「○○が苦手だ」を「○○が得意じゃない」に言い換える表現が近年広まりつつある。
私はこれに強~烈な違和感を覚えている。
は? 普通だが? ……って思うじゃん?
たしかに、「歌が苦手だ」、「長距離走が苦手だ」などを「歌は得意じゃない」、「長距離走は得意じゃない」などに言い換えるのは至って普通だ。違和感はない。
では、「パクチーが得意じゃありません」、「柑橘系のにおいが得意じゃない」、「筋肉質の男の人は得意じゃない」ではどうだろう?
こういう言い方をする人、確実に増えてます。
まあ、これに違和感を感じない人も多いんでしょう。だって増えてるんだから。
けど私は、「じゃあ逆に〈パクチーが得意〉ってどういう状態!? 栽培が得意なの!?」ってなる。
言葉の成り立ちで言うと、「苦手」はそもそも「自分にとって扱いにくい人や物」を指す言葉で、仏教語として平安期に日本に入ってきた言葉らしい。「おれ増田課長は苦手なんだよなあ」のタイプ。これをタイプAと呼ぼう。
やがて(おそらく江戸後期くらい)、苦手という言葉の対象が「自分が上手にできない行為」に広がる。「水泳は苦手だ」のタイプ。抽象物を擬人化・擬物化しているのでちょっと修辞的な表現である。「野球は人生だ」みたいな暗喩にも少し近い(正確には違う)。これをタイプBと呼ぼう。
さらに近現代になると、「嫌い」 「好みではない」の意味でも「苦手」が使われるようになった。今回の「辛いものが苦手」 「ホラー映画が苦手」のやつである。「嫌い」 「好みではない」とそのまま口に出すとニュアンスが強すぎるので、言い換えてニュアンスをマイルドにしている。これをタイプCと呼ぼう。
タイプCの使われ方はタイプAととても似ているが、タイプAには「好き/嫌い」の判断はなくとっつきにくいだけであるのに対し、タイプCは明確に「嫌いだが嫌いとは口に出しにくいケース」にだけ使われる。
そして、「得意だ」は「その行為を上手にできる」という意味なので、対義語が「得意」になるのはタイプBだけである。「水泳は苦手だ/得意だ」は両方とも成り立つ。タイプAやタイプCでは本来は成り立たないはずだ。しかし今、タイプCの対義語としての「得意」が新たに登場した。「得意」は、「好き嫌いという文脈においてポジティヴなほう」を表す言葉というポジションを得たのである。これは辞書にはまだ載っていない用法だ。
言葉は生き物なので、時代とともに新たな意味や用法を獲得していくことはよくある。新しい「得意」は、「パクチーが得意じゃない」のように否定とセットで用いられるのが普通だった。しかし近年ではいよいよ肯定形として「レバーが得意です」のように使われることさえ出てきた。「苦手の対義語」として登場した用法なので、この「得意」は「問題なく食べられる」の意味なのか、「好物だ」なのかは今イチ判然としないが。
この一風おかしな「得意」が成立した背景をもう少しだけ掘り下げてみたい。
タイプCの「苦手」は「嫌い」のマイルド化、つまり婉曲表現だと述べた。
「嫌い」だと直接的すぎるし、「好きじゃない」(対義語の否定形)と婉曲にしてもまだ表現が強く感じるのだろう。
(ちなみに対義語を否定形で使うとニュアンスが弱まる。「ヘタ」よりも「上手くない」のほうが少しニュアンスが弱い)
そこで、好きか嫌いかをはっきり言わない「苦手」に言い換えれば、少し丁寧な感じが出るし、出された料理に対しても「嫌い」よりも失礼がない、ということを誰かが発見したのだろう。
そもそも食べ物の好き嫌いはそれがあることじたい少し恥ずかしいことなのだ。アレルギーを除けば何でもおいしく食べられることこそ「大人として成熟した味覚」だとする社会通念がある。「ピーマン嫌~い」と口に出すのは子どもっぽい仕草とみなされている。「苦手」は、失礼さや子どもっぽさをわりとナチュラルに糊塗してくれる便利ワードだったのだ。
ニュアンスを薄めたくて婉曲に表現していたことも、長く使われるうちにやがて婉曲効果が薄れ、本来の意味と直結してきてしまうのだ。
「嫌い」を曖昧にぼやかしていたはずの「苦手」も、婉曲効果が薄れてくると再び「嫌いだ」と言っているも同然になってしまう。使用を避けたくなってきたわけである。
「好きじゃない」でニュアンスを弱めるのはどうか。いや、好きか嫌いかをはっきりさせたくないのだからこれは使えない。
そこで咄嗟に捻り出したのがタイプBの対義語の否定形、「得意じゃない」だ。ワンチャン気持ちは通じるっしょ、いちおう対義語だし。
そういう経過じゃないかなあと思う。