はてなキーワード: とも生きとは
私は野菜が大嫌いだ。
野菜なんか食べなくても大きくなれる。
現に、これまでの人生でまともに野菜を食べずとも生きてこられたのだ。
そう思っていたが、間違いだった。私は見てしまった。夕飯の準備をする母が、ハンバーグのひき肉に大量のすりおろし人参を混ぜているところを。カレーに大量の玉ねぎを混入する母の姿を。
私が今まで食べていたのはハンバーグではなかった。半分は人参だった。母の愛情のこもったカレーは、具として入っているのも含めると1/3は玉ねぎでできていた。
野菜を食べずとも大きくなれたのではない。母が私にバレないように大量のすりおろし野菜を仕込んでいたから、野菜を食べずとも大きくなれたのだと思い込んでいたのだ。
私は春から大学生になる。いずれは一人暮らしもする。いつまでも母がすりおろし野菜を入れてくれるわけではない。
私は野菜嫌いを克服することを誓った。大人になってから今までの習慣や癖などを直すのは困難だと言う。好き嫌いを直すチャンスも、ギリギリ10代である今が最後だろう。
あるとき、駅の構内にある喫茶店でパスタプレートを注文した。店内はオレンジ色がかった照明と、オシャレな音楽がかかっていて落ち着いた雰囲気。この落ち着いた大人のムード漂う空間ならば、野菜嫌いな子供の自分を克服できるかもしれない。
パスタプレートには、小さいサラダが一緒についてくる。緑の葉っぱの中に、なんか紫っぽい葉っぱと赤い玉ねぎみたいなのが入っている。植物なのに色がサイケデリック。勇気を振り絞って口に運んでみる。
シャキシャキ感がすごい。すごい苦い。水分がすごい。あとかかってるドレッシングが酸っぱい。ただただまずい。
小学校の担任に「野菜も食べろ」と言われて口に入れたものの飲み込めず、こっそりトイレで吐いた記憶が蘇る。
吐くことはなかったものの、全然だめだった。この時気がついたが、私は野菜を「食べ物」「料理」ではなく、完全に「植物」「葉っぱ」と認識しているっぽい。
新鮮な葉物野菜を噛んだ時のシャキシャキした感触が、中学生の頃顕微鏡で見た、植物の細胞壁の四角形を想起させてしまってダメだ。
インターネットで性行為をする=大人になったみたいに考えている人たまに見る。これについて自分なりに考えてみた。
昭和くらいまでのお見合いでみんな結婚して子供授かってが当たり前の社会だと、ほとんどの人は大人になるしか選択肢がなかった。大人にならないと生きていけない環境だった。けど、最近では精神的な成熟を十分でなくとも生きて行ける。現代には大人にならないという選択肢も生まれてしまった。これは人類史を見ても社会全体がその流れにあるのはかなり特殊と言えそうだ。一部の貴族や王族の中では起こっていたであろうが。
今は精神が成熟してなくとも子を持つ人も多く、逆に精神的な成熟をしているのにもかかわらず子がいない・欲しくないひとも多くいる。なんでだろう。
昔は「大人(精神の成熟)になったら性行為をしても良い。そして子供を授かろうぞ」というような価値観だった。それが変に残って現代では性行為が大人の象徴の一つになってる。
大人になるとは、どういったことだろうか自分なりに考えてみた。
・価値観の違いの認め合い
・柔軟性
・責任感
などだろうか。
それは現代的な倫理観で見た場合こうなっただけで、昭和とかだとまた違うものだったかと思う。
では、なぜ大人にならない選択肢を選ぶ人がいるのかを考えてみた。
・面倒くさい、怠惰
・成熟するには必ず深く思考したり葛藤したりある程度ストレスによって学習するためそれを避けてる。
・周りの環境
・大人になったと思い込んでる
・成熟しなくても生きていける
でも、この選択肢で生きている人も悪いとは思わない。新しい生き方が生まれたんだ思う。自分の言っている精神の成熟だってただの価値観の押し付けかもしれないしね。責任感とか怖いもん自分も含めて。難しいね。
どこに出掛けても自分の居場所はここじゃないってような疎外感を覚える。
でも部屋で一人籠もってても悶々とした気持ちが募る。この気持ちをぶつけようとギター弾いてみても文章に起こしてみても、こんな事してる場合だろうかって気持ちにってくる。
人生なんて楽しい気持ちを拾い集めるだけって、散々時間をかけてとっくに結論は出したのに。
高給取りになるための資格勉強でもするか?結婚相手でも探してみるか?
そういう世間のお墨付きがついたような生き方が、それでも魅力的に思えなくて趣味に軸足置こうって決めたんじゃないのか?
こびりついた義務感が拭えねえのか。
それを説明する言葉に何の理屈も通ってはなくとも、結局人の収束する先は同じなのか。
まともになりたいとも思ってねえのに、ならなくちゃならねえと感じてんのか?なってどうする?
そこから見える景色もそこで感じるものも、そこに辿り着かなきゃ分からないんだろうな。じゃあ試してみるか?唯一持ってる若さを投げうってみるか?自分で望んだ生き方すらままならないのに?
もう考えるのも面倒臭え。考えるよりも動く事なんだろうな。やる気を出すために動き始めるためのやる気を出すためのやる気を出すための…………やる気はどこまで探せば確実にある?
動き出すのをそれを妨げる「これでいいのか」を振り払うためには、動き続ける中で得られる情熱が必要なのかもしれない。そんなトンチをどう解く?
それかもう思考停止して、これと決めた目標に向けてただ実践するロボットになるしかないのか?思考のスイッチはどこにある?
その気持ちだって、結局本気で死ぬ気がねえならどこにも行き着かないって自分で認めて蓋をしてたのに。
我慢ならなくなって、きちんと死のうとして死ねなくて、死ねばいいって気持ちが気休めになるどころか、死ねすらしないって絶望に変わっちゃったな。
どれだけ祈ったところで永遠と物語が約束されたフィクションの世界になんて行けねえし。少なくとも生きてる限りは行けねえ。
死ねねえなら生きるしかねえし、生きるなら楽しく生きたいのにな。情熱ってどうやったら湧いてくるんだろうな。無為に生きるのもいいもんだなんて自己弁護をするようになっちまうのか?やだねえ。
百合が好きなので、なんだか評判のいい漫画『熱帯魚は雪に焦がれる』を読んでみた。
結果として、2巻か3巻の途中で投げ出してしまった。
理由としては第一に、あまり面白くなかったから。第二に、読んでいてだんだん腹が立ってきたからだ。
腹が立った理由は「水族館部」の描写だ。結論から先に言うと、水族館部という珍しい部活をとり上げた理由が「なんかエモいから」でしかないと感じてしまった。
この作品は、主人公が田舎の高校に入学し、気になる先輩が所属する「水族館部」に入ることにして、その先輩と徐々に関係を深め合う、そんな物語である。
この水族館部というのは愛媛県の長浜高校に実在する部活動で、作者も現地へ取材に赴き、実質的に作品の舞台にしたようだ。
まず、水槽が多すぎる。
実際の水族館部もこれぐらい水槽があるのかもしれない。ただ、長浜高校水族館部の部員数は全校生徒の半分以上を占め、2024年3月時点で68人いる(https://www.asahi.com/sp/articles/ASS2W4TLBS2RPTLC011.html#:~:text=%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8%E9%83%A8%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%93%A1%E3%81%AF,%E5%A4%9A%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%A2%E3%81%8C%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82)。
全国募集で部員数が増える前でも、数十人は下らなかっただろう。
しかし、『熱帯魚は雪に焦がれる』の設定ではなんと部員数は2人。主人公が入部する前は1人だったのだ。
水生生物を飼ったことがないと想像しづらいかもしれないが、水槽の管理はなかなか大変だ。
生体の老廃物や排泄物、食べかすなどで水が汚れるのでフィルター(濾過機)を常時回すのだが、どうしても濾過・分解しきれない物質が増えていくため、定期的に水を換えなければいけない。そしてフィルターも掃除しなければ目詰まりしてしまう。さらに水槽のガラス部分に藻や苔のようなものが付くので、こそぎ落とさなければならない。また、海水水槽の場合は析出した塩を取り除かなければいけない。水温の管理も必要だし、当然、生き物に関する知識を身に付けなければそうした調整もできない。
こうした作業を、数十個の水槽に対して2人で対応していくのは極めて困難だ。
百歩譲って、大量の水槽を2人で頑張って管理していたとしよう。しかしそうなると今度は、ストーリーとの整合性がつかなくなる。
この作品は主人公ら2人の仲良くなりたい、でも臆病になってしまう、みたいな繊細な心の動きを描いている。が、2人で何十個もの水槽を管理し、あるいは重い水槽を一緒に持って動かし、生物や水槽管理の知識を教え合い、なんてしていたら心の距離が縮まらないわけがない。ましてや、話しかけようかどうしようだの誘おうかどうしようだのでうじうじする距離感ではなくなる。距離感が近付いた結果仲良くなるか仲が悪くなるかは人それぞれだが、距離感が近付かないということはあり得ないのだ。少人数の部活動というのはそういうものだ。
また、登場人物の水族館部および水生生物へのスタンスも気になる。はっきり言って、2人とも生き物にあまり興味がなさそうなのだ。
主人公は生き物どころか水族館部にあまり興味がないけど流れで入部しているし、先輩も水族館部にいる理由を聞かれて「子どもの頃からそれが当たり前だったから」みたいなことしか言わない。途中で顧問の先生=先輩の父親も出てくるが、その人もちょろっと話を展開させる要因なだけで、生き物への愛情とかは語らない。(なんなら、作者も生き物のディテールや知識は細かく書き込んでおらず、好きではあってもめちゃくちゃ好きというわけではないのだろう。)
水生生物好きとしては「じゃあ誰がこの子(生き物)たちを好きなんだよ!?」と言いたくなる。別にこれが放課後に駄弁るだけのボドゲ部とかだったらボドゲに愛情がなくても構わないのだが、水族館部というのは一応命を預かっているのだ。色々と心配になる。
それでも水族館部の活動を通して、生き物への解像度とか、「生」というものへの関心とか、生きるって何なんだろうとか、そういうことに思いを馳せながら2人の関係にも有機的に絡み合ってくるのかなと思ったら、全然話に絡んでこない。岩陰から出てこないサンショウウオを「自分に似てる」と勝手に自己投影するぐらいである。そして、お互いにどきまぎしながら日々を過ごす傍らで、なんか水族館部の活動もしているっぽいぐらいである。本当に傍らである。
少し話は逸れるが、先輩が部活をやってる理由が想像以上にぼんやりしているのは悪い意味でリアルだと感じた。卒業した先輩の意思を継ぐためとか、水族館部を途絶えさせないためとか、過疎化していく地域のためとか、部員が1人になっても意地で続けていたとか、ベタながら物語映えしそうな理由はいくらでも思いつくのに、そうしたエクスキューズが特にないのだ。まあぶっちゃけ高校生なんてぼんやり生きているのが普通ではあるのだが、学校行事として開館日を設定して、他部の生徒にも協力してもらってまで水族館の地域開放を成立させているような状況でこのぼんやり具合はうそ寒さすら感じる。
ここまで長々と語ってきたが、この作品の水族館部描写の問題点は「リアリティのなさ」とその背景に見え隠れする「リスペクトの希薄さ」に集約できそうだ。
漫画のリアリティで言うと、別に幽☆遊☆白書を読んで「死んだ人間が生き返るわけないだろ!」とか言わないし、NARUTOを読んで「実際の歴史上の忍者と違う!」とか言う人もいない。では『熱帯魚は雪に焦がれる』のリアリティのなさは、なぜ問題なのか。
創作のために多少手を加えたり省略したりするのは許されるかもしれない。しかし、この作品では生き物を扱う苦労を無視してしまっている。こうした過度な美化は、現実の存在をただ作品を飾り付けるためだけに利用してしまっている表象ではないだろうか。
これがボドゲ部や手芸部ならいい。真剣な手芸部もあれば、放課後女子会のような手芸部もあるだろう。他の部活だってそうだ。
手芸部でもなんでもよさそうな内容を、ただ画的にエモいからということで日本で唯一の水族館部に設定してしまうのは厳しいものがある。
水族館デートというのはさまざまな作品で描かれてきた。現実のデートでも定番スポットだし、漫画やアニメ、ドラマで描写するにしても水槽が鮮やかで、でも館内は暗くて、なんかエモい。水族館を訪れる人はそれで十分だと思うし、水族館職員の奮闘に思いを馳せる必要はない。
しかしこの作品では、その水族館を「内部化」することでエモさを恒常的に発生させていて、一方でその現実的な苦労を描いていない。それが「いいとこ取り」で「表面的」にしか思えない描写に繋がっているのだと思う。
以上、水生生物が好きでもないと半分以上理解できない内容ではあると思うが、『熱帯魚は雪に焦がれる』に感じた違和感を記した次第である。
なお、論評するなら最終巻まで読んでからにしろと言われそうな気もするが、連載形式の漫画にそれをする必要性はないと思っている。
趣味や家族の時間を犠牲にしてまでお金を稼いだり勉強したりする、自己研鑽に一生懸命な人の気持ちが本気で理解できなくなっている。そのことに気づき、驚愕した。
何故だろうと考えると、それほどの自分のための研鑽のインセンティブがないからだと気付いた。
今の自分を支配するのは、「行き着く先は一個人の死である」「死後に干渉できることなどなく、観測することもできない」「死を前にしては、殆どのことはどうでもいいことである」という、仏教的な虚無主義だった。
死後自分に残せるものがないなら、死後のために努力して意味があるのか。生きている間に直接関与できない人間のために努力する意味があるのか。報われるかも分からない努力をしようというほど粋な心意気をしているわけでもない。ならば、今自分が大事にしたいもの、幸せを感じられるものに時間投資をすべきだろう。そのような刹那主義に気付かないうちに至っていた。
ふと、元々そんな気質だったかと省みてみる。幼少期から一貫して、真面目な性格であった。学生の本分だから勉強はするし、将来選択肢が増えて生きやすくなるから成績を上げる。両親の期待と投資があるから報いようとする。果たしてそれは、学歴という成果につながった。
また、学生時代からは漠然と知性体を創りたいと考え、その道に邁進した。その原動力は恐らく、価値観の合う同世代がいない孤独感を埋めたいという動機であった。
知性体を創りたいという想いは、自らの才能に見切りをつけた時点で潰えた。いかに研究しようとも生きているうちには創れないだろうという確信、大局観を持つのが苦手な自身の研究適性のなさ、研究者として生きるのが難しいという社会的な制約。そういったものをひっくるめて、才能がないと理解した。
やがて会社に勤め、その孤独感だけを手元に残して働くようになった。目の前の仕事に邁進する中で孤独感は膨らみ、誰かと一緒に生きていきたいと言う思いが募った。迫る孤独への焦りと言い換えても良い。
そして、出会いを求め、結婚した。極めて運の良いことに、価値観が合い、一緒にいて気安くかつ幸せに暮らしていける相手と結婚できた。その結婚による変化は劇的だった。端的に言えば、自分のために研鑽するうえでの最後の動機であった孤独が、満たされてしまった。
学生の頃の残滓で社会人博士も目指したが、もはや優先するものが変わっていた。続くわけがなかった。
妻と子供という自分より大切なものができた時点で次に意識したのは、自らの死だった。かつての自分にとって、死は「作業が止まるイベント」でしかなかった。だから、それまでにできることをやらねばならないと言う焦りに繋がった。しかし、今の自分にとって、死は「何を遺すか」になった。自分のために遺しても意味がない。であれば、自分のためにする研鑽も意味がない。
あと思いつくものといえば、勉強が必ずしも良い未来を保証しない年齢に差し掛かっているのかも知れない。また、元々の気質として、好奇心は概要に触れるだけで満たされ、何か行動に移すということが厭わしいと思う所もあるのかもしれない。
総括すれば、自分のために努力する動機を失ったこと、自分よりも優先したいものができたこと、死への意識の変化、そして年齢と気質。そういった物が集まって、自分のための研鑽をしなくなったのだろう。
ならば、今私がすべきことは、自分のための研鑽をしなくなったことを嘆くのではなく、家族のために何を遺せるかを必死に考え、そのための努力をすることなのかもしれない。
なんとな~くわかる気もする
俺は元増田ほど恵まれている環境ではないけど、両親は毒でもなく、浪人もせず大学も出て正社員で働いて、結婚もしてといわゆる「普通」に生きているが心から全力で幸せとは思えない。
元増田がなんで幸せと思えないのか原因はわからんけど、俺がそう思えないのは人生が「めんどくさい」からだと考えてる
生きていくには仕事もしないといけないし、誰かと生活する以上は多少の気遣いもいるし、親戚づきあいもあるし、育児やそれに伴う付き合いもあるし、先行き見えない世の中だから資産管理したり、親の介護問題が出てきたり…。
それぞれの問題に表裏があって嬉しいこととめんどくさいことってセットだとは思うけど、なんかめんどくささが8としたら嬉しいが2くらいしかない気がするんだよね。
なんとなく、それって皆わかってるけど表立って言うと何もやるきなくなっちゃうから、問題をクリアしたときに「成長した」とか「人間的に深みが出た」とかごまかしてるんじゃないかなって思う。
で、違うとは思うけどもし元増田も似たような感覚なんだったら正直解決しないと思うよ。
少なくとも生きてる間はね。
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。
それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。
やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
日が高くなるまでゆっくりはてなブックマークをして、 日中ははてなブックマークしたり、
子どもとはてなブックマークをしたり、奥さんとはてなブックマークして過ごして、
夜になったら友達とはてなブックマークやって、はてなブックマークを弾いて、
歌をうたってはてなブックマークして過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
いざ顔さらしたり部屋晒したりすると、普通に美形だったり部屋もおしゃれだったり
顔晒さず首から下までだったとしても普通にスタイルよかったり着ているものも小綺麗だったり高級だったり
「終ってる」人がまっっっっっっっっっっっっっっっっっっったくいない
恵まれた環境で何不自由なく育てられて、生活に困ることなんかいままでもこれからもないのはあたりまえで
それ以上におよそ小市民には簡単に手にできないものに囲まれて、センスや審美眼、美意識みたいな無形の、心の財産も相続してきた者たち
なんでこんな奴らを持て囃さなきゃならんのだ
ふざけんじゃねぇよ
今すぐ道楽でやってる奴ら消えてくれ
シャケには海におりないでずっと川で生活している身体の小さい個体がいて
海で育った個体が産卵に戻ってきたときにこっそり精子を卵にかけて
子孫を残すという
他にもメスに擬態して巣に近づいてきて卵に精子の掛け逃げをする魚もいるらしい
そういうオスに対してメスの方は追い払うどころか融和的(おめこぼし)である
それは子供の遺伝子の多様性を確保した方が自分の遺伝子を半分もった
居残りオスは身体が小さくてもある種の病気に罹りにくいなど別の強みをもっている可能性はある
鳥なども子供のDNAを分析すると一部はツガイじゃないオスとの間にできた子供ということがあるらしい
これらの動物がこういう戦略をとれるのは一生に産む子供の数が多いからだ
もしも、これが極めて少数(生物的には破綻するが一人とか)の子供しか産まないならば弱い(可能性が高い)遺伝子の半分に
私は野菜が大嫌いだ。
野菜なんか食べなくても大きくなれる。
現に、これまでの人生でまともに野菜を食べずとも生きてこられたのだ。
そう思っていたが、間違いだった。私は見てしまった。夕飯の準備をする母が、ハンバーグのひき肉に大量のすりおろし人参を混ぜているところを。カレーに大量の玉ねぎを混入する母の姿を。
私が今まで食べていたのはハンバーグではなかった。半分は人参だった。母の愛情のこもったカレーは、具として入っているのも含めると1/3は玉ねぎでできていた。
野菜を食べずとも大きくなれたのではない。母が私にバレないように大量のすりおろし野菜を仕込んでいたから、野菜を食べずとも大きくなれたのだと思い込んでいたのだ。
私は春から大学生になる。いずれは一人暮らしもする。いつまでも母がすりおろし野菜を入れてくれるわけではない。
私は野菜嫌いを克服することを誓った。大人になってから今までの習慣や癖などを直すのは困難だと言う。好き嫌いを直すチャンスも、ギリギリ10代である今が最後だろう。
あるとき、駅の構内にある喫茶店でパスタプレートを注文した。店内はオレンジ色がかった照明と、オシャレな音楽がかかっていて落ち着いた雰囲気。この落ち着いた大人のムード漂う空間ならば、野菜嫌いな子供の自分を克服できるかもしれない。
パスタプレートには、小さいサラダが一緒についてくる。緑の葉っぱの中に、なんか紫っぽい葉っぱと赤い玉ねぎみたいなのが入っている。植物なのに色がサイケデリック。勇気を振り絞って口に運んでみる。
シャキシャキ感がすごい。すごい苦い。水分がすごい。あとかかってるドレッシングが酸っぱい。ただただまずい。
小学校の担任に「野菜も食べろ」と言われて口に入れたものの飲み込めず、こっそりトイレで吐いた記憶が蘇る。
吐くことはなかったものの、全然だめだった。この時気がついたが、私は野菜を「食べ物」「料理」ではなく、完全に「植物」「葉っぱ」と認識しているっぽい。
新鮮な葉物野菜を噛んだ時のシャキシャキした感触が、中学生の頃顕微鏡で見た、植物の細胞壁の四角形を想起させてしまってダメだ。
生きづらい人たちが正しさに依存するんだろうね。
絶対に正しいことに従っていれば、間違っているのは、悪いのは、みんな「あいつら」だから自分は悪くない。生きづらくても、自分は正しいということを軸にすれば生きていられる。
そう思っていた時期があった。だから絶対に正しいことを探した。
私の頃はまだネットがなかったから宇宙物理の本を読んだりとかして、そういう方向で絶対に正しいものを探した。
でも、いつからかな。自分を許せるようになった。正しくない自分でも生きてていいって思えるようになった。
それから、生きづらさはなりを潜めて普通に息ができる生活が送れるようになった。
だけど、それは私が絶対に正しいことを探していた時にネットがなかったからそういう道を見つけられただけで、今はネット上に「絶対に正しい顔をしているもの」がたくさん溢れてるから、もし生まれるのがあと20年遅かったら、その絶対に正しい顔をしているものに依存してしまって、自分は正しいから生きていていいっていう間違った自己承認から逃げられない人生を送ったと思う。
私は正しくなくても生きていていい。もちろん正しくない他の人だって生きていていい。
だけど、自己肯定感が欠落してて自分が生きるのに理由が必要でその理由に自分は正しい価値観を持っているから、なんてのを選んでしまったら、当然自分が間違えることを認められないし、「間違えてる」他人は許せないし、それで攻撃的になるんだよね。
リベラルでも暇アノンでも、他人に対して攻撃的な人ってのは悲しい循環論法を持ってて、自分は正しい、だから自分と考えが違うあいつは間違ってる、間違ってるあいつを叩きのめす自分は正しい、みたいな感じで他人への攻撃が終わらない。
そこから降りる道はただ一つ、自分は間違えることもあるし、間違えても別にいい、ってことを認めるだけなんだけど、でも親でも恋人でもいいから他の人から「無条件の承認」を受けたことのない人はどうしても生きるのに理由が必要になっちゃって、それに正しさを選んじゃうことは修羅の道なんだけど、人って性善説で出来てるから正しく生きようとかって容易に思ってしまう。
私は正しくなくても生きてていい。あなただって正しくなくとも生きてていい。
正しさを盾にして身を守っている人に、この言葉が届けばいいなって思う。
「さっさと死ねば、大した仕事をしなくても、収入が少なくとも生きられる」
そう思って生きてきた。今は貯金が…
通帳を見てきた。400万ほどあった。といっても、ある程度貯蓄できたのも、実家ぐらしなのと、
稼ぎが死ぬほど少ないせいで、家にお金を入れるのを拒否られているからだ。それに甘えて貯金してた。
実家にちゃんとお金を入れていたらもうちょっと少なかっただろう。
ただ、計算してみるとこの貯金じゃ全然足りない。年にもらえる生活保護と、
自分があと生きられる年数で計算してみたが全然足りない。死ぬのを早めるのでもいいのかもしれないが。
老いる自分は見たくない。ずっと精神は子供のままなのに、それが歳を取っていくというのは気持ちが悪いから。
今みたいな宙ぶらりんな稼ぎ方するのなんて30歳までやってられないから。っていうか今の時点でできなくなっている。仕事を放置してたら月2万円の収入とかになっていた。学生の小遣いより少ないんじゃないか。
何が幸せなのかが分からなくなってきたから。他人と自分を比べるのをあと何年も続けていたら心が壊れてしまうだろうから。
だから、30歳になって「おじさん」になる前に死のうと思っている。もうちょい早くてもいいかもしれない。25歳になったら死んでもいいな。あと1年で死ぬ覚悟を決める自信はないけど。
今の人生は、死ぬ覚悟を頑張って決めるだけになっている。正直自信はないが。40歳くらいのヒキニートになっても生きている自分の姿が目に浮かぶ。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
旅行者が「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。
いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」
周りの人が、面白かった、と言っていたので観に行きたいとずっと思っていて、もうすぐ終了ということであわてて観に行った。
観た結果、面白かったし、観に行って良かったのだが、なんかめちゃくちゃダメージを受けている。心が弱っているのかな。
とにかく人生の苦しみのオンパレード。特に、発達障害、いじめ、虐待など学校関係や家庭環境にトラウマがある人にとっては大変つらい内容ではないかと思う。
・なんでもっと上手く立ち回れないんだ、お前も弁護士雇え、と思ったがこの人も発達障害なのか。
・母親視点の先生と、先生視点の先生が全然違ったが、正しい(客観的な)評価は母親視点の方なのか。
・明らかな落ち度は、クラスで湊が暴れた時によく事情を確認しないまま、湊に皆の前で謝らせたことだけど。にしても先生が酷い目に遭いすぎてつらい。
・クラスでアンケートとった時に、湊が暴れた時の状況とか依里がいじめられていることとか、本当のことを書く生徒はおらんのか。アンケートが記述式ではないからか。
・先生が、なんで自殺をストップしたのか分からなかったが、ネットの考察で、楽器の音が聞こえたから、とあった。そうなんだ。
依里
・発達障害、同性愛、暴力父、イジメをする馬鹿なクラスメイト、と不幸のオンパレード。え、しかも、最後死んだの?勘弁して。
・クラスでキスを強要されそうになるイジメを受けていたが、キスの相手がいじめっ子の男子で、ちょっと違和感があった。つまり、いじめる方も依里のことを可愛いと思っているんだろうなあ、と。
・家庭内で虐待を受けていて、そのために、学習に影響出ていて、ホントは発達障害ではないみたいな考察をしているものがネットであった。コミュニケーションや受け応え能力は高そうなのでそうかも。
・でも依里が同性愛者ということを周囲(父やクラスメイト)は分かっていそうで、その点を周囲にわかる形で出してしまっていることや、ビル放火に対する罪の意識が低いことから、設定年齢よりも子供っぽく見える。
・父親に虐待され風呂場に沈められていたところを湊が助けたシーン、「湊、警察通報しろ!」と思った。でも通報しても湊も住居侵入だし、なんで家にいるのか話せないだろうから無理か泣
・最後2人とも生きていて、依里の転校で離れ離れになっても(イジメや虐待の解決のためにも祖母のところへ転校した方がいいとは思う)、連絡はとり合っていて、お互い励まし合って、大人になって一緒に住めるようになる、そんな未来でありますように。
○ご飯
朝:なし。昼:ナポリタン。夜:ネギと人参と玉ねぎとカニカマと餅の鍋焼きうどん。梅干し。
○調子
○ 一緒に行きましょう逝きましょう生きましょう
ウォーターフェニックス開発で販売はケムコからになる、短編ノベルゲーム。
プレイ時間的には2〜3時間程度と短いが壮大なストーリーが楽しめる面白い作品だった。
目覚めると何故か身体感覚が一才無くなってしまい食事をせずとも生き続けているが身動き一つとれない主人公と、突然死んでは生き返り死んでは生き返りを延々と繰り返す少女との出会い、交流が描かれる。
人類が行った愚かな行為によって地球は荒れ果て、生き残りは彼ら二名だけで、もうすでに文明と呼べるものは何一つない世界になっている。
少女が死を繰り返している理由は、なんと人間の愚かな行いによる哺乳類の死を再体験することでその罪を神に許して貰うためという設定が冒頭から開示される。
以降も神から与えられた贖罪の使命をこなす少女と、それをただ眺めて会話することしかできない主人公との価値観のすれ違いが物語を動かしていく。
この時点でかなりスケールの大きい話になるが、何分メイン登場人物の二人ともが死なない身体を持つため時間という意味でのスケールも壮大になっていく。
全ての哺乳類の死を体験するという膨大な使命を少しづつこなしていく内に、何故全ての生命が死に絶えたはずの世界に神と関係ない主人公がいるのか、本当に人間は誰一人いないのか、少女の使命はどんな結末を迎えるのかと、気になる要素の設定開示がハイテンポに行われていき、短いプレイ時間の中で大河的な壮大な価値観にふれることができる。
人の身では想像するのも難しいようで、ある意味では人の身だからこそ考えなければいけない、生きるということの根源的な意味、神との向き合い方、絶対に死が訪れるのにどうして生きるのかなどの問題に、死が訪れない二人故の答えが例え話でなく、こねくり回した表現でもなく、良い意味で伝わりやすいシンプルなものなのも印象深く面白かった。
そして、タイトルの「一緒に行きましょう逝きましょう生きましょう」が万感の思いが込められたいろいろな感情が詰まったもので、所謂タイトル回収シーンは深く染み入る良きものだった。
そんな価値観を問う壮大なストーリーに魅力的な補助線を引いてくれるのがヒロインの少女の可愛さ。
こんな過酷な状況ながら無垢で愛らしいシーンが多く、彼女が少しずつ知識を身につけていき、感情に名前を付けていく。
この無知な少女が人間らしさを身に付けていくという筋道があり、このヒロインが可愛いからこそ、軸がブレずかつ娯楽作品としての楽しさも担保していた。
何も知らないただ神に命じられるままに使命をこなしていた彼女が自身の意思を少しずつ作っていくからこそ、神との対峙が魅力的になっていく。
親父が死んで寡婦になった母なんだが、なぜか今、株式に目覚めて遺産の運用を始めた結果、襟川女史の1/1000スケールみたいなことになってる。
周りの人間がちょうど死んだ時期で遺産が色々入ってきた結果ではあるんだが、意外な才能に目覚めたらしい。
たとえば、今日の決算だと任天堂の下げは確実だけど、さらに期待値下回ると思うからその前に売り抜けるわってちゃっかり利益確保してて。
去年の今頃、なぜかビジョナル(ビズリーチ)に投資して、冬に売り抜けた話はGWの間も聞かされて、今持ち株でもないのに、正直そろそろ成功談がうざい。
独身老人の話相手も務めてるんだろう、話題に○○証券の話が出るようになったし、二口目には底がね〜が口癖だし、母の話題は明らかに株と証券の話が増えた。
……一昔前の自分なら、俺よりも年収稼いでる不労所得者がよぉ、( ゚д゚)、ケッて気持ちだったんだろうが、身の回りが落ち着いた今の自分は、歳取って趣味?を見つけてくれたことに安堵してる。親父が死んでからこんなにお金貰ってもねーって愚痴ってばかりだった母が、少なくとも生きがいを見つけてくれて何よりだと、そう思う。