年前と考えると
むしろ最近やとクロフォードやウシクの主要四団体統一のほうが注目されとるで。
そのWBSSバンタム級で井上尚弥は圧倒的な強さをこの二試合で見せつけたというのに、日本ではそんなに騒がれている様子がない、という寂しさ・・・
というかボクシングの弱点はそこやで。
これで勝てば有名になれる権威のある試合、っていうのがないんや。
日本歴代最強、現役世界最強との評判もある井上尚弥がつい最近イギリスで、バンタム級では事実上の世界最強決定戦だと言われていた、IBF世界チャンピオンのエマヌエル・ロドリゲスをなんと2Rノックアウト。
あまりマニアではないものの、ボクシング好きな俺はその衝撃に興奮したわけだが、その日、その試合の話を会社でしたら誰も井上尚弥を知らなかった。
そのうちの一人に「マジで知らないの?」って聞いたらほんとに知らないって。
じゃぁ誰なら知ってる? ってそいつに聞いたら「亀田興毅」。とっくに引退したってばさ。
プロデビュー以来、18戦全勝・16KO勝ち・三階級世界制覇・2団体統一王者で、世界チャンピオンや元世界チャンピオンを何度も1〜2RKO、「井上は井上自身以外誰も勝てない」と言われるほどなのに、知らない???
大した実力もなかった口だけ達者なお騒がせ亀田にあんなに熱狂してたのに、亀田なんかよりはるかに真っ当で段違いに強い井上尚弥を知らないなんて、意味不明。
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トラバやブコメ読んでると、実感通り最近はボクシング人気はあまりないようだ。
日本は意外かもしれないが、世界全体で見るとボクシング大国だそうだ。
世界的なボクシング記録サイト「ボックスレク」によると、2017年4月20日時点で、アクティブに活動しているプロボクサーの数は世界で2万3460人。ボクシング大国のメキシコが3343人、マーケットの一番大きいアメリカが3266人、いま最もボクシング景気がいいと言われるイギリスが1000人で、日本は1436人となっている。同サイトによれば、ほかに1000人を超える国はアルゼンチンだけだ。
https://number.bunshun.jp/articles/-/827916
ところが同記事によれば、日本のボクシング人口は減少の一途だという。
記事では少子化などを原因に挙げているが、K-1のように格闘技ジャンルが増えたことも一因かもしれない。一時期確かにK-1はテレビの放映時間帯を奪っていたし。
友人と話していたら、その昔は具志堅や辰吉など、昭和から平成中期ぐらいまではボクシング人気は確かに続いていた、と。
悪漢亀田の影響もあるかも知れぬ、と、あれで白けてしまい多くの世間的人気を失った面もあるのでは、という話もあった。
ところで一個だけブコメに返事。
3階級制覇とか2団体統一とか、とにかく王座の扱いが軽すぎて誰がどう強いのか端から見ていてさっぱり分からない。なんで統一王者や防衛戦を目指さずに階級を変えるのかが分からない。
最近の傾向としては連続防衛記録よりも複数階級制覇を目指す傾向が強いですね。同一階級だと強い相手が限られていることや、複数階級だとサクッと階級上げてマッチメイクしやすいこと、上位階級の強い相手を倒せば同一階級でやるより強いイメージを与える事ができるなど、色々理由があるそうです。
そうしないと、ただでさえ現在では同一階級に、正規王座、スーパー王座、暫定王座など複数の王座規定があったり、或いは主要4団体に渡って何人もチャンピオンがいて「ほんとに強いかどうかわかりにくい」状態なので、同団体同一階級に拘ってても面白みにかけるわけです。
ただ、複数階級制覇も体重コントロールが難しいなど、出来る人は限られているので(パッキャオみたいな六階級制覇は異常)、じゃぁ同一階級で世界一決めようじゃないかという意図で始まったのが、井上尚弥が今やってるWBSS(World Boxing Super Series)なんですよね。
そのWBSSバンタム級で井上尚弥は圧倒的な強さをこの二試合で見せつけたというのに、日本ではそんなに騒がれている様子がない、という寂しさ・・・
どちらも同じ会見の記事化です。
https://www.nikkansports.com/battle/news/201810090000166.html
日本人世界戦の2戦連続1回KO勝ちも元WBC同級王者長谷川穂積と並ぶ日本記録となる。来年3月ごろに米国で予定される準決勝では3戦連続KO勝ちという新記録がかかる。両肩に力が入りすぎることを考慮し、井上は「完封します」とだけ宣言。師匠の大橋会長は「パヤノ戦は歴史に残るKO。大体、30秒で相手を見極められる。また早い段階で決めちゃうかも」と新記録を予告した。
過去にも当時の国内最速で2階級、3階級と制覇し、パヤノ戦でも日本人の世界戦通算KO記録(11試合)、連続KO記録(7連続)も更新した。今後もボクシング界の歴史を塗り替える好機は巡るため「1つ1つの試合をやって結果的に記録がついてきた。この形で続けられたら」と新記録樹立の継続に意欲的だ。
https://www.daily.co.jp/ring/2018/10/08/0011713493.shtml
井上尚弥 “次も1回KO”の期待に苦笑「宣言はしませんよ!」
同級世界4位で元同級スーパー王者のフアンカルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)に1回1分10秒でKO勝ちという結果で世界を震撼させたが、次回も1回KOかと水を向けられると「やめてくださいよ」と苦笑していた。
井上は今年5月に、バンタム級世界タイトルマッチでジェイミー・マクドネル(英国)に1回1分52秒でKO勝利しており、2試合連続での1回KOを達成した。こうした流れからの質問だったが、井上は「やめてくださいよ。KO宣言はしませんよ!」と苦笑い。「マクドネル戦を超える衝撃をと考えることがあったので。たまたまああいう風になったから良かったですけど。それがまた次もという保証はないです。トップレベルで」とKOには固執しなかった。
しかし、「次回は完封します」と相手に当てさせないボクシングにはこだわりを見せた。
1回1分10秒でのKOは日本人による世界戦の最短記録。世界戦7戦連続KO勝利、世界戦通算11試合KO勝利も日本新記録となった。「今回も試合1つ1つに対して、自分のやれることをやったらついてきた記録なので。この先もそういう形で超えていけたらいいですね」と、目の前の試合に専念すると語った。
中身にちゃんと大橋会長が言ったと書いてりゃそれでいいのか?明らかにミスリードを誘ってるよね。
井上選手の強さは謙虚で調子に乗らず油断しない性格にも起因するので、勝手にチャラいこと言わせるなよ。
◾️新記録宣言に否定的な当人を無視して新記録押しの持論を軸に記事化
本当に同じ会見なんだろうかと言うくらい執拗な新記録押し。全ての言葉が新記録に繋げられている。
大坂なおみ選手に続いてまたしても朝日新聞社系列なんだけど、当人の意思を無視して持論を軸にするならもうインタビューなんてやめてしまへ。
新記録を樹立した人に勝手に新記録の荷を負わせるのは大昔からのにわかの悪習。負担も考えず騒ぎ立てるのはただの邪魔。本当に期待するなら尚更邪魔するなよ。
◾️最後に
井上選手にとって記録はおまけ。一戦一戦やる事やってたら自然と付いてくるものと思っていたので、デイリースポーツの記事には本当救われました。一ファンとしてもそんな選手であり続けて欲しい。
ナイトプール…夜間に開かれる水泳場のことで、日焼けをせず写真も映えるとパリピに大人気。基本的に泳ぐことはなく水着でムーディに過ごすことが目的。
デッドプール…マーベル・コミックに登場する不老不死の狂人で、メタフィクション的な能力を持ち、トリックスターとして活躍する。1991年に初登場と、アメコミヒーローの中では新顔の部類に入る。
ダークプール…証券取引をするにあたって取引所を通さず証券会社の社内だけで成立させるサービス。匿名性の高い取引が可能となる。
ブラックプール…イギリス・ランカシャー州にある都市。保養地として人気がある。また世界最高峰の社交ダンス競技会が開かれることでも有名で、映画『Shall we ダンス?』にも登場した。
モータープール…英語では企業や政府機関などが所有する配車場のことを指すが、関西ではそれが転じて駐車場全般を指すようになったという。
ストレートプール…ビリヤードのルールの一つ。15個の的球を番号に関係なく落としていき、最後の一つになったら落とした14個を組んでブレイクしてまたゲームを継続する。
インフィニティプール…周縁から水を落とすことで仕切りがないように見せかけた水泳場のこと。屋外・屋上に設置され、まるで海や空と繋がっているように見える。
モンシプール…フランスのプロボクサー。元WBAスーパーバンタム級王者。王座陥落後に引退、2年8ヵ月後に復帰するも当時のWBAバンタム級王者アンセルモ・モレノに敗北して再び引退した。
シャープール…サーサーン朝ペルシアの第二代皇帝。ローマ帝国との戦争を優位に進め、インドのクシャーナ朝を滅ぼし、ゾロアスター教を国教とした。後にシャープール2世と3世がいる。
クアラルンプール…マレーシアの首都。クアラ(合流地点)ルンプール(泥)という意味がある。過密化が進んだために2000年ごろから行政機能はプトラジャヤに移転している。
◆山中慎介(WBCバンタム級を12度防衛中の王者で村田の高校の先輩)の話 「ジャッジに対してショック。何を言ったらいいか分からない。村田はしっかりブロックして、自分の良さを出せていた」
◆浜田剛史氏(元世界スーパーライト級王者)の話 「採点にはびっくりした。村田はこれ以上ない出来だと思っていた。エンダムは手数が多かったけれど、村田はしっかりブロックしていた」
◆竹原慎二氏(元ミドル級世界王者)の話 「自分の採点では5ポイント、村田君が勝っていた。すごく残念。王座を取るならば、村田君だと思っていた。勝ちに等しい負けだと思う。もう一度チャンスがあれば」
◆帝拳ジム・本田明彦会長の話 「村田が勝っていた。相手は手数というよりも逃げていただけ。村田は完璧に闘うことができたので、無理に倒しにいかず、慎重になった部分はあった。ただ、負けは絶対にない。こういう判定ではボクシングの信用がなくなってしまう」
WBAのCEOを初め、各関係者や世界中のボクシングファンに「インチキ試合」だとコメントされてるこのタイトルマッチを見て、もはやこちらとしては感慨も何一つない
長いので、興味ない人は1行くらいでスルーしてください。
「疎外論」批判というのが一部でちょっと盛り上がっていたみたいですが。
なぜ「疎外論」という発想が生まれたのかと言えば、それはたぶん、他人を説得する時にそういう方法しか思いつかなかったからじゃないかと思います。「本来の人間の姿」と「本来的じゃない現在の人間の姿」とを対比させて、その差異を見せ付けることで「ほら、現在はこのような問題があるんだから」と問題のありかを指し示すというのは、他人に自分の意見を示す上でも非常にわかりやすくなりますし。
じゃあ逆に、疎外論抜きで「私は社会に対してこのような問題意識を持っている」ことを指し示すとしたら、どうなるでしょうか。
「見ろ、このような社会のあり方は問題だ」
「なんで? 人間の生活はあるようにある、ただそれだけじゃん」
「なんでだよ、こんな社会のあり方は人間にとって生き難いだろうに」
「生き難いって、何と比べて言ってるのよ」
「そりゃあもちろん……いけね、“あるべき仮想的な理念像”はここでは使えないんだっけ。えーっと、それじゃあ社会の上層のあの人や中層のあの人と比べてだね」
「おいおい、そうやって万人を万人といちいち一対一マッチングさせる気か。地球シミュレータをフル回転させても無理だと思うぞ」
「いやだから、技術的な問題じゃなくて社会構築の原理的な問題をだね」
「そうやってすぐ空想的な原理原則を持ち出す、君は本当にどうしようもないほど形而上的だな」
「うがー。目の前で死にかかっているこんなに人がいるのに放っておく気か」
「その人を手当てすりゃいいじゃん」
……話はどこまでも噛み合わないまま終わりそうですが。
「あるべき理想的な人間像」とか「あるべき理想的な社会像」の提示(による疎外論の提唱)をどこまでも徹底的に否定していくと、実は現行の国家や行政機構の役割が限りなくゼロに近づいていったりするんですな。
例えば教育。そもそも公教育制度って、政治や社会活動(経済活動を含む)に参加する上で必要最低限の知識を万人に保証するために行うものですから、教育の意義そのものが「あるべき“教育された国民像”」と「教育されていない国民像」との差分に基づいて、まさに疎外論的に「あるべき理想像を国民に保証する」ことにあるわけです。
だから、指を折って数えられる以上の数字を知らなかったり漢数字以外の漢字が読めない国民がいたって、それを「あるべき“教育された国民像”から疎外された、非本来的な国民のあり方」と捉えることは出来ないのです。そもそも「“教育された人間”の本来的な姿」が棄却されているわけですから。その人については、それはそういうものとして「まあそんな人もいるよね」と受け取っておくしかありません。学力比較がしたければ、無理に一般的な学力基準を作らなくたって、めいめいが勝手に「あいつ俺より頭よさそうだなー」「奴は俺よりバカだ」とかって思っておけばいいんです。
警察組織も必要なくなりますよね。別に治安がいいことをもって「社会の本来的なあるべき姿」とする必要は無いんですから、もし199X年に地球が核の炎に包まれた後のような暴力の時代が到来しても、またそこで弱者を救う世紀末救世主みたいなのが出現しなくても、「これは人間が生きていく本来の社会のあり方じゃない」と嘆くことは出来ないのです。それはそういうものなのですから。
他にも、現状を維持したり向上させたりする政策を立案・実施するためには、そもそもの発想の根源に、現状がそのまま維持された延長線上に想定される未来像や現状から何らかの意味で改善された未来像が、「本来そうあるべき像」として時系列的未来に投影されていなければなりません。もしそうしなければ、「本来あるべき未来」と、「現在」ないしは「メンテナンスを何も行わないという条件下で現在からの延長線上に出現しうる未来」との差分を検出することが、まったく不可能になってしまうからです。比較対照としての「あるべき像」が無いのに何と比較しろってのさ。
だから、さっきの199X年に、ミスミじいさんが種モミを必死に抱え込んで「明日がー明日がー」と叫んでいるところに割り込んで、明日の収穫のためではなく今日の俺の腹の足しのために種モミを食ってしまっても、何の問題もありません。そもそも比較すべき「明日=あるべき社会像」が存在しないんですから。「明日の収穫」なんてものは、勝手に「本来あるべき社会像」を未来に投影してこしらえた幻影なのです。その幻影と現在とを比較して「人間は本来的にあるべき“明日の収穫”から疎外されている」などというのは形而上学もいいとこです。厳然として存在するのは、目の前の「種モミ」だけなんですから。これがやがて稲穂の波へと弁証法的に発展していくなんてまだ見ぬ未来を夢想するのはヘーゲルやマルクスの読みすぎというものです。さあ、種モミなんて食ってしまいましょう。え、将来の人間が飢えてしまう? 何言ってるんですか、将来の人間なんてここにはいないじゃないですか。いたら今すぐここに連れてきて「飢えた人の発生」を実証してくださいよ。だいたい飢えたところでせいぜい死んで人口がちょっとばかり減るだけですから、むしろ上手い具合に人口の調節が図れていいんじゃないですか。それとも何ですか、まさかあなた、年がら年中腕に止まった蚊を叩き潰したり肉を食ったりして他の生物をどんどん殺しているくせに、ホモ・サピエンスは他の生物種とは異なって神に祝福された特別な存在だから常に生き残る価値があるだなんて、今のご時世に信じていたりするんですか?
いやー、しっかしそう考えると、なんでよど号ハイジャック犯が『あしたのジョー』を引き合いに出したのかがよく判るなー。あれってきっと、連中にとっては「擬人化された疎外論」だったんですよ。ほら、「あしたのために」とか「泪橋を逆に渡る」とか、本来性の掛け声がビシバシ響いてるじゃないですか。ジョーの本来あるべき姿って、段平オヤジにとっては「ボクシングのチャンピオン」、ジョー自身にとっては「憎いあんちくしょうをリング上で叩きのめしている自分」なのであって、そうじゃない現状のジョーはあるべき理想的ジョー像から「疎外」されているわけですよ。だからこそ段平はあるべき姿の「あした」を目指して、「あしたのために その1・フォイエルバッハテーゼ」「あしたのために その2・資本論」「あしたのために その3・共産党宣言」とかってのをせっせと書き綴るし、ジョーはジョーで欠かさずトレーニングして「内臓をえぐるように(カラシニコフを)撃つべし!撃つべし!」なんてやってるし。こんなふうに「あるべき姿」を必死に目指したって碌なことにならないのは、「ジョーをバンタム級のリングの上でぶちのめす自分」を「あるべき自己像」に据えて、「だめだ、この体重では俺はバンタム級のリングから疎外されたままだ」とばかりにむちゃくちゃな減量を行った力石徹が、自らの死をもって示しているのにねえ。
だから、庵野監督も大月Pも角川の偉い人も、エヴァンゲリオンをテレビ版の最終回でさっさと終わらせておけば、「僕はここにいてもいいんだ」→「おめでとう」パチパチパチで「そのままの姿でここにいる自分の全肯定」として話がきれいに収まったんですよ。それをよしゃあいいのに、劇場版(97年の)なんか作って「あるべきコミュニケーションのあり方」に話を膨らませちゃったりするから、「あれ、本当はこんなコミュニケーションのあり方はいけないんじゃないかな? 本来のコミュニケーションのあり方ってどんなのかな? 今の僕たちは本来のコミュニケーションのあり方から疎外されてるんじゃないかな?」みたいな方向に考えを向かせる契機を作っちゃうわけで。もう「そのままの自分まるごと全肯定」でいいじゃん。マルクス先生が「宗教はアヘンだ」って言ってるってことは、マルクスが失効した時代には文化的アヘンで疎外感を麻痺させて心の安寧を得ることもOKってわけですよ。アヘン超OK、全能感超OK!(ちょっと古いか。)
なに、そんなのはまやかしだって? おいおい、「現実」に目を見開いて「本来のあり方から疎外されたこの社会を何とかしなくっちゃ」なんて操作主義的な観点に目覚めた人がこれ以上増えたら、一億総ポルポト化ですよ。日本全国隅から隅まで「ドキッ!ポルポトだらけの粛清大会 ──(頭蓋骨)ゴロリもあるよ!」になっちゃいますよー。
ポルポトや文化大革命を呼び込みたくなければ、そんな疎外論チックな発想はさっさと捨てちゃって、身の回りの小さなことに幸せを見つけていきましょう。そうすればほら、きっと水さんだってきれいな結晶を作ってあなたの心の美しさを祝福してくれますよ。おっと、非科学的だなんてツッコミは無しですよ。「科学的に正しい世界観を持った国民」というのだってやっぱり“本来的なあるべき像”なんですから、そんなものを持ち出したら途端に「君の世界観はあるべき科学的世界観から“疎外”されている、再教育しなければ!」なんてことになってポルポト化ですよー。
……結局のところ、何かしら広義の「啓蒙」的なこと、つまり人々の精神や知的要素が無知蒙昧の「闇」に閉ざされているところへ「光」をもたらそうという時系列的進歩の考え方は、どうしても「光」の比較対照物として「闇」を必要とするし、また「闇」の比較対照物として「光」を必要とします。社会のよりよき状態を想定するところでは、その対照物として「よりよくない現在=闇」が、「光から疎外された状態」として持ち出されますし、現状を批判する場合には、それの比較対照物として仮定された「よりよき未来=光」が、一種のイデアとして持ち出されるわけです。「啓蒙」と「疎外」は、そういう意味でコインの裏表のように、切っても切り離せない関係にあります。
「疎外論」を完全に回避しようとすれば、結局のところはよりよき方向への変化という考えを完全に捨てて、「あるべき姿など無い、世はただあるがままにある」という考えに徹するしかないのでしょう。税制改正の提言は「よりよき税制度から人々が疎外されている」という現状認識の現われだし、著作権を巡る議論は「よりよき(ry」だし、そういうのを全部回避するとしたらもう、時系列的に制度などが変化した部分については「ああそう、変わったのね、まあそんなもんでしょ」、変化しない部分については「ああそう、変わらないのね、まあそんなもんでしょ」と等閑視するくらいしか手はなくなります。スピノザあたりがそんなことを言っていたような気がしますが。ニーチェの運命愛もちょっと似てるかも。
……でもこれって、
「“人はあるべき姿から疎外されている”なんてことを考えて現実を直視しようとしない連中の世界観は、人が本来的に持つべき物の見方から疎外されている!」
という主張にはならないのかな? それとも、「“あるべき姿”の主張がマルクスの論点に基づいていればそれは疎外論でありポルポトだが、マルクスに基づいていなければ疎外論やポルポトではない」という前提でもあるのかな。もしそうだとしたら、悪の大魔王マルクスの「悪のカリスマ」性の長命ぶりには驚くべきものがありますな。それとも、冷戦終結によって魔王バラモス(=マルクス)が死んだと思ったら、その背後で真の黒幕である大魔王ゾーマ(=真・マルクス)はしっかり生きていたという、ドラクエ3型のオチなのかしら。早乙女のジジイ!
例えば、
「やい臨獣殿! “強い者が世界を統べることこそ本来の姿、その本来の姿から疎外されたこの世界を変えてやる”なんて言って人々を苦しめるなんて、このゾワゾワのポロポロ野郎!」
「なーに言ってるのよ、あんたたちこそ“本来の獣拳は正義の拳、いまはそこから疎外されている状態だから臨獣殿を倒してあるべき姿に戻す”なんて言って、力ずくで正義を押し通すポルポトじゃないの。文句があるなら実力であたしたちをねじ伏せてみなさい、このカクシターズ!」
とか、
「おばあちゃんが言っていた、俺は天の道を往き総てを司るってな」
「天の道という“本来あるべき道”のイデアを前提して、万人をそこから疎外された者として見下すとは、君も愚かな男だな。社会においてもっとも重要なこと、それはパーフェクトハーモニー……完全調和だ」
「そう言いながら俺をつけ狙うのも、おまえの言う中和だか調和だかのうちか」
「ライダーは二人も要らない」
「一人のライダーに率いられた組織の完全調和……そこからはみ出した俺は疎外された存在ということか。おばあちゃん、いやポルポトは言っていた、そういう存在は完全調和のイデア世界には不要だとな」
「貴様、俺を疎外論者に仕立て上げるつもりか……だが俺は貴様を倒す。そうしなければ、俺が俺でなくなってしまう!」
「やはり“本来の俺”か……おまえは天の道を外れた」
「!……待ってくれザビーゼクター、戻れ、戻れ……戻れぇーーーー!」
(半年後)
とか。