杜子春 (中国・隋) - この落第書生が唯一忘れることの出来なかった『人の心』とは? 、とそれはそれとして、Grok、使えるわ
杜子春 (中国・隋) - この落第書生が唯一忘れることの出来なかった『人の心』とは? 西郷どん Grok 嫁入りに苗木持ってく風習 篤姫 Grok、使えるわ 藤子・F・不二雄SF短編ドラマ 旅人還る 喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲、愛 人の持つ七つの感情、喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲、愛 唐『続玄妖録』 杜子春 愛だけは忘れる事ができなかった サディズムに花束を! 齋藤杏花 (さいとうあんな) 齋藤杏花 大河ドラマ
西郷どん だったかな?
いえいえ、のっけからイミフな独白、スミマセン、、、
ああ、やっぱGrokなるもんに嵌っちまいましてね。
これど忘れしたもんを思い出すのに最適だわ。
ああ、嫁入りに苗木持ってく風習が、どっかにあった、その心は死後荼毘の薪にするため…
これをいつだかの大河でみたような気がしたのが前から気んなってて、聞いてみたんですわ。
即答に拠れば、愛媛県今治市周辺にありと。大河で描かれてそうとはいってましたが、特定はありませんでした。
そこで、今度は人間の頭で考え出したってわけです。
ねえ?西郷どんなら篤姫の将軍家輿入れの支度をしてましてね。
その途中で出てきた逸話だったか?
いえいえ絞れてきたんで、程なく答えも出ることでしょう。
実際、このGrok、使えるわ。
もうひとつ、変化球のやり取りを記しときます。
twitter改メXで、真面目な意見を含むポストをすると『攻撃的』ってレッテルを貼られてしまうのは何故なんでしょう。一部の者に不快な思いをさせる言論表現をも含めて保障されるのが言論表現の自由と心得ますが。
回答
X(旧Twitter)で真面目な意見を述べたのに「攻撃的」とレッテルを貼られる理由はいくつか考えられます:
文脈の欠如:SNSでは、投稿の文脈が伝わりにくいことがあります。特に文字数制限があるため、ニュアンスや意図が誤解されることがあります。
感情的な反応:オンラインでは、意見が感情的に受け止められることが多いです。特に、敏感なトピックに関する意見は、相手の感情を刺激しやすく、「攻撃的」と見なされることがあります。
プラットフォームのアルゴリズム:Xのアルゴリズムやモデレーションシステムが、特定のキーワードや表現を「攻撃的」として自動的にフラグ付けする場合があります。これは、プラットフォームがコミュニティガイドラインを守るために行うものですが、誤検知が起こることもあります。
意見の対立:特に政治や社会問題に関する意見は、意見が対立することで「攻撃的」と感じられることがあります。特に、自分の視点と異なる意見が「攻撃的」と誤解されることがあります。
過敏な社会状況:近年、社会全体が多様性やインクルーシビティに敏感になっている中で、何が「攻撃的」かという基準も変化しています。一部の人々にとって不快な表現が即座に「攻撃的」と見なされることが増えています。
言論の自由については、確かにあなたの言う通り、他者に不快感を与える可能性がある言論も含めて保障されるべきです。しかし、プラットフォーム上では、ユーザーの体験を保護するために、一部の制約が設けられることがあります。これは、自由と規制のバランスを取る難しさを示しています。
改善策としては、自分の意見を述べる際には、可能な限り丁寧な言葉遣いや明確な文脈の提供、そして反論や批判に対しても敬意を持って対応することが重要です。また、特定の用語や表現が誤解を招く可能性がある場合には、それを回避したり、注意書きを加えることも有効です。
おっとぅ!長くなりました。
噺行きましょう。将に昨日の続きになります。
無限の大宇宙に負けず劣らずの広さを誇る人の心の小宇宙…
人の持つ七つの感情、喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲、愛。
私・齋藤杏花 (さいとうあんな) が、これを読んだのは杜子春ででした。
ちゃう、ちゃう、ラノベ化された芥川でない、唐の『続玄妖録』にある原作です。
そこには子春が北周から隋に掛けての実在の人物であったことが記されてます。
『サディズムに花束を!』への投稿は未だ復元してませんでした。
杜子春 (中国・隋) - この落第書生が唯一忘れることの出来なかった『人の心』とは?(2006年)
意外なことに、杜子春は実在の人物だった。
北周から隋にかけての人である。
さて、論に入る前に余談を。日本ブログ村に関してである。
このところであるが、掲示板上において代表の方のコミュニケーションの機会を持った。
人間賛歌… 人の持つ心の素晴らしさということで、共感できる部分を見出せたことは幸いである旨を報告する。
先様であるが。
どうしても、お立場の関係で玉虫色発言とならざるを得ないのだが、それはそれで意義はある。
ちょうど、中国落第書生・杜子春の伝記を親子情話に脚色し、短編に仕立てた芥川龍之介・代表作の如くに。
さて、本論に入ろう。
伝記というよりも伝承か?
余りにも有名な芥川の小説には触れるまでもなかろう。
杜子春は、打たれながらも恨み言ひとつ言わず息子のことを思い遣った母に感じ入り、約束を忘れ口を開いてしまった…
このクライマックス部が、実は原作からは離れた脚色なのである。
原作を読むに。
責め苦を受けたのは両親ではなく、彼の妻である。
そして子春は(道士との約束どおり)口を開こうとしない。
妻はなじる。ふつつかながら10年も連れ添った妻、別にひれ伏して命乞いをしてくれといってるのではない、たった一言発してくれれば自分は責め苦から解放されるのに、それすらしてくれないのか?、と。
このように原作では情話では終わらせず、更に話は続くのである。
後先になったが、眼前で妻がなぶり殺しにされる場面では、子春は未だ存命だ。(攻め立てているのは閻魔ではなく、魔神将軍)
その後、彼は切り殺され、地獄へと、閻魔王のもとへと赴くのである。
一通りの地獄責めのあと、匙を投げた閻魔は子春を現世に生き帰させる。但し、陰の気を受けた賊であるから女に生まれかわらせられる。
こうして、女に生まれ変わった杜子春は生まれつき病気がちで、苦しみの絶えることはなかった。それでもどうしても声が出ない。
やがて成長して絶世美女となった彼は、郷士の下に嫁ぐ。子供も生まれて仲むつまじく暮らしていたのであるが。
ある日のことだ。
子供を抱いている子春に夫が話しかける。勿論、子春は黙ったまま。
とうとう、夫はかっとなった。
「男たるものが(美貌を鼻にかけた)妻にバカにされるくらいなら、子供など持たぬほうがましだ!」
そういうなり、子供を石の上に叩きつけてしまうのである。
無残にも頭の砕け散った子供の姿に、杜子春は道士との約束を忘れ、声を発してしまうのである。
「あっ!」
その「あっ!」の声が終わるか終わらないかのうちに、子春の身体は元居た道士の小屋に戻っていた。
実験は失敗。
つまり彼の心は、喜、怒、哀、懼(く)、悪(お)、欲の6つまでは忘れることが出来た。最後の一つ、愛だけは忘れることができなかったのである。
いかがであろう? そもそもの杜子春説話を掻い摘めば、かくの如しだ。
上記の七文字、これが人間の持つ感情の妙味だと論者は思うのだ。
非常に矛盾的、到底理屈や言葉などでは現せるのではない。
そして、子春が忘れることができなかった最後の一文字…
これこそが、矛盾の最たるものと言えよう。
このブログの趣旨に通じるところも大きい。既に多くの人物で…
かく言った意味で「SMは愛」というのであるなら、論者も賛同する。
どうです?
人の心の小宇宙なんて、柄にもないキザったらしい台詞のニュアンスが少しは伝わりましたでしょうか?
図らずも、無限の大宇宙から還った旅人の終着点もまた、愛でした。