天才ではなく、執念
天才というのは「才能がある」という意味だけど、空海の場合、それだけじゃない。
彼は遣唐使として唐に渡って、わずか2年で密教の奥義を習得したとされている。その速度は、確かに「天才的」だ。
でも、その背後にあるのは「なぜ、これだけの短期間で修行できたのか」という問いで、答えは多分「本当に、それしかやってなかった」ということだ。
弘法大師として、真言宗を確立して、東寺を手に入れて、高野山を開いて、文字を工夫して(いろは歌)、書を極めて、彫刻も残して、教育施設も作った。
その活動量は、もう「天才」というより「人間か」というレベル。
同時代の最澄との比較も興味深い。最澄は比叡山で天台宗を確立した。その業績は確かに大きい。
でも、空海の「何でもやってる感」の前には、最澄の方が「一つの道を究めた」という印象になる。
その全てに「理由」があるけど、同時に「何か、もっと大きな流れ」に乗っているように見える。
それは、計画的というより「運命的」で、その運命性が「詩」に見える。
空海の著作には、実は「俺は天才だから、こういうことができた」みたいな驕りが、ほぼ無い。代わりに「法華経の教えによれば」「密教の奥義では」という、何かの「流れ」の中で自分を位置づけている感じがある。
つまり、彼は「自分が何かを成し遂げた」というより「自分は何かの一部として、それを表現した」と考えていたのかもしれない。
その点で、天才というより「完成された人」
天才というのは「個人の才能」を指すけど、空海の場合、それは「個人を超えた何か」の表現に見える。
だから、空海を「天才」と呼ぶより「完成された人」と呼ぶ方が、正確な気がする。
完成された人というのは、内部に矛盾を抱えていない。あるいは、矛盾を抱えていても、それを統合する力を持っている。
空海は「修行者でありながら、俗世間にも関わり、権力との関係も持ちながら、精神性も失わない」という矛盾を、全部統合していた。
ただ、個人的には「空海は天才か」という問いより「空海はなぜ、あそこまで多くの活動をしたのか」という問いの方が、大事だと思う。
その答えは、多分「それが、その時代に必要だったから」というシンプルなもの。
その姿勢が「天才的」に見えるのは、現代が「選別」と「専門化」の中にいるからかもしれない。
最澄はどう?
行雲流水の西行の方が好感はもてる